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祖母の思い出

母から連絡があり、内容は祖母の容態が悪いということだった。食事がとれなくなってきたらしい。

今年のお正月には体の機能ががっくりと下がってしまって、心の準備をしておくようにと言われた。
その時の意識は薄く、何度も挨拶をしてやっと私のことが分かるくらいだった。曾孫(姉の子)がそうであると理解できていなかったかもしれない。それでも親からすると「今日は調子が良いね」という評価であった。
去年は歩いていたし、おつかいを頼んでくれた。一年でこんなに変わってしまうのか。

それでも、認知機能の低下もそれほどひどいわけではなく、病気らしい病気もなく、祖母は緩やかに緩やかにその一生を終える階段を進んでいる。
入院もしていない。私の両親と叔父夫婦、通いのヘルパーさんで世話をし、慣れ親しんだ大好きな家で看取るという選択をしたらしい。
苦しむことなく、このまま皆に囲まれて、眠りにつくように終わることができたら、それは幸せなことだと思う。

以前の記事でも触れたが、幼少期は毎日祖母の家に行き、毎晩夕食を用意してもらっていた。いろんなものを作ってもらったし、全部最高に美味しかった。特に茶碗蒸しが好きだった。一人暮らしを始めて料理するようになっても、私には再現はできなかった。

若い頃はかなりのお嬢様で育ちが良く、料理上手と評判。おじいちゃんが大好きで、家族経営の会社を献身的にサポートしていた。おじいちゃんは20年も前に亡くなったので、実に長い時間を一人で過ごしただろうが、毎日どんなことを考えていたのだろう。

私が生まれた年に書道を始め、多くの段を持っていた。どうしても小学校に行きたくない日に休ませてもらい、書道教室に連れて行ってもらった。
視力低下を理由に筆をとらなくなってしまったと聞いた時、すごく寂しい気持ちがしたことを覚えている。あの作品たちを、次は遺品整理の時に見ることになるのだろうか。

保育園の迎えに来てもらって、その帰り道で大切にしていたマフラーを無くしてしまい、すごく悲しそうだったのに一切怒らなかったこと。
一緒にお風呂に入ると、得意の歴史の話を聞かせてくれて、でも私は日本史の偏差値40とかの子どもだったから、あまり楽しんであげられなかったこと。
体力が落ち、私の腕を掴んで歩いたとき、恥ずかしくてその手を払ってしまったこと。
ピアノの練習を毎日うんざりするほど聞かされていた中で、その曲が好きと言ってくれたのはシューマンのトロイメライだったこと。

注いでもらった愛情に対して、返すどころか後悔ばかり浮かんでくる。

何もできることはない。直接会えた正月だって手を握って話しただけだ。喜んでもらえる贈りものだって思いつかない。無力すぎる。大好きだよありがとうと伝えても、電話じゃあ何も聞き取れないだろう。だから、ここに、書くしかなかった。のだけど。よく考えれば、会えなくなってから駆けつけるつもりなのって変だよね。後悔をひとつでも無くすために、早く会いに行こうと思う。自己満足でも。

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2022/4/10 追記

昨日、朝イチの便で実家へ。
おばあちゃんは私を認識してくれ、何度も「ありがとう」と言った。それは、私が伝えに来たんだけど。
思ったよりしっかりしていたので、安心した。誰もがもう数日は大丈夫だと思っていた。でも、その数時間後、安らかに永遠の眠りについた。

叔父と父がすぐに様子の変化に気づいたので、私は立ち会うことができた。人を看取ったのは初めてだった。
その瞬間に立ち会うことにこだわったわけではないが、なんせおばあちゃんは寂しがり屋だったから、ひとりでも多くの身内で囲んであげられたのは良かったと思う。

孫世代では私が一番年下で、家もお向かいだったので、とっても可愛がってもらった。
弱り始めてからの彼女は、少女になったり妹になったり幼児になったりと、人生の素晴らしかった瞬間を再び生きていたらしいが、私が会いにきた時は毎回「おばあちゃん」に戻ってくれていたのかもしれない。

お別れはゆっくりと執り行われる予定だ。
ありがとうをたくさん伝える時間にしようと思う。

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