二 信濃川右岸

 父が新潟市に転勤になり、一家が転居したのはその年度の途中だった。新しい住居は信濃川の右岸、昭和橋の南の袂近くの社宅で、当時の家族の用語では「昭和橋」または「下所島」の社宅と言ったが、その地域は、今の住居表示では「下所島」に含まれていない。二軒ずつ隣り合った長屋風の建物が五、六棟並ぶ社宅の南西端の一軒だった。長屋形式も社宅も初めてで、二部屋ある住宅に住むのも初めてだったかもしれない。南向きに小さな庭を挟んで道路に面しているその家は、玄関から入って右側に確か六畳と八畳が並び、家の前面、道路側に台所と風呂場があった。部屋が二つ並んだ北側に廊下があり、そのガラス戸の外側には、板塀で囲まれた、日当たりの悪い小さな庭があった。玄関の左奥にはトイレがあり、その北側が板塀につながっていた。
 春生は転居前には新井市内の幼稚園に通っていたが、新潟市に転居後は、そこから通える幼稚園との距離が以前よりも遠くなるのと、年度の途中から転入してもしようがないという親の判断などから、結局、転居後は家にいることになった。だから春生は、自分が「幼稚園中退」で、小学校入学までの半年は「小学浪人」だったのだと、後に話のネタにすることがあった。
 春生は新潟市に転居してから半年後に小学校に入り、それ以降は新潟市内で六カ所転居して、高校卒業と同時に東京に出た。その時に一緒に住民票も東京に移し、その後は住民票を新潟に戻すことはなかった。しかし、新潟市が自分の出身地だと一応は言えるぐらいに、小中高校時代を連続して十二年半を市内に居住したことになる。
 兄の秋生は、小学校三年生の年度の途中での転校だったから、春生は小学校に入学するまで、幼稚園入園以前のように日中は一人で遊んでいた。社宅があるのは、市の中心部がある信濃川の左岸ではなく、右岸だったので、その辺りは住宅地とは言ってもまだ空き地や原っぱ、小さな工場などがあった。信濃川から南の方へ少し行くと広大な水田地帯だった。
 春生たちが転居した社宅の裏に、草地と道路を挟んでその向こうに信濃川が流れていた。
 そして、転居したばかりの春生がとりあえず一人で行けて、虫捕りができる近くの草むらは、社宅の裏の空き地にチキチキバッタがいるぐらいで、他には、昭和橋のたもとにある自動車教習所の外縁の草むらぐらいだった。あるとき、その自動車教習所のフェンス際の草地に、馬が繋がれていたことがあった。春生は以前、少しは馬に親しんでいたことがあるので、馬を見かけたときは嬉しかった。だから、辺りの草むらから草をたくさん集めて食べさせることにした。馬は、春生が草を集める様子をじっと見ていて、それを足下に置いてやると首を垂れてゆっくり食べ始めた。時々頭を上げて、春生を横目で見ながら口をもぐもぐ動かした。
 たぶん、そこに転居した直後のことだったと思う。社宅と信濃川の間の草むらで一緒に虫捕りをしていた秋生が、尻尾でつながっている二匹の小さな蝶を虫捕り網で取ってきて、春生が持っている竹製の虫かごに入れた。そして、
 「珍しい蝶々だから逃がすな」と春生に言い渡したが、もちろん秋生も、それが交尾している蝶だとは知らなかったのだろう。その「珍しい蝶」は虫かごの底に落ちたまましばらくぺたっと横たわっていて、すぐに二つに離れ、相次いで竹製の虫かごの縦格子の隙間からひらひらと飛んで逃げてしまった。春生が空の虫かごを見せると、秋生は、
 「何で逃がした! 同じ蝶々を捕まえて来い!」と声を荒げた。小指の爪ぐらいの小型の灰色の蝶で、合体したままでいても隙間から楽々抜けられるのは一見しただけで明らかだった。もともとそんな縦格子の虫かごに蝶を入れておくのが無理だった。
 信濃川はやはり大河で、川岸は、厚いコンクリート製の堤防でできていた。その信濃川の、春生たちの社宅の近くの川面には、川岸から川の中央に向かっておそらく十数メートルほど突出した幅二、三メートルほどの丸太の構造物があった。それは、数十センチ間隔で丸太の杭が規則正しく川底に打ち込まれ、各杭の間にも水面と平行に丸太で縦横に梁のようにしっかり組み合わされて、流れや波に逆らうように屹立していた。春生たち兄弟も、近所の子供たちも、それが何なのかは分からず、何と呼んでいたかも記憶にないが、それは堤防強化と護岸を目的とした蛇籠や波消しブロックと同類のものだったかもしれない。あるいはそれは、近くの巨大な木造の昭和橋ができる以前のその昔、かつて渡し船時代の桟橋か船の繋留場の跡だったのかもしれない。桟橋の痕跡だとすると、その構造物の上面に厚い板が張られていて、人が歩いたり積み荷が上げ下ろしされたりしたはずだが、その上板はすでに失われていたことになる。それと同じような構造物が他にも信濃川のあちこちの岸辺にあったのかもしれないが、ともかく春生が知っているのは住居近くの川岸のそれであった。
 今、仮にそれを桟橋と呼ぶが、春生たち子供は川岸のその桟橋でよく遊んでいた。太い杭の間を縦横に渡された丸太の丸みのある濡れた側面の上を歩くのは滑りやすく危険だったので、特に川底に打ち込まれた太い丸木の杭の、輪切りにされて年輪の分かる平らな断面を主として歩いた。歩いたと言うより、次々と飛び移って移動した。
 桟橋の岸辺近くの部分では、しっかり組まれた杭の間に砂の川底が見え、水草が茂って流れに揺れていた。暖かい日差しが注ぐ時には小魚が群れ泳いでいて、それなりに自然が豊かに感じられた。
 桟橋は先端部に近づくにつれ川底も深くなり、川水の濁りもあって何も見えなくなり、波の動きを見ていても流れが速いのが分かったが、それでも時々川を泳いでいる人がいた。あるとき、その桟橋で遊んでいると、上流から泳いできたらしい人が、泳ぎながらそばまで近づいてきて、
 「ここは、どこだろう?」と息を継ぎながら大声で聞いてきたことがあった。子供たちの中で年長のものがこちらの住所を言ったが、余りぴんとこなかったらしく、何も言わずにそのまま下流の方に泳いで行ってしまった。
 ある日、秋生と一緒に虫取り網を持たずに川沿いに出た時に、桟橋のすぐ脇で大きな鯉が水面に顔を出して泳いでいるのを見つけた。兄は、春生に見張らせて家まで走って網を取ってきて、弾む息を殺して巧みにその鯉を掬い上げた。その重みで垂れ下がった網を二人で大騒ぎしながら家に持って帰り、驚いた母がそれを慌ててバケツに移した。そして、近所の同じ社宅で鯉の調理ができる奥さんに頼みにいった。あとで兄弟でその家に見に行くと、風呂場の浴槽を臨時の水槽代わりにして水が張られ、鯉が口をぱくぱくとさせながら泳いでいた。その日の春生の家の夕食には、運ばれてきた鯉(こい)濃(こく)が出された。
 桟橋の丸太の間で大きな亀を見つけたこともあった。その亀は、甲羅の端に穴が空いていて、どこかで飼われていたのに逃げたか放されたかして、何年も川で暮らしているのではないかと子供たちは想像して、そのまま放してやった。

 信濃川の右岸をいつもより遠く下流に進んで行ったところに、別の形の、かつての船着き場と覚しき場所もあった。春生がここまで来たのはたぶん一回か二回ぐらいだった。そこは荷物船の引込口だったのか、コンクリートの堤防が切れて、岸にたぶん二、三十メートルの深さで切り込みがあり、その両側はきっちりした石組みで階段状に作られていた。たぶん、もう使われていない場所で、水が澱んではいるがそれでも川底が見えるくらいの浅さだったと思う。春生がそこに行ったのは、その階段の石組みの隙間に沢ガニがたくさんいたからだった。カニは時々姿を現して横歩きに進んで行くが、捕まえようとするとすぐに近くの石段の隙間に入り込んでしまう。のぞき込むと確かに奥に潜んでいるカニが見える。しかも、あちこちの隙間に結構多くいるのも見える。這い出てくるのを捕まえようとするが、捕まえられない。春生は焦れて、細い枝を拾って隙間を突っつくが、カニは辛抱強く耐えて、おそらく体や手足に傷を負っても出てこない。結局諦めるしかなかった。

 同じ社宅の子供たちが堤防近くの草むらに集まって、ただたむろしていた。 その日は曇りで、空全体が薄ぼんやりしていた。子供たちの頭も薄ぼんやりして、何をして遊ぶか思いつかなかった。春生より年上の子供が突然皆の前に飛び出して、
 「どうするんだ?」と叫びだした。「ああ、何かして遊びてえよ、こんな青空なのに!」と両手を上げて天を仰いだ。
 春生は、彼がこの曇り空を青空だと言うのに驚いた。人によっては、これを青空だと言うのか、と春生は考えた。もっと年上の子たちは、
 「青空というのが分からないんだ」と笑った。確かに、青空など垣間見えもしなかった。ただ均一な灰色の雲がむらなく全天を覆っていた。

 昭和橋より下流の一区画は自動車教習所で、さらに一区画下流には、堤防沿いの道路に面して小さなオフィスの入り口があった。あるとき、近所の子が、そのオフィス入り口に、
 「恐いカマキリがいる」と話していた。
 春生は意味がよく分からないまま、さっそく一人で見に行った。確かにカマキリが、オフィス入り口のポーチのど真ん中に構えていて、春生が寄っていくとさらに身構えて攻撃姿勢をとった。よく見ると、尾の先から黒い線状のものがゆっくりと動きながら出ているところだった。春生はしばらく見ていたが、やはり不気味なのでそこを離れてしまった。

 社宅近くの堤防から下流に少し行くと工場があり、ヘドロのような濁った排水が川に流れ込んでいた。川の流れで常に拡散されるものの、そこから先の一角は汚水が滞留しがちだった。
 この年の夏、春生はその近くで信濃川に落ちて、危うく溺れそうになった。
 兄の秋生が自宅にいて夏休みで朝の勉強中だったのか、春生は一人でたいした当てもなく外に出て、信濃川の堤防の上を川の中を覗きこみながら歩いていた。川下の方に向かって進んだ。コンクリートの堤防には時々ヤゴが上(のぼ)ってくることがある。トンボのヤゴはセミの幼虫と違って動きが早かったが、これは捕まえずに見ているつもりだった。堤防の壁には何かしらくっついていて、ヤゴの抜け殻とはっきり分かるものもあった。
 春生は何も考えず、堤防の上を歩いて工場近くまで来ていた。そして、何気なく堤防の側面を覗きこんだ時だった。踏み出した左足が空(くう)を踏んで、突然、春生は川に落ちてしまった。水に没して、慌ててもがいて、水面に顔を出すことができたが、それも一瞬で、また沈んでしまった。工場近くのヘドロだらけの水が重くて、身動きが取れなかった。足も届かなかったが、偶然、手がコンクリートの壁に触れた。そこに何かがぶら下がっていた。とっさにそれをつかみ、夢中でたぐって何とか堤防の上に這い上がることができた。春生が溺れずにすんだのは、堤防の上からたまたま垂れ下がっていた縄状のものをつかめたからだった。
 春生が汚れた水を全身から滴らせて堤防の上に立っていたところを、ちょうど通りかかった女の人が見つけた。町内の人で、見たことのある小母さんだった。彼女は春生に何があったかすぐに理解して、家に連れて行ってくれた。母は驚いてその人にお礼を言った。そして、びしょ濡れの春生を叱りながら、勝手口の外で服を脱がせて、すぐ脇のお風呂場から残り湯を持ってきて全身にざぶんとかけた。

 以前住んでいた新井は内陸で山に近く、冬は大雪だが、夏にはトンボやセミがほぼ無尽蔵に飛び交っていた。新潟市は、平野のど真ん中で直接海に面した河口の都市だった。冬は積雪がほとんどなく、湿った雪か雨が降り、雪は降ってもすぐに消えてしまう。夏も湿度はかなり高い。社宅の周辺には、トンボはいたが鬼ヤンマや銀ヤンマのような大型トンボはほとんど見かけない。猩猩トンボのような豪華赤トンボもやはり稀で、アキアカネがほとんどの中に、中型トンボの塩カラや麦ワラも混じっている程度だった。それになんと言っても、その辺のトンボは新井のトンボよりも過敏で用心深く、春生が近づこうとするとすぐに舞い上がってしまうので、手づかみではなかなか捕まえられない。木立も少ないから、セミの鳴き声もあまり聞こえなかった。どういうわけか、ときどきアゲハ系の大きな蝶々が飛んでいた。
 しかし、特に兄が一緒の時などに、信濃川から遠ざかって南の方の水田地帯に行くと、その用水路は、カエルやザリガニ、小型の川魚、それに水生昆虫などの宝庫だった。近所の子供たちとも遊び回ったが、ザリガニの足の肉でカエルが飛びついてき、カエルの足の肉にザリガニがハサミでぶら下がってきた。カエルやザリガニは珍しくもなんともなかったから、ただ、たまに遊ぶだけのしかけだったが、とても面白かった。魚は、メダカやドジョウは当たり前すぎて捕らなかった。主にフナやコイなどだが、フナもそれほど珍しくはなく、しかし、小さくても風格があるコイは、そんなに多くはいなかった。珍しいのは、明らかにフナとは違うハゼや虹色のタナゴ、さらにトゲウオなどまで捕れたことだ。
 タナゴやトゲウオは、ここでしか捕った記憶がない。しかし、ハゼは、以前から愛嬌のある顔つきや体型でよく知っていた魚で、後にテレビでムツゴロウの映像を見たときも、そのハゼ系の顔に懐かしさを感じた。それぐらいにハゼは、ごく幼い頃にどこか別の川で砂遊びをしながら何匹も捕まえて馴染んでいた記憶がある。いつ、どこの川でだったか覚えていないが、新井市の河原で父母といる春生の写真が残っているので、たぶん、そのときだったのだろう。
 これらの川魚たちは、バケツや瓶などに入れて家に持ち帰って裏庭の小さな池や家の中の水槽などに入れるのだが、すぐに死んでしまった。やっていることは小魚の大殺戮のようなものだった。
 トゲウオは、死んだ後に裏庭の堆肥の上に放置していたらいつのまにか乾燥して干からびていた。その干からびたトゲウオを秋生が見つけて、板塀に投げつけた。トゲウオは手裏剣のように回転して背中のトゲが板に突き刺さった。
 驚いたのは、バケツの中で最初はオタマジャクシが混ざったのかと思っていたのが、泳いでいるのをよく見ると、頭と尾の形が違っていて、ナマズの子だということに気がついた時だった。これは水槽に入れて春生が時々餌をやっていたのだが、そのうち餌やりを忘れて死なせてしまった。
 ライギョは、この頃は信濃川で見かける程度だった。魚としても異彩を放っていて、その名の通り、まさに雷を絵柄にしたような黄色の網目紋様が覆っていて、その網目模様が蝮を思わせる魚だった。ただし、繁殖力が強いせいか翌年ぐらいには小型の雷魚が川面にたくさん群れていて、希少価値もなく、魅力ある美しい魚とも言いがたかった。習慣的に捕まえてはすぐに放した。

 兄の秋生が親から注意されたり叱られたりするのは、思い出す限りずいぶん早くからで、ごくごく日常でいつもあることだった。秋生が叱られているその原因の一つ一つを春生はほとんど覚えていないが、言葉や行動が常識的穏やかさから逸脱していることがあまりに頻繁で、しかも逸脱の度合いも大きかった。時にはかなり強く叱られていることもあった。
 この頃、母が息子二人に、
 「あんたたちは兄弟なんだからお互いに助け合ったり思いやったりしなければ駄目だよ。何かあったら守ったり庇(かば)ったりすることも大事なんだからね」
と言ったことがあった。それは確かに心すべきことだったので、春生なりに納得して頷いた。それからまもなく、兄が何か悪いことをして、母がひどく叱っていた時があった。裏庭に面した縁側で、日が暮れて、部屋の中は電球の明かりが付いていた。その時、兄が叱られた原因が兄自身にあることははっきりしていたから春生は少し迷ったが、母の言葉が頭の中にあったので、思い切って母の後ろから腰に抱きついて、
 「兄ちゃんを怒ったらだめだ」と言った。母は驚いて春生の手をふりほどいて振り返ったが、逆光の中で母は明らかに鼻白んだようすで、兄を叱るのをやめた。
 後日、母が、兄に、
 「春生が『兄ちゃんを怒るな』と止めたんだよ」と言っていた。
 その後はしばらくの間、母が兄を叱ることは少なくなった。しかし、母も春生もいつの間にかまた元に戻っていた。言葉や行動に問題があった秋生自身が変わることは、なかった。

 春生は、子供の頃、空を飛ぶ夢をよく見た。しかし、「飛ぶ」と言っても、鳥のように頭を先にして飛ぶとか、その頭の先にさらに腕を突き出すスーパーマンのように、流線型になって飛ぶとかするのではない。春生の場合は、仰向けに宙に浮かびながら、腰と膝を曲げた姿勢を取って緩く揺れながら移動していくのだ。それは、ちょうど背を倒した安楽椅子に寝ながら移動しているような姿勢だ。
 空を飛ぶ時のこの姿勢は、あるいは、うんと小さかった頃、遊び疲れて寝落ちしてしまったところを親に抱き上げられて寝床に運ばれていくときの浮遊感が原型なのかもしれない。だから、特に幼い頃の夢は、仰向けとはいえ、時としては窮屈な、無理な姿勢で飛んでいたのだろう。

 この社宅に転居した直後ぐらいに、たぶん父は仕事に忙しかったらしく、夜遅く家に帰ってきて、そしてたぶん朝も早く家を出るようになっていたのだろう。春生はその頃、父とほとんど会う機会がなかった。というのは、あるとき、家にいる父を見かけて、〈この人は誰だろう〉と不思議に思うことが何度もあったからだ。やがて、なんとなく、その人物が父であることを再認識したのだが、当時の春生の年齢を考えると、父の顔を忘れたというのはきわめて奇妙である。それまで、父が研修で数ヶ月不在だったときも、久しぶりに帰宅した父を春生が不思議に思ったことはなかった。おそらく、かつては一部屋の住居で、何をするにしても家族が目に見える場所にいたのに対し、社宅が二部屋になり、ただでさえ忙しくなった父が、空間的にも時間的にも家族との接点が少なくなったことに原因があるのだろう。ともあれ、春生は、父に対してその頃感じた奇妙な違和感を、後になってもありありとした実感を伴って思い出すことがあった。

 「小学浪人」中の春生は少し太り気味になった。父から「太った」と言われることが時々あり、
 「いや、体格がいいんだ」と言い返したことが何回かあった。父の実家に行ったとき、その話を父が祖父に伝えて、
 「この子は『太った』と言うと機嫌が悪くて、『体格がいい』と言うと喜ぶんだ」と言った。それを聞いた祖父も大家族の他の人たちに面白がって話題にしていた。しかし、春生には父の単純化しすぎた伝え方に子供なりに不満があった。その不満は、〈それでは話のやりとりの面白さが伝わらない〉ということになるだろうか。
 春生は父が何度も春生のことを「太った」と言うので、頭をひねって「体格」という言葉を思いついて、ある時、父から言われた言葉を春生が言い直して父に返したのである。それが面白かったので、祖父に伝えるのに父なりに分かりやすく簡略化したのだろうが、春生には、父が、言葉のやりとりの微妙さが分からないか、情況を再現する正確な言葉をもっていないように思えたのだ。

 「小学浪人」中の春生は、小学校の入学が近づき、母に連れられて初めて登校して、簡単な個別面接を受けた。面接は教室で、男の人が質問をし、脇に記録を取る人がもう一人いた。春生は全部の質問に答えられたが、たった一つ、ある図形の名前だけが答えられなかった。帰りに歩きながらそのことを母に話したら、母から
 「どんな形だった?」と聞かれた。
 「三角に似た形だった」と、両手の親指と人差し指で形を作って見せた。
 「それで何と答えたの?」
 「分からなかったけど、仕方ないから、また『さんかく』と言ったんだ」
と春生は不機嫌に答えた。三角形はその前に聞かれて答えていたし、三角とは形が違うと分かっていても再び同じ言葉で答えたのが不本意だったのだ。
 「本当は何と言うの?」
 母は、
 「それは『ひしがた』だね」と言って笑った。
 折り紙でも結構遊んでいたが、「ひしがた」という言葉は確かにその時初めて聞いた言葉だった。菱餅は、男の子ばかりの一家とは無関係の未知のものだった。

 春生が入学した小学校の一年生の時の担任は、眼鏡を掛けた少し年配の女性で、音楽の先生だった。ほとんど毎日、歌の練習があった。歌集をもらって、椅子の上に皆で立たされて、大きな声で歌わされた。概して厳しめの先生で、生徒の間を歩き回り、声が出ていないと、二本指の背でその生徒の頬に軽く触れていった。
 授業では、当てられると、「はい」と返事をして立ち上がり、机の中に椅子を入れてその椅子の後ろにに姿勢を正して立ち、答える、ということになっていた。
 あるとき、放課後の解散の時、春生は先生に何か質問をされて、教えられたとおりに姿勢を正して立ち、
 「分かりません」だったか「忘れました」だったか、何か単純な言葉を答えたが、
 「返事の声が小さい」と言われ、何度も何度もやり直しさせられた。春生はそのつど返事をして立ち上がり、椅子を整えてその後ろに立ち、同じ言葉を繰り返し答えた。先生もそのつど耳に手を当てて聞こえないという身振りをした。春生は途中からおかしくなって笑いをこらえながら答えていた。先生は最後に、
 「はい、聞こえました。声がとても小さいけれど、何度聞いてもいい加減にしないで丁寧に答えるのは偉い」と褒められた。そのような気の長さ、あるいは実直さが春生の中にあるのは確かだった。

 入学して間もなくだったが、絵の授業で、家の前庭で遊ぶ春生たちと足下に咲いたチューリップの花を描いた春生の絵が、他の何人かの絵と一緒に体育館の掲示板に張り出された。春生も張り出されたその絵を見に行ったが、実は足下に描かれているチューリップは教室で春生が描いているときに先生が後ろから手を出してきて大きくたくさん描き加えたもので、春生にとっては不本意な絵だった。
 それからしばらく経って、市の中心部の白山公園で写生大会があった。学校全体でバスで行って参加したのだと思うが、兄弟で入賞したことがあった。春生はこの写生大会の後、皮膚かぶれから敗血症を起こし、長期入院していて、その欠席中に、写生大会の結果が出て、兄弟二人とも表彰された。母に聞いただけなので詳しくは知らないが、母は学校から事前に連絡があって賞状を受け取りに行き、その時に体育館での表彰式を見ていたらしい。春生の名前が特賞で呼ばれたときに、一年生の春生のクラス全員で、
 「休みでーす」と叫んだとか。その直後に四年生の兄も入選で名前を呼ばれ、兄弟そろって入賞したので、体育館がざわついていたという。
 兄は絵が好きで、確かに絵がうまかった。
 父と母は絵を描かなかったし、父は自分のことを、
 「犬の絵を描けば豚になり、豚の絵を描けば犬になる」と対句風に言って笑っていた。父は数年前にボール紙がたくさん手に入って家族用のアルバムを自作したときに、何かの飾りを元にして表紙の絵を工夫して描いていたから、器用ではあったと思う。母は書道に優れていたが、絵を描いているのは見たことがない。おそらく一家では、兄の秋生が自分一人で絵を好んで描くようになり、独自にうまくなったのだろう。兄は確かに絵の才能があったし、その影響で春生も絵を描き始めたのだと思う。

 春生は、夏になるといつも手足に湿疹が出て、
 「皮膚が弱い」「かぶれやすい」と言われていたが、小学校に入学したこの年も、夏前に皮膚かぶれを起こした。しかも、この年の皮膚かぶれは重かった。特に顔と手がひどかった。直前に家に来て宿泊していた父方の祖父が帰るときに、腫れてしまった春生の顔を見て、
 「なんだか怖い顔になってしまったな」と言っていた。確かにかなりの重症だった。
 信濃川の対岸の交差点近くにあった皮膚科の医院に通うために、当時、木造としてはかなり大きな長い橋だった昭和橋を渡った。母と一緒にその行き帰りに橋を歩いて渡った。橋の上には砂利が敷かれていて、時折自動車が通ると震動で橋が揺れ、白い埃が激しく舞った。車がすれ違えるだけの道路幅はあったが、特にバスのような大型車が対向車とすれ違う時には歩行者は欄干に体を擦りつけるようにして車をよけなければならなかった。手すり越しに頭を出して橋脚の下を覗くとはるか下を流れる川の流れが見え、そこに足下から小石が落ちて行ってボチャンボチャンと音を立てた。
 春生は母に背負われてこの橋を渡っていた記憶もあった。かなり後になってから、母にその記憶を話していたときに、
 「僕は自分で歩いて橋を渡っていたのに、その頃は何で自分で歩かなかったんだろう。すごく重かっただろう?」と、聞いたことがあった。母は、
 「あの時はあんたがひどく弱っていてもう歩けなくなっていたから」と言い、昔のことを思い出したせいか、少し声を詰まらせた。
 それではっきりと思い出した。確かに春生は、最初の頃は母と一緒に徒歩で橋を渡っていた。やがて、母に背負われて医院に通うようになったのだ。橋の上で対向車同士がすれ違う時、春生は母の背から肩越しに、橋から川面に砂利が落ちて行くのを見下ろしていた。その光景は良く思い出すが、怖かった記憶はない。いや、良く思い出すことこそが、その光景に恐怖を感じていた証なのかもしれない。
 春生は母に背負われるようになってからも、何度か信濃川の橋を渡って対岸の皮膚科医院に通っていたが、処方された軟膏を塗ってもなかなか治らなかった。そこで、父母が別の病院に往診を頼んだ。そして、来てくれた医師の判断で、即日、新潟駅近くの流作場の彼の病院に入院したのだった。
 確かにその時の症状は悪かったのだろう。顔や手足をガーゼで巻かれてミイラのようになって、黒い車で病院に運ばれ、誰かに抱きかかえられて入院した。そして診察台に乗せられ、さらに首の下に枕を当てられて仰向けにのけぞる形になり、かさぶただらけになったのどの辺りをガラス棒かメスかで強く押し当てられた。苦しかったので、
 「窒息するー」と呻いているうちに最初の治療は終わった。
 その病院に春生はどの位入院していたのだろう。初めのうちは朝晩、片腕に注射されていたのだが、それが両腕になり、やがて両腕が腫れて注射を打つ場所がなくなって、途中から両足の太ももに変えて交互に打たれていた。そして、その注射のために今度は足に力が入らなくて歩けなくなった。おそらく、立ち上がるだけの体力もなかったのだろう。和室の畳の一人部屋が病室で、母がほとんど泊まりきりでついてくれていた。
 そのような状況で、たぶん何週間か入院して、ようやく回復した。
 退院の時に乗った大型の乗用車は、なぜか外車のようだった。白と青のツートンカラーで、後部の両脇から縦に尾羽のようなものが生えていて、それはテールフィンと言うらしいが、後方に跳ね上がってなびいていた。子供心にかっこよかったので、春生は帰宅後に当時持っていた小型のスケッチブックに描いた。そして、自分を見舞いに来たと思った大人たちに次々に見せていた。学校でも絵に描いて先生に提出した。
 春生が敗血症で入院していた話は、その後ときどき家庭内で話題になった。ずいぶん後になって兄から聞いた話では、春生が入院した直後に父が、
 「春生は駄目かもしれない」と言っていたそうで、春生自身が驚いたことがあった。
 退院時は医者から、「皮膚かぶれの原因が何なのか分からない。草むらで遊んでいたというから、おそらく草かぶれだろうが、どの草にかぶれるのかも分からない。正確に突き止めるには、草を一つ一つ皮膚に当てて調べるしかないが、判別はほぼ不可能だ」と言われた。現在なら血液検査などで何に対してかぶれるのか分かるかも知れない。ともかく当時、予後の注意事項としては、
 「当分は外に出ないように。皮膚のかぶれの痕が治るまで数年間、特に夏は日に当たらないようにして、できるだけ屋内で過ごすように」ということだった。
 春生は外に出て遊ぶことが好きだったが、もともと家で本を読むのも好きだったので、この後は家の中で過ごすことが多くなった。
 皮膚かぶれはその後も、毎年、夏に繰り返した。特に父の実家に遊びに行ったときなどは、ウルシやギンナンのように、かぶれの原因ときっかけがはっきりしているときもあった。小学校時代は毎年悩まされたが、高学年になるにつれて体力がつき、皮膚も丈夫になったせいだろう、かぶれる皮膚面積も少なくなり、程度も軽くなって、やがていつの間にかかぶれることそのものがほとんどなくなった。後に都心に転居してからは草むらそのものが身近になかったせいもあって、中学に入る頃に皮膚かぶれは完全になくなった。
 ただ、皮膚かぶれの後遺症で手の甲から腕にかけて肌に黒ずんだ痕が何年も残り、顔にも少し残っていた。春生の顔の雀斑(そばかす)が多くなったのもその頃からだと思う。もっとも、母にも雀斑が多く、高校時代に母の実家に行ったとき、春生の顔をまじまじと見た母方の叔父から、
 「お前も雀斑か」と言われたことがある。雀斑は母の遺伝もあったのだろう。

 小学校一年の学期末だった。終業式の後で、教室でかなりまとまった枚数のテストの答案が返された。春生も含めて数人が先生に指名されて、席の間を歩き回ってその答案をそれぞれの生徒に返して歩いた。春生たちがすべてを配り終えて自分の席に戻り、机の上に山のように積み重なっている自分の答案を整理していたら、先生が、
 「全部百点だった人いますか?」と皆に聞いた。春生が、
 「はい」と言って、椅子の後ろに立った。
 「はい、一人いますね」と先生が春生の名を言い、褒めてくれた。一年生の簡単なテストばかりだから、のび太みたいに悪い成績は誰も取りようがないはずだが、他に立つものはいなかった。

 春生たち兄弟は、春生が小学校に入学して一年目の冬に学習用の机を買ってもらった。社宅は二部屋しかなかったので、一人分のスペースで二人用と父は考えたのだろう。兄と向かい合わせに座れるようにし、両側から別々の引き出しが付いている二人兼用の机を古町の家具店に注文して作らせた。一人用としては奥行が深く、一メートル四方ぐらいのほぼ正方形だった。三歳上の兄はそれまでどこで勉強していたか記憶がないが、父の洋式の片袖机と古い和式の座り机が家にあったから、小学校入学以来、兄はどちらかを使っていたのではないか。
 秋生と春生はその注文机が来るのを楽しみにしていて、届けられる日は近くの昭和橋のたもとまで行って、配達の車が来るのを待っていた。橋そのものは木造だったが、橋の付け根にあった灰色の石造りの親柱の陰に兄弟で座って、夕方の冷たい風を避けていた。時々伸び上がって橋の上を確認していた兄が、対岸から幌付きの配送車が来るのを見つけた。あっという間に通り過ぎて行ったが、荷台の幌の中に机があるのが後ろからはっきり見えた。家の方に曲がっていくのを見て、二人で車を追いかけて、走って家に帰った。家に着くと、机と椅子二脚はもう荷台から下ろされ家の中に運び込まれていた。
 二人で向かい合わせに座るこの机の他にも、父は結構新しいものを購入したり、いろいろ工夫したりするのが好きだった。この直後に蛍光灯を居間に初めて導入したときは、部屋が昼のように明るくなり、しかも影がほとんどない明るさだったので家族で感動した。そして、その時も父の工夫で、部屋の隅から反対の隅に、対角線に太い針金を渡し、そこに蛍光灯を吊り下げて必要なところに明かりを移動して使えるようにした。蛍光灯の主な位置は、居間の中央と春生たちの机の上だった。しかし、間もなく蛍光灯が故障して電気店から修理に来てもらった。
 「たぶん頻繁に移動して揺れたのが原因でしょう」とその修理の人から言われ、その後は蛍光灯をあまり移動しないようにした。以前の住宅でセミの羽化や子雀の給餌などで子供たちが使った父の机はこの社宅では別の部屋にあり、その机上には古い電球スタンドもそのままあって、父が継続して仕事の勉強に夜な夜な使っていたはずだ。
 小型の顕微鏡も、父が興味を持っていたのか、この社宅にいたときに買ってくれた。
 顕微鏡が届いた時は、炬燵に入りながら、みんなで木の葉や野菜の菜っ葉を見たりした。画像を見るごとに皆で興味津々で覗いていた。父は母の化粧品に興味を持っていたのか、ガラス板に口紅を塗ったり白粉を乗せたりして見ていた。三つ付いていた対物レンズを次々に回転させて見たが、拡大率がそれほど大きくはなかったせいか、虫眼鏡で見ていたものをさらに拡大して見ているようで、結局、予想を裏切るものが見えることはほとんどなかった。化粧品は特にそうで、父は、
 「お母さんはこんなものを顔につけて」とことさら言っていたが、見える画像に意外性は全くなかった。父は、最初からそう言いたくて化粧品を顕微鏡で見始めたようなところがあった。

 そうこうするうちに、そこに一年半の居住後、小学校一年生の終わりかけに、父の転勤で一家は転居し、春生たち兄弟も転校することになった。母は、春生の担任の先生に、そのお別れの挨拶かたがたお礼を言いに行きたいと言い、休日に春生を道案内にして先生の自宅を訪問しようとした。春生がその直前に、クラスの友達と遊びに行ったことがあり、先生の自宅の場所を知っているという前提の訪問だったのだが、春生も確かに覚えているはずの先生の家の場所が、記憶通りに母を連れて行っても、そこに先生の家はない。何度かそこに行き着くまで、記憶を辿り直して歩いても、どうしても春生の記憶では同じ場所にしか行き着けない。そしてそこに先生は居住していない。春生はこの後の人生でもそうした思い違いの袋小路に入り込むことが時々あって、これはその最初の経験だった。
 春生は完全に自信を失ってしまったが、何回か一緒に歩いた母も途方に暮れて、結局その日はむなしく一緒に帰宅した。後日、母は別のルートで先生の住所を確認して、単独で先生宅を探し当てることに成功し、これまでの春生の指導に対する感謝と春生の転校報告とを伝えることができたと言っていた。
 転校するのは、春生はこの時が初めてだった。そして、春生の小学校生活はこの一年生の時の担任の先生によってかなり順調なスタートを切れたことになる。母もそのことで先生に感謝を伝えたかったのだろう。

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