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過去の私の俳句を斬る⑫

昔の自分と、俳句を通じて対峙する。

遠き日の祖母は小鬼百合を愛でし  新治(平成27年)

季語は、小鬼百合(コオニユリ)。やや毒々しいオレンジ色が輝く百合の一種です。

祖父母宅の庭にはこの花が植えられていて、毎年、不気味に美しく咲いていました。花の名前は、祖母から教わったことを思い出します。

この句の問題点は、すべてが過去形になっていること。
句を詠むワタシは現在にいて、句に登場するモノはすべて過ぎ去ったものとして読まれており、目の前にありません。

俳句は、いま・ここ・われ。今、ここしかない瞬間を、自分のこと(他人事ではなく)として表現することで、瑞々しい詩として残るとされています。
回想の句が一概に悪いわけではありませんが、目の前のこととして詠む方がよりオトクということです。

さらには、「遠き日」と過去の祖母が「愛でし」と過去形で叙する形になっているので、過去の過去、大過去ということに。
小鬼百合は、実物ではなく、ましてや写真でもない、記憶のなかのモノとして登場しますので、非常におぼろげ。季語としての働きも、とても弱くなってしまっています。

加えて、リズムも悪いです。
俳句を少し勉強して、句またがりを使ってみたものと思われますが、5・3・6・3という調べは非常におさまりが悪い。
落ち着いた内容の句なので、韻律の面で変な技を使わない方が良さそうです。

せめて、「遠き日の祖母の愛でたる小鬼百合」とでもするところでしょうか。
小鬼百合は目の前に咲いていて、過去を回想している状況になります。

ただ、もっといえば、「愛でたる」というのは他人の感想です。一句の世界が、自分からは遠いところにあるようです。
遠き日の祖母の姿を、目に見えるように描写して、自分の近くにおきたいところ。

遠き日の祖母はソバージュ小鬼百合  新治(令和3年)


祖母の姿を回想して、目の前の小鬼百合を添える形にしてみました。


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