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日本の駄目なところを集めたものが、農薬汚染問題

次の書籍を読みました。これはあまねく日本国民全員に紹介しなければいけないものでした。

この本(以下「本書」)で指摘される、日本の残留農薬における問題を俯瞰すると、現在の日本をダメにする悪しき慣習たちが無邪気に手をつないで輪になって、かごめかごめを歌っている情景が浮かびました。
手で目隠しをして輪の中央に座らされているのは、私達国民です。

その悪しき慣習を挙げると、次のようなものです。

・産業優先、学術論文軽視

・政治的、恣意的な「業界基準」作り

・天下りによる、組織の意義欠落

・アメリカの言いなり

・隠蔽・密室体質

・責任者不在

・季節、文化、地域性の亡失

そして、本書を読んでもらいたいと思う理由は、もはや農薬の問題は自分だけ知識を得て避ければ助かるという問題ではなくなっていて、国民一人ひとりが行動をともにしなければいけないからです。

例えば、もしコロナウィルス感染症のワクチンに危険性の疑いがあったとして、それを打ちたくないと思えば、しない自由が我々にはあります。
しかしこの農薬問題は、一人でつっぱねられるものではありません

以下で説明していきます。

「有機農作物は安全で美味しい」は嘘と思ったら、半分は本当かもしれない

まず、この本によって、私は「有機栽培の価値」を再定義することができました。

これまでは、環境負荷低減の面での価値はあると思っていたものの、「安全で美味しい」という風潮については眉唾にしか思わなかったのです。

つまり、有機だから安全というわけではなく、「他と同様に安全」だと。

美味しいについては、栽培適地で育てられた良質な品種を、旬の時期の獲れたてで食べるのが一番美味しいわけなので、それは有機だろうが慣行栽培だろうが関係がないのです。

なんなら、有機栽培をうたって値段を釣り上げたい生産者利益優先のものとさえ考えていました。

美味しさについての意見は変わりません。しかし「安全」の考えの拠り所となっている「農薬残留量の安全基準値」が、企業論理優先で恣意的に操作されているとしたら、考えが根底から覆されます。

本書では、まさにその「安全の地盤」が崩壊させられるのです。

つまり、農業従事者が遵守し、農業関係の学校でも教えられているであろう、「身体に十分に影響のない安全基準」というものが、実はアメリカの特定企業の利益のために日本に押し付けられたものであると推察されること。

本来そういった問題を監視するはずの「食品安全委員会」は官僚の天下り先となり、形骸化どころか問題を助長させていること。

しかも基準値作成の判定材料となった資料は企業秘密を理由に公開されないから、検証もできない。

我々国民が、情報を要求する努力が足りないのかもしれません。
しかし、本書記載の企業批判に対して、工業団体は、批判の論拠として引用した資料が正当でないと反論するケースがあります。
自分たちの資料は公開さえしないにも関わらず、です。自分の都合の悪い部分だけは隠蔽する体質、と捉えられても仕方ない態度です。

本書でも水俣病の問題が何度か引用されますが、公害、薬害、原発事故の問題もそうだし、なんだかフラッシュバックさせられる類似の問題が日本に多過ぎる
そりゃ、ワクチンだって信用しない人が一定数現れるはずです。

「遺伝子組み換え大豆」は何が危険なのか?

これは私の無知に過ぎませんが、恥を承知で書きます。

これまで「遺伝子組み換え大豆」がなぜ危険かというのは、「人間が遺伝子操作した農産物を身体に取り入れたら、何に影響するかわからないから」だと思っていました。
遺伝子操作する理由として、病気に強くするとか成長を早めるとか美味しくするとか、そういう観点しか想像に及びませんでした。

それらも無くはないですが、それよりももっと深刻な問題がありました。そんな生易しいものではなかった。

答えを言うと、「特定農薬を撒いても枯れない」ようにするためなのです。

つまり、生産過程で、通常なら農作物そのものが枯れてしまうほどの強力な除草剤が使われ、その除草剤が残留した収穫物が人の口に運ばれることになるのです。

そして、恐ろしいことに、その遺伝子組み換え作物の種子を売るメーカーと、農薬を売るメーカーが一緒なわけです。
それにより、種子と農薬がセット販売されます。そのパッケージを使っていれば簡単に安定した収量が見込る、となれば農家も使うに決まっているし、企業は独占的に販売できて大きな利益を得ることができます。

もちろん、農薬の残留量は別に基準が存在するわけですから、遺伝子組み換え作物であっても否であっても、その基準によって安全が担保されるはずです。

しかし、メーカーの試験方法がそもそも農薬の一成分のみの評価であり、様々な添加物を加えた商品としての評価になっていない点、そしてその成分の安全基準でさえも、アメリカの圧力で日本だけが他国の厳格化に反して不自然に緩和されてる点、といった恐ろしい事実が明かされていきます。安全性に嫌疑があるくらい農薬が残留した食品をアメリカから買わされるために、日本の安全基準が操作されている疑いがあるのです。

そして、遺伝子組み換え作物や農薬残留基準値が欧州等で厳格化される中、「他国では買っていない物」を日本が喜んで買い取っています。以下は本書からの引用です。

「(中略)日本は、世界中で使われなくなった農薬のゴミ捨て場になる」と警告する専門家もいる。実際にもうそうなってるのだが・・・

また、アメリカの農家が、日本で禁止される収穫後農薬の噴霧をしていて、それを見た日本の研修生に「これはジャップが食べるからいいんだ」との発言した、という逸話が書かれています。

敗戦を引きずって、日本はいつまでアメリカの奴隷であり続けるのでしょうか。
そしてその従属関係からはいつ逃れられるのでしょうか。
我々の祖父母や曾祖父母世代は国のためにがんばったけれども、結果として敗戦し、しかし主導者たちは責任を取らず、我々の子供や孫の世代にまでそのツケを払わせ続けるのでしょうか。それを変えるのが政治家ではないのでしょうか。

なぜ農薬に汚染された食品を我々は選んでしまうのか

では、どうして日本人はまんまとアメリカからの輸入食品を取り入れてしまうのか。そして国内でも、言われたままに農薬を使用し続けてしまうのか。

まずは、見てくれの良いものを好むという、外面を過度に気にする日本人の特性もあるでしょう。形を揃えるために使われる農薬は多い。

それと並んで問題だと思うのは、日本の古来の文化や地域による多様性が失われていることだと思います。

高校で古典を習えばわかりますが、昔の日本人が持つ季節に対する感受性の高さや、それを楽しむために取り入れた祭りや風習などの風俗の多様さは、眼を見張るものがあります。

なぜそうかというと、そうするしかなかった、ということもあったのでしょう。
夏に大根を食べたり、冬にきゅうりを食べたりすることが技術的にできない時代は、否応なくその時々のものを愛でる、最大限活用する、という気持が強かったことでしょう。近所の八百屋を巡っても、同じ時期には同じものしか並びません。発酵食品や干物などの保存加工食も発展したのもそのおかげとも言えます。

時期によって食材が限定されるのは、食卓の彩りという意味では不便だし、食べたいものをいつでも食べることはできません。しかし自然と、近くで獲れた、旬で一番美味しい時期の、余計な添加物や化学肥料・農薬なしで育てた野菜を口にしたはずなのです。

そして今は、「旬だからこれをメインとした夕食にしょう」という献立の立て方がどんどん減っています。

サンマのような一部の海産物など、季節の代名詞的なものはまだ残っているけれど、野菜・果物はハウス栽培や輸入品でいつでも手に入るし、コンビニ弁当や外食チェーン店の定番メニューに頼ったり、ネット通販の発展で商品を指名買いすることが多い今、八百屋をうろちょろしてから献立を決める、といった行為は確実に減ってきているはずです。なんなら「めんどくさい」と切り捨てられるものかもしれない。

結局は、新自由主義路線で一部の大企業による寡占が日本の隅々まで進んだ結果、こういった従来の生活様式が失われたということになります。

それによって、結果としてハウス栽培+農薬・化学肥料など、かなり無理な環境で育てられた農作物を、それと意識せず口にしてしまいます。

生産者側としては、他の農家と競合しない時期に出荷することで、高くしても売れるわけだから、作り手良し、売り手良し、買い手良し、なんて思いながら生産しているかもしれません。こういった、あたかも人に充足・満足感を与えつつ、実は悪の片棒を担がせている、といったやり方は、私が一番嫌悪するところです。

企業の「安全基準」盲信は、消費者不在の自己都合でしかない

本書は週刊新潮の連載を再編集・集約したものです。
連載の過程では、主に農薬メーカーで組織される農薬工業会からの反論が送られてきたことも少なくなかったようです。
そりゃそうです。もし事実と反した情報が流布され商品が売れなくなったら困るのはもちろんのこと、企業の中にはおそらく、自分が正しいことをしていて世の中にも役立っていると考えて研究・商品開発している人も多いでしょうから。

本書の巻末では、これらの工業会からの反論を取り上げ、それに対して、著者側に立つ研究者らの更なる反論を記載しています。

著者陣営の言い返しで終わっていて、それに対しての工業会からの再反論はないので、少し著者に有利な構造にはなっています。しかしながらそれをふまえてもなお、実に公明正大でアカデミックな説明により、どうしても企業論理から脱しない工業会による反論は完膚なきまでに否定されています。

著者も言うように、工業会が空虚な反論に終始しているのは、

・決められた測定方法で農薬残留基準値を下回りさえすれば、安全だと思っている
・「食品安全委員会」を絶対視している

という2点で、アカデミズムから大きく乖離しているからなのです。

本来ならば正しいはずの基準値が、企業利潤優先のために歪められている、または最新の学術論文で明かされた事実に準拠していない、もしくは測定・評価方法が十分でない、という問題について、企業側はすっかり思考停止になっているのです。
それでは、最新の研究を追い続ける研究者に対峙しても議論の相手になりません。

メーカーとて科学的理論に準拠してやっているはずなのに、なぜこんなにレベルが違ってしまうのだろう、と残念に思います。

私が以前所属した家電メーカーの業界で言えば、当たり前ですが、何かの安全基準がないと、危ない工業製品が溢れかえってしまいます。
逆に言えば、それさえなんとしてでもクリアすれば、大手を振って販売できると思っています。

基準がなければ、全ての責任をメーカーが負わなければいけないのでテストにキリがなく、製造コストも跳ね上がってしまうでしょう。そのツケを被るのは消費者です。だから基準値は必要です。

しかし、世の中では、新しい技術、新しい素材、新しいジャンルの製品が次々生み出されますから、その新規性から生まれた部分の危険性評価は、製造者自らが行わなければいけないと私は考えています。
なぜなら、新規技術は企業秘密であるし、だからといって安全評価を怠って良い理由にはならないためです。生みの親としての責任があります。
まして、危険性ではなくて安全だとか効果があるといったことは、お金をかけて外部機関を使ってでも積極的に評価・発表するわけですから、コストがかかるからできないとは言えません。

しかし実態は、業界標準だろうが社内独自基準だろうが、既存尺度の旧態然とした基準さえクリアしていれば、それら新しい要素に含まれる危険性など、評価しようとしないわけです。
だから、スペックには現れない、壊れにくさ、使いやすさ、人間への影響などは、「使ってみないとわからない」状態で世に出されます

もちろん、日本には製造物責任(PL)法というものがあります。

Q1
製造物責任(PL)法とは、どのような法律ですか。
A
この法律は、製造物の欠陥が原因で生命、身体又は財産に損害を被った場合に、被害者が製造業者等に対して損害賠償を求めることができることを規定した法律です。この法律は、不法行為責任(民法第709条)の特則であり、不法行為責任に基づく損害賠償請求の場合には、加害者の過失を立証しなければならないところ、製造物責任については、製造物の欠陥を立証することが求められます。

ここにあるとおり、製造物責任においては申立てた側の立証負荷は軽減されています。しかし、製品の欠陥によって損害が生じたという因果関係の証明責務は変わらず原告側にあります

なお、農産物それ自体にPL法を適用すべきかについては、様々な意見があるようです。その検討自体が論文になるくらいです。

しかしPL法にせよ民事訴訟にせよ、10年後20年後、または子や孫の世代に損害が生じうるような健康被害について、科学的に立証するのは非常に難しいというのは想像できます。
とはいえ、そのような可能性が示唆された研究結果が信頼できる論文誌に掲載されたのならば、企業は「基準を守っているから言われる筋合いがない」と無視し続けてはいけないと思うのです。

日本の産学不連携。企業での学術的な観点の欠落

なぜ上のような態度が企業で蔓延するのか。

近視的な業績優先で時間に追われていて、仕事の価値や企業の責務などの大局に個人個人が向かいあってないということでしょうけども、企業における個人レベルでの「アカデミズムの喪失」については、私でも大学出たてのときに、かなり辟易したものです。

何かデータを取って傾向を探るにしても、回帰分析や二項検定などの基礎的な統計分析はおろか、標準誤差すらグラフに表示しないで調査結果を語る始末です。
それでは何もわからない、と気持ち悪くなるのが普通と思います。
そこがレベルの低い会社なのかといえば、普通に東大京大出身の社員がいても、似たり寄ったりです。

私の例では、工学部出身が集まる職場の中で、たまたま私が大学時代の研究で統計分析を使ったからかもしれませんが、理系というくくりで言えば統計分析は基本として身につけておくべきツールです。

この統計リテラシーとでも言うものは、今後AIを有効利用する上では必須となるべきものであり、それを導入・活用する立場となるソフトウェア専門家なら言わずもがなです。

そして、そのような一部の専門家に限らず、恣意的なグラフやデータに騙されないためには、一般常識化すべきものと言えます。

コロナに関するデータについても、根拠のみえにくい感想レベルの内容に扇動され、有益な情報と無益な情報がごちゃまぜになって、結果として重要な情報が胡散臭い情報に埋もれてしまいそうです。

なにも私は、大学の態度が偉くて絶対で、企業がお粗末だということだけを言いたいわけではありません。

大学の閉鎖的な環境と自己満足的な学会、教授が片手間のように行うつまらない授業、職員たちの不遜な態度、研究者の低収入、そういったものが大学の魅力と信頼感を損ない、優秀な学生に大学に残ろうとする考えを失せさせ、産業界との良好な相補関係を生み出せない一因となっていると感じています。

それまで大学ではしっかり研究していた若者が、一般企業に就職した途端にアカデミズムを安易に手放してしまうのは、大学教育にも原因があるのではないでしょうか。

大学では、一般教養として理系でも哲学や法律を学んだりします。しかし、将来、企業に就職したときの自分の姿を想像して、そこでこの授業がどう活かせるか、などと考えながら受講したことなどまったくありません。とにかく単位が欲しいことが優先。私だけが不真面目だったのかもしれませんが、それでも優の成績を多く取れるのだから、そのことが大学のシステム自体に問題があることを証明しているようなものです。
普遍的な倫理観を育むことができる機会を提供しているのであれば、大学関係者が企業や官僚の不道徳を笑ってはいられません

本書では範疇外なので仕方ないですが、本書の中では、農薬の問題を引き起こしている企業や官僚となる人材を生み出している教育制度に対する問題意識というものはあまり感じられません。むしろ「皆目理解に苦しむ」といった断絶があるだけです。

我々一般人はどうしたら良いのか

さて、大学と企業の件で熱くなってしまいましたが、その話は我々一般市民の手で今すぐどうにかなるものではありません。

では、今目の前にある農薬残留問題について、一般消費者としてどうしたら良いのか

それも本書で示されているのですが、改善できるとすればただ一つであり、市場原理で拡散されたものが害悪ならば、市場原理で追いやるしかない、ということです。
換言すれば、できるだけ多くの人が、「問題があるものは買わない」という消費行動を取るしかないのです。

そのためには考える力が必要です。マスメディアの広告に惑わされず、問題性について研究・調査をしている機関から情報を自分で仕入れ、比較的安全な物を購入すること。
本書でも、具体的に食パンやパスタなどの商品名を挙げ、残留量の測定値を公開しています。素晴らしく有益な情報です。

安全とされる商品が仮に少し高価でも、その全部が2倍3倍するわけではないですから、自分の将来やわが子の安全に対する投資だと思えば納得できる範囲のものだとは思いませんでしょうか。

コロナ禍の経験を活かそう。そして学ぼう。

みなさんはコロナ禍によって、自分の欲望を抑え、行動を取捨選択できるようになったはずです。

300円居酒屋に毎日通う必要はなく、それなりの値段はするけど安全な食事を提供するお店に、たまに行くことができれば良いではないですか。

環境問題でも何でもそうですけど、あらゆる問題というものは意外と簡単に良い方向に進めることができるのです。そのほとんどは、社会を構成する我々が「意識を変える」ことで実現できるのですから。我々はコロナ禍で、「意識を変える」ことに否応なく慣れたではないですか。

ただし、変える方向を誤ってはもともこもないので、良質な情報を収集する力というものがセットで必要となります。そしてそれを育むのが教育なのです。学校が教えてくれないなら親が教えるしか無い。そこに必要なのは、学ぶ姿勢、それだけです。

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