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不満や否定的な気持ちを前向きに利用するコツ

久々にnoteを開くと書き方を忘れていることに気づく。危ない危ない。そうやって腰が重く、筆が遅くなっていくのだろう。ということで急に書き出した。

みなさま、お元気ですか?少しずつ春の気配が僕らを薄着にしていきますね。そして夜に後悔しちゃったりしますよね。わかります。地球に振り回されているし、僕らが地球を振り回してもいるわけで。

ふとnoteを開くと、果てしない過去に書いた記事がいろんな人に読まれていたりします。その中でこの記事で救われた的なリポストが多く、書いてる当時何も考えてはいなかったのですが言葉として残しておくことの意味というものを感じます。

もう今年で40歳になるのですが、我が人生を振り返ると誰も憎まず否定せず生きてこれたなと思ったりする。SNSでは誰かが誰かを怒っていたり、ダメだ間違ってると叫んだり、そういうものを見ていると心がギュッと辛くなる。しずかに憎しみの川と変わってしまったタイムラインと距離を置いて、自由気ままに生きている。

なんで、こんなにみんな怒ってるのだろう?

そう感じることが多い。怒りをぶつけるというか、なんか無作為に人を殴るような、突っかかるような状況を見るし、僕の周りの人でもちらりと見えるSNSでそういうことになっていたりする。
怒りや憎しみの扱いがわからなくなったのか、発露して良いという時代になったのか。我慢すべきとは思わないがこう誰もが見れる場でわざわざ突っかかるのを見ていると、個別で送ればいいのにな…と感じる。その発言を見て関係ない人もちょっと落ち込む。触れなくて良い怒りに触れるのは疲れるものだ。

何か自分の中での違和感なんかを感じると僕の場合は、何か改善できる方法があるんじゃないかと思考のスイッチがオンになる。世の中の負・不を探せというのが、このプランナーという仕事で最初に学ぶことだと思う。なので何かがうまくいってない時には「改善可能な予兆」として、この心の機微を捉えている。

そして、言葉を扱う仕事でもあるので、否定的な発言にはとても慎重になる。誰かを傷つけることを知っているから。何かこれは違うなという発言を目の当たりにしてもすぐには反応しない。持ち帰って想像して、自分が見えていない別の側面を想像する。人って、人の心ってとても多面的で壊れやすいから。

社会的にこれを変えていくべきだと圧倒的に肯定されていることであってもしっかりその全容を把握したうえで自分の言葉としたいと思っている。なので条件反射で否定的だったりする発言を見ると、とてももったいないなと思う。その言葉の裏にあることとか、もう少し想像することで根本的な課題に行き着けるかもしれないのになと思う。もちろん考えての発言だということもある。しかし、僕らの業界の鉄則は否定をしても、よりよくする方法を提示することだったりする。じゃないと僕らがいる意味はない。

もし自分の喉元まで否定や文句が出てきそうになったら、立ち止まるようにしている。この感情はどう生まれたのか。その感情を起こした表現はなんなのか。その背景には何があるのか。自分には?相手には?どういう事情が潜んでいたのか。そして、その根本は何が問題なのか。

こういう思考回路だから、僕は怒らないのかもしれない。
全ての出来事に理由はある。その行程はある。今目の前で見える物事だけで判断することはとても危険だ。この世界は多面的で複雑で非効率的で無駄が多い。だからこそ、楽しく美しいと思っている。この不合理の世界で生き的なためには今の速度に順応するのではなく、自分の速度を取り戻すことが大切なように思う。

会社に向かう途中に川で泳ぐ鴨を見た。オスメスが求愛しあっているのか首を傾けて絡めてクルクル回っていた。可愛いし美しいな。言葉なんてものは何かを伝える時に最も邪魔をしているのかもしれないと思ったりした。

僕は元気です。
みんなも元気かな。
どうせなら気持ちよく生きていこうね。


ラジオやってます。マイペースに。

こんな仕事もしてます。


いただいたお金は子どもに本でも買おうかと思ってます。