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12月18日(1994年) 絆の復活を感じた日

 1994年12月18日(日)、浦和レッズは博多の森陸上競技場でセレッソ大阪と第74回天皇杯全日本サッカー選手権準々決勝を行い、0-1で敗れた。終始自陣に引いて守るC大阪に対してレッズは点が取れず、延長に入り攻め上がってきたC大阪にPKを与えてしまい、それが決勝点になった。

 Jリーグがスタートして2年目。レッズに対して、ここまで守備的になるチームは滅多になかった。ただ延長を含めて120分で14本のシュートを放ちながら点を取れなかったのは、やはりチーム力の無さと言われても仕方がなかった。

 C大阪はこの年、JFLで優勝。来季からのJリーグ昇格が決まっていた。
 一方、レッズはJリーグで年間最下位。時代が下っていたら、カテゴリーが入れ替わっているところだった。ある意味では入れ替え戦のような試合と言えなくもなかった。
 そうは言ってもまだJFLのC大阪には負けられないという思いはあった。

 そしてレッズには、というより僕には、準決勝まで行きたい気持ちが強かった。
 このシーズンの終盤、レッズサポーターは毎試合、応援と合わせて横山謙三監督への「ヤメロ」コールがすさまじかった。その末に、最終節で横浜マリノスに逆転負けしたときには、サポーター数十人がグラウンドに飛び降り、ロッカールームに乱入するという残念な出来事も起きてしまった。
 クラブとサポーターが紡いできた絆が切れてしまったような、いわゆる「富山の乱」が11月19日。天皇杯は、それから2週間後に始まり、初戦は専修大学に3-1で勝利。2回戦では横浜フリューゲルスを2-0で破った。その2試合では横山監督やクラブを批判するコールはなく、タイトルのためにチームを勝たせる応援にサポーターは徹していた。

 切れた絆が戻りかけている。僕はそう感じた。
 浦和レッズ元年の1992年。あの年の天皇杯では準決勝まで進み、国立でのヴェルディ川崎戦で2-2の末にPK戦で敗れたが、試合がNHKで全国中継されたこともあって、試合と応援を見て、日本全国に大勢のレッズファンが誕生した、と僕は思っている。
 あの日と同じ準決勝まで進めば、そこでの試合を通じて、クラブとサポーター、チームとサポーター、サポーター同士の絆が完全に戻り、さらに太くなるに違いない、という予感があったのだ。

 だから、何としても勝ちたい。
 その思いで博多に行ったが、その前に立ちふさがった、いや立ちふさがったのならまだいい。自陣に引きこもりっぱなしでサッカーをしてこなかった。レッズサポーターが「さくらえび!」と、腰が引けたピンク色の選手を揶揄したが、そんなことで戦い方を改めるはずもなかった。
 鹿島アントラーズやヴェルディ川崎も嫌いだったが、この日初対戦したセレッソ大阪というチームが大嫌いになった。

 最後は延長後半1分、現在京都サンガの監督をしているDFのチョウ・キジェが相手を倒してPK。Vゴール方式ではなかったので残り約13分、攻め続けたが、当然ながらC大阪の守りはますますガチガチになる。そのまま終了の笛を聞いた。レッズのシーズンが終わった。
 絆はどうなる。

 大旗を持っているサポーターが集まっているという情報が入ってきた。
 試合後、サポーター何十人かが、バスで帰っていく選手たちをコールで送り出した。来季に向けての激励だったと受け止めた。その理由は「浦和レッズコール」ではなく「浦和レッズカンペオン」だったからだ。
 遠い博多の地で、最後まで共に闘った120分が、絆を修復してくれていたと感じた。

カラー写真を発掘したので差し替えた

 さて、みなさんは1994年12月18日、何をして何を感じていましたか?

【あの日のわたしたち~浦和レッズ30年~】は、レッズサポーターのみなさんから投稿を募っています。浦和レッズ30年の歴史をいっしょに残していきましょう。詳しくはマガジン「あの日のわたしたち~浦和レッズ30年~」のトップページをご覧ください。

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