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あとがき


自叙伝を書こう、というアイデアを実行できたきっかけをくれたのは、友人でもあり、これからのわたしの表現の場を考えていく第3の目となってくれた友人、ケイトちゃんでした。

わたしはケイトちゃんにブランディングをお願いすることにし、イタリアに行って写真も撮ってもらいました。(イタリア🇮🇹のことについてはまた書きます)

そして日本に帰ってきてから「今のさゆりさんをみてこれまでのストーリーを知りたい人はたくさんいると思うよ。」という言葉に後押しされて、2ヶ月弱かけてメモに書き始めました。

今のわたしに至るまでに紡がれた人生の様々な記憶をひたすらに書き出していく作業は、「わたし」という人間をわたしが明らかにする作業でした。その先に見えてくる何かがあるかもしれないし、ないかもしれない。それでもとにかく書いてみようと思っていました。

けれど、伝えたい、知って欲しい、というかつてのわたしを突き動かしていたモチベーションはなくなっていました。だからこそ、この先のことが書き終わらないと分からないなと漠然と思っていました。

そして書き始めたら、あの日あの時の臨場感と共に、わたしの目の前のスクリーンにありありと過去の記憶が映し出されました。
辛かったことも悲しかったことも、楽しかったことも心が弾んだことも、数えきれない程に確かにそこにあるのに、その感情に飲み込まれることもなく、浸ることもなく、淡々と書いているわたしがいました。もはや、「わたしの過去の物語」というよりも、「地球で生きる一欠片の人間の物語」をわたしが聞いてそれを書いているかのような感覚でした。

そして書き終わってみて感じたのは、【その11】でも書きましたが、「よく生きてきてくれたね」でした。生きることをやめてくれなくてよかった。目を覚ましてくれてよかった。

わたしの友人であり、目にははっきり見えない世界を伝えてくれるはんちゃんに、「さゆりさんは今世では目を覚まさないと決めて生まれてきたんだよ。でも少し前にもう無理ー。もう嫌だぁー!ってぶち破って予定外に目覚めちゃったんだよ。」と言われたことがありました。
もはや納得しかありませんでした。
わたしは自分を誤解し続けなくてよかった。
世界を誤解し続けなくてよかった。

更に今のわたしが強く感じているのは、わたしがわたしのためだけに大小関わらず「アゲ」をひたすらに与えてあげたいというシンプルな一点でした。アゲを選んでいくということは、わたしの気分が良いことを選ぶということ。自分の感じていることを誤魔化さないということ。違和感を無視し続けないということ。それはその世界で生きることと直結しているのだと、確信すらしています。

わたしの気分が奥底からよかったら、それはこの世界とイコールです。アゲのある人生をひたすらに、自分をいびらずに与えていけばいい。

もうこの人生、それしかすることがないのではないのかとさえ、思っています。
苦しい、けれど自分をそこに向かわせているという理解されにくいアゲも含めて。例えばそれは、何かに向かう途中で、その道中は思い通りに進まず苦しくてしんどい、けれど、それさえもわたしのアゲのひとかけらである、みたいなことも含めて。

それまでのわたしは、ひたすらによきものを求めていました。手を伸ばしては掴み、これだと思ったものや人との繋がりに意味を与えていました。「そのままにOKを出す」という、どこかの誰かが言っていた言葉を体験なしに鵜呑みにし、

「そのままでいいんだよ」
「何も変える必要はないんだよ」
「そのままで愛されるんだよ」

それをイコール『嫌いな自分(他者を含む)を好きになる』ことだと捉えてしまっていたのでした。それが自分を受け入れることだと捉えていたのでした。

けれど、コンプレックスや劣等感は立ち向かったり克服すべきものではなく、ましてや受け入れるものでも、自己肯定感に変えるものでもない。ただ、そのままにして、それを感じている自分にOKを出してあげるだけのものだった。
そんなシンプル過ぎることだったんです。
この気づき、アイデアはわたしには衝撃で、ヘナヘナと力が抜けました。

わたしを傍目に観て、わたしにわたしが「いいじゃないのよ、その感じそりゃしんどいよね」と見守り型的OKサインを出せると、そのうちそちらに目が向かなくなり、興味が向かなくなり、いつしかそんな風に思ったこともあったね、思い込んでいたよね、とケラケラと笑い飛ばせてしまうある種のいい加減さが身についてしまうのだと、今なら言えます。

嫌いなら嫌いなままでいいじゃないか、今の自分の例えば容姿にしっくりきていないなら、そこをいっそ変えてしまって、そのしっくりきていない感をぶち破ってしまえばいいじゃないか、自分以外の誰の賛同をも得られない好奇心に身を投じさせてあげたらいいじゃないか、熱狂させてあげたらいいじゃないか、狂わせてあげたらいいじゃないか、だってその子がそうしたいって言っているのに、わたしがそれをさせてあげないなんて、ただの意地悪でしかないじゃないか。怪我したっていいじゃない、やらせてあげなよ。わたしは大丈夫よ。

わたしに意地悪されているわたしにうんざりと共に、そんな風にわたしに扱われているわたしがあまりにかわいそうに思えてきて、徐々に、少しづつ、自分への見方をひっくり返してきたのだなと思います。

私たちは何かを、誰かを信じなくていい。
信じることによる奇跡を起こす必要もないのだと思います。
今、この時空にわたしという人がここにいる。
一つの点のように見える出来事やチョイスが違っていたらわたしはここにいない。そもそも両親が生まれ、そして出会っていなかったら、両親の両親が生まれ、出会っていなかったら、そのまた両親が・・・と辿っていくと、何か一つでもそうじゃなかったら、わたしもこの今も、この世界もないのです。なんてこった!!
ということは、わたしそのものが、この世界そのものが、あの人この人が、もう奇跡of奇跡でしかなくて、奇跡でないことなど何一つないということに気づいてしまったら、そもそも奇跡って何なんw?オール奇跡で成り立っていると考えたら、はぁぁぁ…泣けてくる。

感謝をしなくてはいけないのではなく、もう感謝するしかなくなってくる。
優しくしなくてはいけないのではなく、もう優しくするしかなくなってくる。

自叙伝を書き終わって、さっぱりシンプルな爽やかさが体の中心にどんと感じられている今、「わたしが考え、わたしが決める」ことをひたすらにしていこうと思っています。

そして相変わらず、わたしはどこかいつも間抜けで、先の計算が出来なくて、スケジュール管理も整理整頓も苦手で、料理にムラがあり、転ばぬ先の杖に転ぶ、ダサめ満点なままです。おっちょこちょいで、ものをすぐにどこかに忘れてきます。
一つのことに集中していると他のことがぶっ飛んでしまいます。
けれど、そんな自分さえも、間抜けで愛おしい、という図々しさで生きています。

最後になりましたが、予想外に自叙伝をたくさんの方に読んでいただけて本当に嬉しいです。

皆さんからの一つ一つのメッセージにまじで心震えています。そして欲を言えば、もっともっと多くの方に読んでいただき、誰かの中にいる「わたし」に出逢ってくれたらいいなと思います。そして軽やかな地球人生をその「わたし」とも一緒に、ケラケラ笑い合いたいなと思っています。

ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました。
そしてこれからも面白がってお付き合いくださると嬉しいです。

Ashizawa Sayuri

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