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西会津のイノシシ被害から都市生活の未来を問う

(Photo by (c)Tomo.Yun)

私が勤める会社の営業さんが、朝礼で下記のような話をしていました。

最近農家のお客さんから、イノシシ被害の話をよくされる。中には、それが理由で農業をやめようと思っている人さえいる。何かよい対策方法がないものか?

そう言ってくるお客さんは、皆、福島県の西端である西会津町にお住まいの方々です。
そして「営業の味方たる総務」を自称する私は、そんな悩みを何とかする方法がないか(あわよくばビジネスにならないか)を検討するために、まずはイノシシ被害の現状を調べ始めたのです。

出る出る深刻なイノシシ被害情報

東北の獣といえば熊ですが、近年熊の出現が多くなっており、住宅地にも出没することも珍しくなくなっているというのは知っていました。
しかし、無知な私は、なぜ西会津の人に限って、今になってイノシシ被害にそれほどまでショックを受けているのかがピンと来ませんでした。
昔からいたのが、単に耕作放棄地が増えて姿を現しやすくなっただけではないかと。

しかしこの話は、実はかなり鳥獣被害問題においてタイムリーでリアルな現状を示すものだったのです。次のデータでそれがわかりました。

昭和 53(1978)年度から平成 26(2014)年度までの 36 年間で、イノシシの生息分布が約 1.7 倍に拡大。(環境庁)

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もともとイノシシは雪国にはいなかったはずのものが、このところ急速に生存領域を広げているようです。福島には「猪苗代」という地名があるので昔からどこにもいるものとすっかり思い込んでいて、熊本に実は熊はいないことくらい騙された感でいっぱいです。

何十年と農家をやってきて、今まで見たことなかった強敵が今となって現れ、甚大な被害をもたらすわけです。亀仙人がピッコロ大魔王との闘いを諦めたように、高齢農家たちは今からそれに立ち向かうだけの意欲をもはや持ち合わせていません。
かといって悟空のような若手の跡継ぎもいません。これは失意に駆られて営業に愚痴るのも無理のない話です。

イノシシの害獣ポテンシャル

<凶暴性>

イノシシなんていうと、ウリ坊の可愛らしさ、それから十二支にも滑り込んで12年に1度ブームがくる親近感から、ネズミやクマと並んでキャラがリアルの害獣感と乖離している動物の一つに数えられます。
肉食で無いのにも関わらず、人間を死に至らしめる凶暴性(自己防衛能力)を持ち合わせます。襲われた例もたくさんあります。

死亡事故も含む人身事故例がこのPDFにまとめられていますが、「コンバインで稲刈りをしていたところ、イノシシ 9 頭に取り囲まれた。 」という、ときには復讐しに来たヤンキーのように妙な団結力を見せるあたり、その狡猾さも侮れません。

<生殖能力>

これが何よりびっくりです。

毎年半分近くを捕獲しても、その数は減少しない可能性がある。

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この旺盛な生殖能力の上に人間以上の天敵も特にいないので、放っておいたら数は想像以上に増えるようです。もう、可愛いウリ坊兄弟であっても見つけたら即射殺するくらいの慈悲のなさを持って駆除しないと、人間が住む場所がなくなってしまいます。

<対策の困難さ>

農地に侵入されないように、フェンスや電気柵で囲うなどの対策はもちろん実施されています。しかし頭が良くて力も強いので、弱い部材部分からじわじわ壊されたり、ちょっとの隙間を見つけて強引に侵入したりなどもあるようです。超音波や爆発音などで追っ払う方法もあるようですが、すぐ慣れてしまって効果がなくなるようです。

東京電力の原発事故で強制退去を余儀なくされた地域においては、野生動物の繁殖が住人の帰還を阻んでおり、復興庁でも対策マニュアルを公開しています。数ある鳥獣害対策の中でも、イノシシを意識した解説が多いように見受けられます。

この他にもいろいろなサイトで対策方法が紹介されているし、最近被害にあいだした東北だけでなく古くから戦ってきた地域を含めて苦しい闘いが繰り広げられています。しかし決定的な対策方法は見いだされていません
もちろん一人の農家でできるようなものでもなく、集落ぐるみ、町ぐるみで専門家を雇って生態調査の上、駆除の専門家により個体を着実に減らしていくしか方法がなさそうです。

<法令>

ここまでの強敵なのにもかかわらず、鳥獣保護管理法で保護されている動物なのもやっかいです。銃猟はもとより罠による捕獲も、鳥獣保護法、狩猟法などを遵守して適切に行う必要があり、勝手に駆除できません。

ここまでくるともはや害獣界のチート的存在全盛期のマイケル・ジョーダンのようにアンストッパブルです。
それがおかしいと思う人も多いようで、鳥獣保護法の限界についても論述は多いです。

地元企業がやれること

上のようなことがわかったので、単に対策グッズを特定農家さんに買ってもらう程度のことを会社でやったところで意味が無いことがわかります。
農家単体でできることといえば、危険箇所を点検し、イノシシが田畑に近づくような要因をなるたけ作らないということくらい。
誘引物や隠れ場所を作らないこと。つまり藪の手入れとか、自然になっている果樹を放置しないとか、生ゴミを捨てないとか、そんなことくらいです。

復興庁「環境整備技術マニュアル」より:

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これらを踏まえて、今回相談を受けた営業ができることといえば、今回書いたような知識をつけた上で農家の相談(愚痴)を聞いてあげて、気持ちに寄り添ってあげること。

それから、大事なのが、被害現場を一緒に確認してあげて、記録すること、だと思います。

多分若い農家なら、それほどショックを受けた現場ならばスマホで写真を撮ってSNSでも上げることでしょう。ある意味でそれが気分晴らしにもなります。しかし高齢農家はそうはいきません。肩を落として家に引き上げておかあちゃんに泣きつくか、営業周りをしてきた若者を運良く捕まえられれば、彼らに愚痴るくらいしかできないのです。

聞かされた営業としては、金にもならないやっかいな話を長々と聞かされた、ということで運が悪いということになるでしょうか?

そんなことはありません。
農家の代わりに記録してあげて、役場に情報提供したら良いと思います。
自治体がお金をかけて対策に乗り出すとしても、まずは専門家を雇って実態調査をすることからスタートするはずです。それを、民間企業が厚意で協力するのならば、足蹴にはしないはず。

企業にとっても、目先の利益にはならなくとも、お客さんと信頼関係を結べた上で、営農意欲の継続に少しでも寄与できたとするならば、未来の取引継続に繋がります。
また、自社ですぐに何かを提案できなかったとしても、将来、専門家による対策方法が開発された時に実証実験業務を受注できるかもしれません。

それを企業の上の人間が理解して、担当営業にその時間を許し、成果として認めるかどうか。会社経営者の心意気が問われます。

「事件は会議室ではなく現場で起きている」と言われて久しいですが、
「ソリューションのアイディアは机上には落ちておらず、現場にしか無い」というわけです。

ここからが本題です

さて、ソリューションについてのさっきの名言(?)は、ほぼ下記著書の受け売りです。

何度もこの本を取り上げていますが、それだけの名著だし、獣害のくだりは以前書いた感想文では多く触れなかったので、今回書きたいと思います。以前の記事はこちら:

都会の人にとって、この問題は対岸の火事か?

上でイノシシの生息分布が拡大していると書きましたが、それは近代以降の視点で言っているだけで、もちろんもっと以前は日本列島の隅々まで野生動物の楽園だったはずです。日本人が何千年に渡って苦労して自然とせめぎ合い、生活圏を拡大させたおかげで、現在ですら森林が7割に及ぶ日本列島において多くの人口を抱えられるほど、自然を抑え込むことができたわけです。

それに対し、明治以降の国家戦略やエネルギー革命を経たわずか100年に満たぬ程度の間で、山里の人間が都市部に流れ出て、農地や山林の手入れが行き届かなくなった結果、野生動物が「復権」したという考え方のほうが自然なわけです。

今、野生動物による被害で山里の人間が営農を諦めたとすれば、地方都市部に被害が及び、まずは地方都市に人が住めなくなります。
ならば無理して田舎にいなくても、三大都市圏に住めば良いじゃないか、人口もどうせ減るし、そのほうが効率的だ、という考えがあったならば、それは田舎が担う役割に対する認識が甘すぎるというのが当該著者の言うところです。

つまり酸素、水、電力、食料といった生存に欠かせない資源の供給はもとより、防災林やダムなど自然災害に対する脅威への防御さえも田舎に住む人なくしては維持できない状態だというわけです。

さすれば都市部の未来はこうなります。

・大規模火力発電所や原発さえも危険を許容しながら三大都市圏に設置

・農作物は旬や鮮度・多様性と引き換えに安い輸入品のみに依存

・中央集権化が敷かれる中世以前の先人の歴史や文化、つまり日本人たるアイデンティティを失う

・都市が均質化し、外国にアピールできる魅力も大幅減となる。コロナが収束しても、観光立国政策は頓挫

地方行脚をやめない都会人たち

ここまでは当該著書にほとんど書かれていることで、ここからようやく私の意見です。

新型コロナが都市圏で蔓延する中で、地方への人の移動が問題となりました。ビジネスのために地方から東京に行くのはわかりますが、なぜこんなときにまで観光で地方に来ようとするのか

それはGoToの割引施策以前の話です。私の住む近くのラーメン屋では、店が自粛して閉店しているにもかかわらず、知らずにやってきたと思われる品川・横浜・足立ナンバーの車が店の駐車場で次の行き先をスマホで検索する姿が何度か見られました。ラーメンで有名な喜多方でも、旅行者の感染発覚により数日の休業を余儀なくされた店もあります。

GoToキャンペーンが都市圏在住者のみ除外となったときは不公平だと不満が出るし、解除されたとたんに地方の観光スポットは賑わいました。
東京が好きで東京に住んでいるならば、1、2年くらい地方への観光はしなくても良いと思います。実際そういう自制心高い人もいるでしょう。しかし私の知人の多くがGoToを利用し地方に旅行しています。

結局、居住地としては選択されなくても、田舎はなお、何か心の安らぎや拠り所として都市生活者をひきつけているということです。それが何なのかは人それぞれですが、地方が死ぬとそれが失われるということになります。

田舎2大忌避要素?「教育」と「村社会」はどうか

田舎が失われれば都会人の生活資源の基盤が失われ、日本人たるアイデンティティが失われ、心の安らぎの場も失われるとすれば、そこまでして都市部を信仰する意味があるのか甚だ疑問となってきます。

しかし大都市での生活を選択する理由としては、自分の子供を偏差値の高い大学に通わせるためであったり、村社会たる閉鎖性、自由のなさといった田舎の性質を避けるためといったものが挙がります。その二つについて言えば今後は重要でなくなっていく、もしくは都会と差がなくなっていくと思うのです。

<学校教育の価値低下>

ホリエモンが「学歴は究極のオワコン」と言っていますが、セーフティーネットとしての学歴の役割はしばらく根強く残ることでしょう。しかし彼が言うほど極端ではなくても、学校の意義、特に大学について「コスパ」で考えてしまえば、その価値はどんどん薄れてきています。

まず、私が田舎で受験戦争に浸って思ったのは、田舎の公立高校だろうがどこだろうが、高い目標を持って努力すればどんな大学にも入れるということなので、そのために都会でないといけないということにはならない実感があります。
それでも、勉強がそれほど得意でなくても、得意な子と同じだけの立場につけるために受験に勝つ必要があると言うなら、特に目標もなく有名大学に入りたいがために必死に努力してビリのほうで入学するくらいなら、その努力をもっと別の、自分が興味をもてるものに振り分けたほうが良いと思います。

私は工学部だったので、電気回路、電磁気学、量子力学、デジタル信号処理、通信工学、材料工学、論理回路、プログラミングといった教科が必修となります。効率の悪い学生だったので先輩や同僚から過去問をもらうなどもなくガチで勉強しましたが、今となっては内容のほとんどが記憶に残っていません。優で単位を取ったにもかかわらず、です。多分目標や興味が無いから頭に残らなかったのだと思います。せめて教養として頭に残っていれば良かったのですがそのレベルにもありません。学費を負担してくれた親に申し訳ないほどです。

逆に残っているのは、自分の興味に基づいて選択した研究室での勉強と、社会人になった以降の自律的な学びです。つまりここからわかるのは、大学に入ってなんとなく勉強しただけでは、専門知識どころか教養すらつかないということ。そして自分の意志で学んだものだけが身になるということです。

効果があったとしたら有名な企業に入るためのパスポートを手に入れたというくらいですが、その企業群も今や終身雇用も退職金も保証されない状況です。つまり巨大企業群にとって都合の良い人材を排出する機構としての大学の側面に対して、時間とお金をかけるだけのリターンはもはや期待できないということです。
だから、興味に基づいて研究者となり国から支援を受けて研究を続けたい、といった探究心を満たす目的を除いては、大学の価値は大きく下がりました。(ちなみに研究者を目指しても、幸せになれるのはごく一部です)

<村社会の変容>

田舎のコミュニティは本来ヨコのつながりをもたらしながら他者と協力・共存することが、自然の力と鬩ぎ合う上で大切な要素だったわけです。しかしそれが近代になって、家制度を始めとして富国強兵に沿うように巧みにコントロールされた結果、縦社会や個の抑圧といった負の側面が強化されてしまった。それが上の著書で示されます。つまり我々はここ数十年でできあがったイメージで「村社会」を負の文化と捉えており、それ以前に長く日本を維持してきた良い側面をないがしろにしているようです。

いつからなのかは別としても、そのような性質を嫌って田舎を飛び出て自分の目標とする会社に就職したとて、結局はそれが古くからの大企業であれば中身は村社会的な要素に溢れていたりします。 田舎を嫌悪して都会に出てきたのに、会社の村社会に悩まされるとなれば滑稽な話です。

トヨタを出てサイボウズに入った次の方の記事は多くの方の共感を得ているようです。


この方の選択のように、「風通しの良い企業」というのはそれ自体で大企業に負けない企業の魅力となりえます。
同じように、今や田舎でも、世代交代により地域の”老害”は自然消滅しつつあると同時に、二世代三世代が同じ家に住むような家父長制の残骸も少なくなり、核家族の新興住宅も増える中で、「風通しの良い田舎」をアピールする地域も増えていると思います。若い人のコミュニティがあるとか、上の年代と交流できる場があるとか、そういったアピールです。

さすがに消防団や自治会への参加が不要ですというアピールはまだないかもしれませんが、消防団も以前のように強引にやっていたら下記のようにSNSで晒されてしまう時代です。自治会も世代交代により都会のマンションの自治会と同程度の負荷レベルに近づいていくことでしょう。

幸せを得るには何かを差し出さなければいけない

今回イノシシを引き合いに言いたいことは、都会のホワイトカラーの人たちは、都会のブルーカラーの人だけでなく、田舎に住む人達に生活基盤を支えられているということを再認識してほしいということです。

都会でパソコン片手に「○十年先のために」とか企業戦略を語っている人こそ、日本人の歴史たる田舎を意識してほしい。一方で、田舎で今日を生きる人ほど、日本の歴史と文化を背負って生きているし、先の日本の数十年のために必要な生き方をしていると感じます。

新型コロナによって「エッセンシャルワーカー」という言葉が出てきて、実はそのエッセンシャルワーカーに社会が支えられているのに彼らは給料が低く、そうでない人ほど高い、という現状に仕事の価値観を揺さぶられた人も多いと思います。自分の仕事は実は「エッセンシャル」でなかったことにショックを受ける人もいました。詳しくは取り上げませんが、下記の書籍はまさにそれを書いたものです。

そして、自戒の念も込めて言いますが、多くの現代人は楽をし過ぎなのだと思います。田舎が窮屈だと思ったら田舎を見限り、親の元を離れ自由を手にし、近所や会社のコミュニティがめんどくさいと思ったら避けて引きこもり、臭いものからは目を背けて蓋をする。それは自ら何かを差し出して生きていくという意識が薄いからだと思います。これまでの日本人はそうしてきて、だからこそ我々の生活が維持されていることが忘れられています。

イノシシは何の悪気もなく現れますが、それによって日本人として必要な「覚悟」があぶり出されるのです。国民幸福度といった指標がGDPと並べて国家比較されますが、生き心地が良いというのと生活が楽だというのは必ずしも重ならないことはもはや自明です。その重なりから漏れている部分を求めて、人は地方回帰しているのにほかなりません。


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