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きせい

 北陸新幹線に乗るのは今年3回目だ。
 2019年までは毎月一度、たまに二度くらい乗っていた。石川県加賀市で一人暮らしだった母のところへ行き、近況を話し、家の掃除をし、月に一度通う医院に送り、帰りにスーパーでごっそり買い物をしていたのだ。

 僕の故郷、加賀市塩屋町はJRの最寄駅「大聖寺」から6km。僕が暮らしていた高校時代までは、早朝から夜まで路線バスがあって朝夕は通勤通学、昼は買い物や総合病院への通院などに利用されていた。
 もっとも、その頃は町の中に医院も食料品店も米屋も電気屋も雑貨屋も理髪店も銭湯もあったので、大聖寺にまで行かなくとも日常生活は営めていた。町の中に無かったのは書店、食堂、喫茶店ぐらいか。

 ちなみに全校児童120人ぐらいだったが、小学校もあった。僕が小学1年生までは中学校も併設されていて「塩屋小中学校」という名称だった。給食のとき、中学3年生の女子が小1の給食当番をしてくれた記憶があるが、通年だったかどうかは覚えていない。6歳にはまだ難しいという判断だったのか、卒業年度の女子生徒に何かを学ばせようということだったのか、わからないが、それが「小中」学校だった証だ。
 もう一つ、学校の運動会の最後に万歳三唱をするのだが、音頭を取るPTA会長の「塩屋小中学校、ばんざ〜い!」という声も耳に残っている。
 この二つを鮮明に覚えているのは、小1のとき給食を配ってくれた中3女子の中に従姉妹がいたことと、PTA会長が伯父だったこと。それが理由だったに違いない。他には「小中学校」だったことを示す思い出がないのだ。
 たぶん僕が小2か小3のときに塩屋中学校は廃校になり、中学生はバスで12分ほどかかる大聖寺の錦城中学校に通うことになった。これも僕の従兄弟の年代がその第一号だったはずで、母や伯母が「たいへんだ」「かわいそうだ」と話していたのを覚えている。それでもバスはちゃんと出ていたので、通学に問題はなかった。僕もバスで中学校に通っていたし、高校はさらに大聖寺からJRで通学していた。

 いま塩屋町の中に、かつての商店はほとんど存在しない。
 だから食材を買うのに大聖寺のスーパーまで行く必要があった。父が存命中は車で行けたが(父は86歳まで運転していた)、2013年に父が亡くなってから、母は僕の従姉妹や従兄弟に乗せてもらっていた。月に一度の通院もお願いしていた。
 母からすれば姪や甥ということになるが、いつもいつもそれでは申し訳ないから、僕が月に一度だけ帰省することにしたのは2017年くらいだったろうか。記録してあったパソコンが壊れたため、正確にはわからない。

 母が亡くなったのが2019年の7月。
その後も四十九日や納骨などで、何度か帰省していたが、2020年からはコロナ禍もあり、実家に誰もいなくなったので、帰っていなかった。
 今年の1月、富山で北陸レッズサポーターの新年会が3年ぶりにあったので参加し、実家にも寄って墓参りをしてきた。
 今年の4月、高校の同級生たちと、やはり3年ぶりに会って飲んだ。同窓会の相談という名目だった。

 そして今日は高校の同級生が団長?をしている金沢室内管弦楽団の定期演奏会があり、それに向かっている。これもコロナ禍があって、行くのは初めてだ。今日は日帰りなので、塩屋までは足を延ばせない。途中の小松まで行くにとどめる。

 でも来週、また同窓会の「ちゃんとした」打ち合わせが金沢であるから、その時には実家の様子も見てきて、父母の墓にも参るつもりだ。

 母がいなくなったことと、コロナ禍で遠ざかっていた石川。
 コロナの脅威が皆無になったわけではないが、またこうして頻繁と言っていいくらいに北陸新幹線に乗るようになった。かつての日常が戻ってきたのは喜ばしい。

 規制がなくなって帰省ができる、ということか。

 育ててくれた母はいないが、少年期を共に過ごした友人たちがいるのは、僕にとって十分、帰省の理由になる。

 65歳を過ぎて「大人の休日ジパング」会員にもなったし(笑)。



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