見出し画像

努力の意味論——塵も積もれば粉塵爆発?

「石の上にも三年」
「雨垂れ石を穿つ」
「継続は力なり」

日本には古くから、努力をすることが美徳とされている文化がある。
もちろん、日本だけでなく世界中でこうした美徳は存在する。
こうした文化的素地は努力信仰と上手く結びつき、努力はいつだって美談になるし、そこには成長という歯車と噛み合わさる。

ぼくはこの国における努力信仰を下支えしているのは、少年マンガであると考える。
実際に努力は少年マンガのテーマにもなりやすい。
友情・努力・勝利は、週刊少年ジャンプが刊行時からかかげるスローガンである。
『NARUTO』のロック・リー、『王様ランキング』のボッジ王子、『ぼくのヒーローアカデミア』の緑谷出久、『鬼滅の刃』の炭治郎。
かれらに共通するのは、
特別な才能はなかったが、努力によってそれらを克服し、成長した果てに、特別な能力(っぽいもの)が発現するというものである。
これは、今の少年漫画のある種の流行りみたいなものだ。

もちろん、悟空もルフィもナルトも努力をしていたのだが、サイヤ人であり、Dの一族であり、4代目火影の息子であるという特殊な血統の持ち主であるという前提の上になりたつ努力だった。

対して、ロック・リーも緑谷出久も炭治郎も血統は特別なものではない。
また、ボッジ王子はボッス王の息子であるが、「ある理由」によって血統の正当性が断絶しているという設定がある。

このように、流行っている少年漫画からは、今の時代に求められる成功の法則を導き出すことができるのである。
今の時代、求められる成功の法則は、「特別な才能なんかなくたってとにかく努力を続けなさい。そしたら、きっといいことがあるから」というものである。
努力の民主化である。


このように、努力信仰は、少年マンガにより強力な説得力を持たされることになる。そして、これはリアルな価値観への出力されることになる。
結果として、価値観は新自由主義的な価値観を助長している。
「受験生版タイガーファンディング」というYouTubeチャンネルがあるが、そこに登場する虎のひとりであるドラゴン細井は、典型的な努力信者であり、新自由主義的なイデオロギーを持っている。あるいは、その体現者だ。
——ぼくは別に新自由主義者を否定したいわけでも、彼らのような努力を美徳とする価値観の人たちを根絶したいわけでもない。


こうした前提を覆しつつあるのが、『これからの正義の話をしよう』でおなじみのマイケル・サンデル氏である。
彼らの『実力も運のうち 能力主義は正義か?』には、こうした努力信仰を真っ向から否定している。
詳しくは本書を一読いただきたいが、特に印象的なのは「努力できる遺伝子」に関する話である。
努力は万人に許された最後の起死回生のチャンス、かのように語られることがあるが、継続した努力を続けられる人は遺伝的に決まっているのだという。
つまり、ロック・リーや緑谷出久は、努力を続けられる遺伝子を持って生まれた恵まれたゲノムなのだという結論だ。
遺伝学は、あらゆることを遺伝要因に結びつけて、環境派と遺伝派に分かれて、たびたび議論をしているが、「どんな人と関わるのか」「支持政党」「通いたくなる塾」など後天的な要素まで、100%が遺伝で決まっているのだと結論づけている。
実際に、支持政党が異なると夫婦の離婚率は高く、支持政党が異なると体臭が受け付けられなくなるという研究結果も出ている(という話をどっかで読んだことがある)。
遺伝子は、「そんなことまで?」バシバシと決定しているのである。

このことから、努力できる人はあらかじめ決まっているのだから、努力をできない人に努力を強要することはかわいそうだ、というのが本節の概ねの結論だ。

努力の民主化によって、努力できない人間は落伍者として認定される社会構造はどうしても出現してしまっている。
学力は努力要因によって決まることが多い。実際に、言語学習は単純な反復による記憶が不可欠であるため、毎日数分でも継続したほうが実を結びやすい。
こうした中で、努力ができない遺伝子は大学入試にあまりにも不利に作用する。
そして、努力ができない遺伝子の人に対して、「気合だ」「やる気が足りん」とダメ出しをしたとことろで、努力ができる体質に変化するわけではないのだ。

しかし、先の例のように努力を美徳とするストーリーが蔓延しているため、努力ができない遺伝子をもつ人は、知的な努力を必要としない職種しか道が開かれないことがほとんどである。
結果として、それは自己責任であると帰結されるのである。
つまり、近年流行っている自己責任論の正体は、緑谷出久やロック・リーのような恵まれた遺伝子とその信奉者たちによるマウントなのである。努力をしてきた人から言われる「お前は努力をしていない」というぐうの音も出ない正論は、時としては人を傷つける

努力が苦手な人が不得意な努力を継続することは、ある意味で粉塵爆発を引き起こしてしまうのではないだろうか。
また、この問題に対して画期的な処方箋を出せないことが現代社会のつらく厳しい現実である。

なぜなら、ほとんどの分野において成功するためには努力が不可欠であるため、努力をしなければ一生メリトクラシーの軛から逃れることができないのである。


だからこそ、ぼくは努力ができない人が努力から降りても生きていける世の中の実現は必要であると考えている。
ただ、具体的な方法についてはまだ答えが出ない。







この記事が参加している募集

noteでよかったこと

noteの書き方

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?