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母を休みたかった、母と私。

母を休む、について最近考えていた。

いま私は母であり、妻であり、教師である。
普段どれだけ充実していても、愛に溢れていても、何かのきっかけで頑張る意欲をぱたっと失ってしまう。


そういうときは決まって、自分1人の時間が足りていない

私は体調のいい日は、朝4時台に起床して自分の時間を確保している。
それでも、早起きの息子は5時半には起きてくるし、ロングスリーパーの旦那はギリギリまで起きてこない。
工夫して朝過ごしているけれど、決してのんびりできる朝ではない。


6月のとある日、「今日は母親も妻も休ませていただきます!夕方まで帰りません!」と夫に言ってみた。
夫は自分からなにかをくれるタイプではないが、欲しいと言えばくれる人だ。
「いいよ。いってらっしゃい。」と言ってくれた。

1人時間ができても、スーパーしかない田舎である。
今回は車を1時間走らせてショッピングモールに行き、まずはスタバでコーヒーとスコーンと読書。
お店をふらふら見て回り、仕事服を少し買い足し、いまごろ夫と息子はどうしてるかなーなんて思いながらお土産のミスドを買い、スーパーのサラダとおにぎりを車で食べた。

別に心が震えるほど美味しいものを食べたわけでも、ずっと欲しかった何かを買ったわけでもない。
それでも、たった6時間の1人時間が、すっかり枯渇していた私の心を癒してくれた。
母親でもない、妻でもない、教師でもない自分を過ごす時間は何よりのご自愛なのだと再認識した。


帰り道、自分の母親のことをふと思い出した。

私の母は、おそらく父に自分時間を作ってもらえていなかったと思う。
記憶にある限りずっと私たち子どもの近くにいたし、
ずっと家事をしていたし、
綺麗すぎるくらい家を綺麗に保って、
節約を頑張りすぎるくらい頑張って、
ずっとイライラして疲れていて、
あまり楽しそうに見えなかった。

私は兄弟で一番上だったこともあって、母がイライラすると何かと怒られるのは自分だ、と感じることもしばしばあった。
(でも母は本当はとても優しい人なのだ。大人になってから知った。)


そんな母が、中学校の同級生と食事をする予定ができたと嬉しそうにしてしたことがあった。
その予定は少し先のようだったが、それまでの間、母が少し明るかった気がした。
私は別に一緒に行くわけでもなかったのに、なんだかとても嬉しかった。
心の底から、「お母さんに楽しんできて欲しいなあ」という気持ちだった。


母は結局、食事に行くことができなかった。
友人たちと待ち合わせしていたファミレスが、自宅近くの店舗だと思っていた母。
実際には、同じ県内とはいえ少し離れた、母の実家の近くの店舗だった。


出かける直前、友人とのメールのやり取りでその勘違いに気づいたのだという。

夕方に幼い子ども達を置いて、母が遠くのファミレスに出かけていくことを、父は許さなかった。


「楽しみにしてたのに…」と半泣きで呟きながら、「行けない」と友人に返信する母の背中を、その後いつものように家事をする母の表情を、私はいまでもはっきりと覚えている。
直接非はないのに、その日の私は母に対する罪悪感でいっぱいだった。



私は大人になったいまでも、ときどきこの情景を思い出す。
思い出すたび、何とも言えない胸の痛みを感じてきた。


そして母親になってから初めてこの出来事を思い出して、確信したのだった。
母親の嬉しそうな顔、楽しそうな顔、幸せそうな顔が、子どもにとって何より満たされるものであると。

あのとき母が食事に行けていたら。

いまさらどうしようもないことなのだけど、この出来事は母親になった私に、とても大きなことを教えてくれているような気がするのだ。

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