自分という存在、あるいは意味の意味について

いつからだろうか、思春期に差し掛かり、「自分は何者であるのか」というごく一般的な悩みを抱え込んでからというもの、自己同一性について、ずっと考えているような気がする。

付属校かつ男子校、あげく途中から帰宅部というさらに奇天烈な環境に身を投じ、気づいたときにはすでに、普通の高校生であればエネルギーの捌け口になるはずの「受験勉強、恋愛、部活」という三本柱が、僕には見事に欠落していた。

そのせいで僕は、有り余ったエネルギーを内面の問題、特に「自己」というものに向き合うことで、消費していたように思う。

未だに正確な距離感を掴みきれないまま、それでも僕はこの謎と、ある程度のけりをつけようとしている。無意識のうちに高校生活のかなりの時間を注いで向き合ったこの謎に、このタイミングで、一旦は自分なりの回答をしておきたい。


僕が誕生した瞬間、小学校に入学した時、中学校時代、そしていま大学進学を目前に控える今の僕、これらの「自分」は明らかにすべて僕ではあるけれど、しかしそれでいて別人と言っても良いほどに異なった存在だ。

さらに、同じ時期において僕の生を切断してその断面図を眺めてみたとしても、「自分」が一つに定まってはいない事に気づく。

例えば、高校時代の僕と一口に言っても、学校、バイト、家族との時間のどれを取っても、全く同じ振る舞いをしているようには思えない。

つまり時間という立体性においてだけでなく、同じ平面上においても(原理的に完全な同一平面とはならないが)、僕という存在は、違うものとして散らばっているのだ。

どうしてこういうことが起きるのだろうか。

僕は、「何かが存在する」ということの意味を、もう少し厳密に探ってみた方が良いように思う。それも「言葉」に目を向けることによって。

というのも、僕らが何かを認識する(知覚ではない)、あるいは思考する、それを伝達するという時、そこには必ず「言葉」がある。「言葉」がなければ僕らの意識は志向性を失ってしまうからだ。

では「言葉」の役割とは何であるか。それは世界の分節化という作用にあると思う。

「Xが〜」というとき、僕らの意識はすでに、Xを「X以外のものではないもの」として把捉する。そしてそのとき初めてXは「意味」を持ちうる。

存在が単体で絶対的な意味を持つことはなく、あくまで分節された世界の「言葉」の網の目の中で、それが相対的に持っている位置、これが「意味」だ。何か事物の意味があり、そこに名前というラベルが貼り付けられているのではない。逆だ。名前があって初めてそこに意味が現出する。

ここに「自分」という存在の揺らぎを解明するヒントがあるように思える。

すこし抽象的な話が続いたので、具体的な日常生活に目線を移してみよう。例えばこんな話があるとする。

あなたはボウリングにハマっている。友人と遊びに行くだけでは飽き足らず、自分専用のボールまで購入した。週に2日はひとりで仕事帰りにボウリング場に寄り、最高スコアが更新されることが、生活のささやかな喜びであった。そんなある日、ボウリング場から出て駐車場に向かっている時、異常な光景を目にする。180cm以上はあろうかという男が、一人の女性に乱暴しているのだ。あなたはどうにかして助けなければと思い二人に近づいた。するとそれに気づいた男が次はあなたに襲いかかってきた。そこであなたは咄嗟に持っていた自分のボールで男を殴った。ボールは見事にクリーンヒットし、男は悶絶している。その隙にあなたは女性を起き上がらせ、一目散にその場から離れた。

「日常生活」と書いた割には全く現実味のない小話となってしまったが、可能性としてはないこともなさそうなので、そこは多めに見てほしい。それから便宜的に大切なボールを生身で持たせてしまったが、それもご愛嬌。とりあえずここでは、僕が先に書いた「言葉」の性質が、具体的な経験世界で実際に作用していることを示せればよい。

さて、ここで「ボール」という「言葉」に注目してほしい。初めのうちこの単語は、「『あなた』がボウリング場でピンを倒すための娯楽の道具」として存在していた。しかし「あなた」が暴れる男を殴ったその時、それまでの「意味」は完全に脱落し、「自分と女性の身を守るための武器」になり代わったではないか。

これが僕の言う「言葉」の「意味」の揺らぎである。

ただ僕は、ここまでの主張を通そうとするなら、それと同時に、次の点を認めなければならないと思う。それはつまり「『言葉』の『意味』は一義的に定まらず、他の『言葉』によって編まれた価値の体系における相対的な位置にすぎないが、一方で少なくともその『言葉』には、どんな場においてもある程度普遍的に持つ中心的な『意味』はある」ということである。

ここで目を向けているのは、いまの小話で言えば、「ボール」という「言葉」には、どちらのテクストにおいても「球体」という「意味」を共通項として取り出すことが可能である、と言う事実だ。

確かに、「言葉」に一つに定まった「意味」が全くないとすれば、それは他者とのコミュニケーションを成立させない。

しかし、「言葉」はその中心的な意味のみでは成立しない。必ずテクストの中で膨らみを持って僕らに対峙する。

「今日給食でプリンが出たんだよね」という発話には、「大好物が出て嬉しかった」「アレルギーで自分だけ食べれず、悲しかった」「朝も食べたのに昼もプリンだった」といったように、前後の文脈によってその発話者の含ませた意味を様々に解釈できる余地がある。

少し話がずれるが、こういった意味の揺らぎに対応する能力が、おそらくAIにできない人間の能力ではなかろうか。AIは僕らの使う自然言語を、一義的な数値に還元して数学的言語として利用しようとするから。

ところで僕は、この辺りで「意味」の「意味」を修正、拡張しておく必要があると思う。僕にとって「意味」とは、「言葉」が指し示すその中心的な部分に、コンテクストによって生まれる余剰、膨らみが加わった、何かしらの場における価値のことだ。

しかし、ここで「意味」の「意味」をこのように定めることは、原理的に不可能だ。もっと言えば、その試みそのものが不可能である。なぜならば、「意味」という「言葉」の「意味」を定めようとすることはまさしく、「言葉」に正確なイデアの反復可能性を託すことになってしまうから。

だから僕は、脳みそをかき回されたような感覚に陥らせるこの事実に悶々としながらも、言葉は言葉によって表現できないという曖昧な地点に、ひとまずは筆を着地させなければならないだろう。

僕は先に「『言葉』には、どんな場においてもある程度普遍的に持つ中心的な『意味』はある」と書いたが、その中の「ある程度」という部分について、釈明しておかなければならない。「ある程度」と書いたからには例外を示そうと思う。

中心的な意味を持ち合わせないもの、それは人間である。

他の事物事象とは異なり、僕らは生産過程から切り離されている。つまり、僕らは無目的的に存在している。

たとえば「眼鏡」は、損なった視力を補填するもの、「コップ」は液体状のものを溜めるためのものだ。では人間はなんのためのものだろうか?

自然界に存在する他の一切のものと異なり、僕らはリビドーとデストルドーを同時に抱え込み、時には自らの命を絶とうとすらする。

あえて有害な方向へ向かおうとすることもある僕ら人間は、無目的的に世界に放り出されている。それが「言葉」の中心的な「意味」を持ち得ない唯一の例外であり、この場合の「言葉」とは、ひとりひとりにつけられた「名前」である。

これまで組み立ててきた論によって僕らはいま、ようやく、「自分」というものの存在について、手がかりらしきものを掴めてきている気がする。

つまり、「自分」とは、その人につけられた名前のもとで持った「意味」の総体であり、その「意味」はその人が置かれた「場」、すなわちその人の周辺(人間だけでなく、ペット、芸術作品、SNS上の友達も)によって相対的に決定されるものだ。

その場その場によって分けられた人格、その総体が「自分」だ。だから例えば、「友達と遊んでいるところ、会話しているところを親に見られるのがなんとなく恥ずかしい、あるいは気持ち悪い」という、誰もが持ったことのあるであろう感覚は、それぞれの場で別の意味を持つ「自分」という存在が、一時的に同じ名の下で両義的な意味を背負い込んでしまうことの違和感から来ているに違いない。

ここまでで僕は、存在するということについて、言葉の観点を深掘りすることで、それなりの結論を導き出せたのではないだろうか。

もちろん、この話題を論じるためにそれなりの哲学書を読み漁ったり、小説を読んだ。脇道に行くこともあったけど、それはそれで必要だったと思っている。

例えば僕の好きな作家の一人である平野啓一郎は、おそらく、そういったそれぞれの場におけるその人の名前がもつ意味を「分人」という独自の概念として提出し、作品にしているんだろうと思う。

あるいはサルトルのいう「無化の作用」は、人間が事物の持つ意味を見つめる際にその場の範囲を決めることのことだろう。

「言葉の意味の揺らぎ」もまた、ポスト構造主義におけるロラン・バルトの「作家の死」やデリダの「エクリチュール」に通ずるところがあるように思う。


そういえば「自分」という単語、よく見てみれば「自らを分ける」と書く。もしかしたら僕らは、考えるまでもなく、感覚的に、直感的に、すでにこの生涯抱え込まなくてはならない流動的で不気味な存在の正体を、知っていたのかもしれない。。。




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