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「自分のチーム」だと意識した日

 僕が初めて浦和レッズの試合を「ちゃんと」見たのは1992年9月5日の大宮公園サッカー場、Jリーグヤマザキナビスコカップ予選リーグ開幕戦の三菱浦和FC対東日本JR古河SC。現代語訳(笑)すると浦和レッドダイヤモンズ対ジェフユナイテッド千葉だ。
 レッズ本来のホームスタジアムとなある浦和市駒場競技場は、Jリーグ仕様に改修中で、この年は4回のホームゲームを大宮公園サッカー場で3回、川越運動公園陸上競技場で1回行ったのだった。
 振り返るといろいろなことの原点がこの試合だったと思う。

 

原点その1・入場者

 順不同に思いつくまま並べると、まずこの日は4,934人の入場者があった。大宮サッカー場の収容人数は約1万人だったが、それは立ち見席の両ゴール裏がパンパンに詰まった状態。バックスタンドはベンチシートだったから、6人が座るスペースにゆったり3人座っていればふさがる。だか収容人数の約半分の入りだったが、満員に近く見えた。そしてスポーツ観戦は大勢のスタンドの中で見る方が間違いなく面白い。特に18時からのナイトゲームでもあり、この日来場した人たちは大いに興奮して、「また来たい」と思ったに違いない。

原点その2・迫力ある試合

 次に月並みな言葉だが、試合そのものの面白さ。ジェフがパベルのゴールで先制し、0-1で折り返したが、レッズも後半望月聡が同点ゴール。その後ジェフがまた勝ち越すが、柱谷幸一のゴールで再びレッズが追い付くという、白熱した展開だった。ちょうど、GKへのバックパスが禁止された年だったから、スピーディーさも増していた。サッカーを見慣れている埼玉の人たちも、「これがプロか!」と感心したに違いない。

原点その3・俺のチーム

 試合は延長あり、PK戦ありの完全決着制がいきなり適用されたのだが、延長前半3分にあっけなく終わってしまった。ジェフの吉田暢がレッズの守備ラインを破るパス。ラインの裏にジェフの選手がいたのでオフサイドだと思い、レッズの選手たちが一瞬プレーを止めた。しかし、吉田は自分が出したボールを自分自身で拾いレッズゴールへ運び。最後はパベルが蹴り込んだ。Vゴール(当時の呼称は「サドンデスゴール」)。
 へっ? もう終わり?
 オフサイド疑惑をめぐるモヤモヤもあったが、90分の激闘の後、延長がたった3分で終わってしまったあっけなさに戸惑った。そして悔しさがこみ上げてきた。昔のプロレスが大好きだったが、レフェリーの沖識名が外人レスラーの反則を見逃し、それで吉村道明が痛めつけられて負けたときのような気持だった。
 この憤りはどこから来るのか。

「残念」ではなく「悔しい」

 あ、俺は本気でこのチームに入れ込んでる、と気が付いた。
 自分のチーム、と呼べるものがあったのは、それまで自分が属した部活やクラス対抗の球技大会、運動会だけだった。高校野球や高校サッカーは石川県の高校を、浦和に住み始めてからは埼玉県の高校を心情的に応援していたが、試合に行くほどではなかった。
 自分が所属しているわけでもないスポーツ団体を、心の底から応援する気持ちになっているのは、初めてだったのではないか。負けて「残念」ではなく、悔しくてたまらない帰り道だった。

 このナビスコカップは、翌年から始まるJリーグの前哨戦として行われたもので、間違いなくJリーグ人気の下地を作ることに成功したのだが、成功した要因はいろいろある中で、僕が最も重要ではないかと思われるのは「ホームタウン」を前面に出すことで、ホームを置く地元の人たちがかなりそのクラブを「自分のもの」と意識したからではないかと思うのだ。
 なぜかと言うと、当時の日本にお金を払って試合を見に行くサッカーファンがあんなにいただろうか、と思うからだ。「自分のチーム」が他所のチームとガチの戦いをする。見に行く側はバーチャルな闘いをした気分になる。勝敗によって、気分が大きく変わるが、勝ったら勝ったで、負けたら負けたで次も行きたくなるし、次は誰かを誘いたくなる。
 そんなことで、翌年のJリーグが「とりあえず」成功する準備がしっかりこの年にできた。
 
 その最初の試合が1992年9月5日だった。

 そうそう。この日は浦和レッズ・オフィシャル・マッチデー・プログラム(MDP)の第1号が発行された日でもある。
 そして今でも僕はMDPの製作に携わっているわけで、自分の人生が変わった日と言っても過言ではないな。

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