2021年夏、僕は五感を信じない。でも研ぎ澄ませなくてはいけない。

今年に入って視力が落ちて、コンタクトを使うようになったり、もっと大きな出来事で言えば祖父が亡くなったりして、「人間の身体性」みたいなことを考えるようになった。

コンタクトレンズのおかげで僕の視界がクリアになるという経験は、ある種恐怖だった。

これから技術が進歩して、僕の目を完全に人工のものにする時が来るかもしれない。あるいは臓器を移植したりIPS細胞を使って、内臓を交換する時が来るかもしれない。

もしそうなったら、僕は僕ではなくなるのだろうか。。。



古来からされてきた哲学的議論としては「テセウスの船」が有名だけれども、あれは「全ての部品を交換した船は、元々の船と同じだと言えるだろうか」という「モノ」を対象にした議論であって、人間の身体を問題にしたら少し話は変わってくるかもしれない。

ただ最近、何をもって人であるとするか、という問いに対して、ある程度自信を持って答えることのできるものが見つかった。

結論から言えばそれは「感性」ということになるのだけれど。

僕らの目、鼻、舌、耳、それから触覚の神経をいじって取り替えても、電気信号を受け取ってそこから何かを感じる受け皿としての「感性」は、きっと揺るがない。と思う。

このことはまた後でもう一段階深掘りしてみたいと思うので、頭の片隅に置いてくれると嬉しい。



ところで僕らは、五感を使って何をしているだろうか。誰かは、「知覚器官が電気信号に変換して脳に伝達することで、身体を取り巻く世界を把握している」と答えるかもしれない。

ただ、ここで考えなければいけないことがある。「五感によって把握した『世界』は、本当に正しいもの、あるいは現実だと言えるのか?」ということだ。

僕ら人間を含め、生物が生きていくために「外界を把握すること」ほど重要なことはない。そしておそらく、ほとんどの生物が何かしらの知覚器官を働かせてそれを行なっているだろう。

でも、その知覚器官は生物によって異なる。例えばコウモリやイルカは超音波を認識することで、ハエは紫外線を見ることで、蛇は熱を感知してサーモグラフィー的な映像を捉えて、世界理解を行なっている。

他にもマニアックな生き物は大勢いるだろう。とりあえずここで言いたいのは、これらの生物の世界理解の仕方が間違っている、もしくは人間の五感だけが正しいと考えるのは明らかに誤っているということだ。人間も所詮、生物の種の一つにすぎない。

ということは、この「世界」には僕ら(人間だけでなく他の生物も)に知覚されるもの、されないもので成り立っていることが分かるだろう。

このことから帰結されることは「『世界』の様子を客観的に把握することは決して誰にもできない」ということ、それと同時にもうひとつは「『世界』は主観によってしか規定されない」ということだ。



さて、ここからさらに深く思索を進めていきたい。

僕らは確かに五感によって世界理解を行なっているし、他の生物もまた同様に、人間とは違う知覚器官を働かせてそれを行なっている。そしてそのことは世界の客観的な姿が誰によっても決められないことを意味する。以上の点はある程度納得してもらえたかと思う。

「じゃあ僕/私が見ている景色、聞こえる音、味わっている食べ物、その他諸々が正しいものでも間違ったものでもないのだから、世界理解を怠る、あるいは極端に言えば放棄しても良いのではないか」というと、僕は違うと思う。

誰にも『完璧な世界』をとらえることが不可能だからこそ、自分の感覚を研ぎ澄まして世界の解像度を上げ続け、何か純なもの、ピュアなものにアクセスしようとする、そういうプロセスが大事なのではないだろうか。それはあるいは「真理」「本質」「理想」「意味」「善」「美」のような名前で呼ばれているものかもしれない。少なくとも僕は、今の段階ではそういう生き方が美しく、綺麗だと信じている。


それを踏まえた上で、ここからもう一段階考察を進めてみたい。

僕らの「感性」の働きによって感情、心の動きが生まれるのは確かだと思われるけれども、その「感性」が働くのは別に五感から知覚情報を受け取ったときだけではない。

事実僕らは、思い出し笑いをしたり、妄想によってニヤけたり、あるいは怖い夢を見て冷や汗をかくことだってある。

ということは、僕らの感情、心の作用を左右しているのは五感ではなくて、あくまで「感性」が捉えたものによってなされる世界の決定だということはできないだろうか。


今年の夏の初め、昭和の文豪三島由紀夫の『金閣寺』を読んだ。そこでは確かに、現実界ではなく自分の想像、イメージの世界が優越する世界観が展開されていた。

写真や教科書で、現実の金閣をたびたび見ながら、私の心の中では、父の語った金閣の幻の方が勝を制した。父は決して現実の金閣が、金色にかがやいているなどと語らなかった筈だが、父によれば、金閣ほど美しいものは地上になく、又金閣というその字面、その音韻から、私の心が描きだした金閣は、途方もないものであった。
三島由紀夫『金閣寺』新潮文庫

先に述べたように、世界理解がそもそも主観的なものである点を踏まえると、こういう世界観に強い嫌悪感を抱くことはない。


ここからは、ここまでで明らかになったことと僕が大事にしたいことを擦り合わせて、僕がこれからどういう立場を取るか、あるいは読み手にもそれを提案していこうと思う。

さっきも書いたけれど、僕は何か真なもの、純粋・ピュアなものを垣間見る可能性を信じている。そのためにはやはり、「感性」をひたすら鍛えるしかない。

とすると「僕が感じること」にひたすら向き合わなければいけないのだけれど、常にそれを行うのは難しい。

それはただ楽に達成したいとかそういう怠惰な考えからくるものではなくて、記憶が取捨選択されるものであること、常に敏感な姿勢でいると強弱・緩急がつかずにかえって逆効果になってしまうこと、こういうことが妨げとなっている。

もうひとつ大事なこととして「想像、イメージの世界で生じる感覚はすでに、一度経験したものである」ということが挙げられる。

思い出し笑いも妄想によるニヤニヤも、知覚情報から感性がみつけたひとつのチャンネルと再接続することで発生するイベントだ。

夢はどうなんだと問うかもしれないが、夢も潜在意識の働きによって生まれるものだし、その潜在意識は結局、僕が過去に意識下で情報をどう処理したかによって決定される。

となれば僕にできるのは、現在僕が向き合っている知覚情報の解像度を、ひたすらあげ続けることだ。

もちろんずっとではなく、メリハリをもって。

それはつまり、僕が触れている世界の解像度、それを受け取った僕の「感性」、さらにこれから思い出す(かもしれない)感情のクオリティを高めることと等しい。

そうすることで僕が望む、何か刹那的な一瞬の光を捉えることができるかもしれないし、できないかも知れない。

ただどちらにせよ、僕がそれを信じた時間、何より僕自身があった/いた、ということに、尊さを覚える。


もうすぐ夏が終わる。海、川、プール、BBQ、花火など、夏には全身を使ったアクティビティが多い。まだやれていないこともある。

それが終われば味覚の秋、芸術の秋、読書の秋。「感性」を休めることはできない。

僕が望む瞬間を待ちわびながら、僕は、五感を研ぎ澄まそうと思う。

その瞳から落ちる涙は落ちるには勿体ないから
意味がなくならないように
そのコップに溜めといてよ
それを全部飲み干してみたいよ
閉じ込めたその涙には
人を人たらしめる
すべてが詰まっていて
触れたら壊れてしまいそうで
触れなきゃ崩れてしまいそうな
君をここで見守るよ
偉大な歴史の一部を遺すように
僕は歌う
 
RADWIMPS/ブレス




金欠学生です 生活費に当てさせて頂きます お慈悲を🙏