これは表現です。

「カテゴライズされることは怖い」と思った。昔から思ってはいたけど明確な言葉になったのは、つい最近のことかもしれない。なので僕の名刺には肩書きがない。うちの会社が何をやるのかもわからない。ビジネスの上ではフリな装い。何屋かわからないところに仕事は来ない。看板のない飲食店みたいなもので入りにくい。

それでも結局「私たちは何者か」ということを言及しない。
一度はしようとも思ったが、うん意味ないねという結論にいたった。
僕の性格として「2度と同じものは作りたくない」というのが根底にある。
それ以前に「カテゴライズされると短命になる」ような予感がある。

そもそも多くの作る人たちが作っているものは目に見えるもの以上の想いがこもっている。例えばカバンを作ってる人がいる。その人が作っているのはカバンだろうか。それを持ってお出かけする人の気持ちを作っている。では作った人たちは「カバンを作る人」なのか。カバンは一つの方法でしかなかったのではないか。そういう思考回路でいる。

家を作れる人がいる。
その人が公園のベンチを作ったとする。
その人がフェスの会場を作ったとする。
その人は何を作る人だろうか。

それは建築家やコックさん、プロダクトデザイナーに映像作家、プランナー、代表取締役、デザイン会社、イベント会社、WEB制作会社…etc無数のタグがぶら下がると急にそれらの可能性が断絶されてしまう。そこが僕は怖いし、世界を退屈にしていく一つの要素に思っている。

なので僕は名刺から肩書きを消した。
会社の名前も鵺だ。妖怪でキメラ的ないろいろくっついてるやつ。
でも、なんしか強い。

そして、僕は相手の企業の大小ではなく、相談してくれた人をみて決めている。なのでうちと取引をするお客さんも作り手も、むっちゃいいやつ。
で、お互いが本来やれることを理解しつつ、それを超えた領域の遊び場を作ろうとしている。こう思えるのも周りの仲間のおかげである。

そういう意味で僕はカテゴライズが怖い。
家で音楽を聞いていて、子供が「これはロック?」と聞かれ(うーん、メロコアだなぁ)と思ったけど、一瞬考えて「これは表現です」と答えた。

良い音楽聞いておどりたくなる気持ち。
美味しい料理で幸せになる気持ち。
音楽も料理も、そして君が踊ることも、誰かの表現に心が喜んでるから。
なので「これは表現です」そういうと子供達は無邪気に踊り出した。
僕もパジャマで踊り出した。週末のこと。

意味のない垣根はたった一言で超えていける。

いただいたお金は子どもに本でも買おうかと思ってます。