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僕のじいちゃん

僕は老人ホームで働いている。

今日は僕が介護をやり出した、そして今まで16年ほど続ける事ができた理由を振り返ってみよう。





僕が介護の仕事を始めたのは、新卒で入った営業の仕事を3ヶ月で辞め、フリーターをしながらプラプラしていた時。

当時お付き合いしていた方に「あんたおじいちゃん好きやろ?」「近くで老人ホームの求人あったで」「ずっとこのままじゃあかんやろ。やってみたら?」と勧められたのがきっかけ。…彼女の方が年下だったけど。

しかもすぐ辞めれるように正社員じゃなくてパートで応募して、入社面接には金髪にトレーナーとジーパンで行った。今思うとよく雇ってくれたな…

ちなみにその方の前にお付き合いしていた方は、弟さんが障がいを持っておられ、その弟さんと触れ合うことができていたのも、僕の中では福祉の道に進む抵抗をなくしてくれていたと思う。

介護を始めるきっかけは元カノさん達の存在だったな。その節はありがとうございました。
#結局は人







そう、僕はじいちゃんが好きだった。

じいちゃんばあちゃんは駄菓子屋さんをやっていて、僕が子供の頃、駄菓子屋は少なくなってきており、そこの孫というのは一つのプレミアだったと思う。
何かあるたびに僕は周囲の子供達に駄菓子を配るように持たされた。多分人気だったと思う。…僕ではなく駄菓子が。

そんなアドバンテージを与えてくれていたということもあるけど、シンプルに僕はじいちゃんが好きだった。


毎日、カルビーのポテトチップスのキャラクターが書いてあるエプロンをつけて、店の中で普通にタバコを吸い、普通に床に灰を落とす。

民謡の師範の免状を持っており、テレビで賞をもらった事がある。正直その凄さはよくわからんのだけども、じいちゃんちには多くのトロフィーや盾が飾られていた。ばあちゃんは詩吟の師範だったな。

当時店では食パンも売っており、店内で何枚切りかの希望に合わせてカットしていた。その機械を巧みに操るじいちゃんがかっこよかった。

パンの耳は売らないので、僕にくれる。家の近くの池には鯉がたくさんいて、パンの耳を投げると群がってくる様は、僕が鯉を操っている気持ちにさせてくれた。

パンの耳をくれるじいちゃんは、僕に鯉を操る力を授けてくれる、すごい力を持った人だった。


まぁ僕はそういう憧れみたいな目線で見ていたが、実際は僕が見ていたじいちゃんが全てだったようで…
仕事といえばパンを切るぐらい。あとはずっとタバコを吸っていたらしいww


しかし若い時は名の知れた左官屋さんで、義理人情に厚く、気に入らないことがあると「もう金なんかいらん!タダでやったらぁ!」などブチギレする職人だったようでw

結局お金にはなってないので、このままでは僕の父をはじめ、子供ら四人が露頭に迷う…と危惧したばぁちゃんが駄菓子屋を始めた。ばぁちゃんのおかげで僕が生きてるということ。ばぁちゃんありがとう。


そんなじいちゃんなんだけど、そんなじいちゃんだからこそ?僕はやっぱり大好きで。何かあるとじいちゃんに話していた。何を言っても、だいたいじいちゃんは「そうかあ。がんばりやあ。」しか言わない。
話を聞いているのかいないのかわからない。でも絶対「そうかあ。がんばりやあ。」と言ってくれた。


老人ホームで仕事を始めた時もそうだったなぁ。









働き出してしばらくしてから、じいちゃんは毎年なる柿を取るため、梯子を使わずに柿の木に登り、落ちた。
腰の骨を折り、入院になった。その時じいちゃんは確か82歳だったと思う。

その時僕は仕事で、帰ってきた時に入院を知らされ「僕がいてたら取ったのに…」と思ったことを覚えている。
今思えば「82で柿の木登って…若いな。」とちょっと嬉しくなる。矛盾した感情だけど。



骨折の手術は無事終えて、リハビリのため転院した。そしてなんとか歩けるようになり、もう少しで退院…というころ、じいちゃんは肺炎を起こしてしまう。

もう少しで帰れると思っていたのに、入院が長引き、じいちゃんは意欲をなくした。


リハビリが進まなくなり、ご飯もあまり食べない。両膝は拘縮し、立てなくなり、車椅子での生活となった。


4ヶ月ぐらいは入院してたかな、退院はできたが、もともとバカスカ吸ってたタバコの影響で、肺炎はなかなか治らず、肺気腫の診断を受けた。

在宅酸素が必要になり、じいちゃんの生活圏はかなり狭くなった。民謡にも行けなくなり、一日中ベッド上で過ごすようになる。


ご飯の時は台所まで車椅子で行くが、じいちゃんはベッドから車椅子に移る時、前から移乗介助されるのを嫌った。拘縮した膝が痛いらしい。

試行錯誤して、後ろからじいちゃんの腕の力を使ってジリジリと車椅子に移る方法をあみだした。
人それぞれなんだな、色々と学ばせてもらった。



ヘルパーさんにもきてもらい、在宅生活を再開していたが、そのうちばあちゃんの負担が強くなってくる。

じいちゃんは、ばあちゃんには強い。ばあちゃんは我慢して聞く。じいちゃんは耳が遠いのでばあちゃんは声を張り上げて話をする。じいちゃんは聞こえてない。

「はぁ…しんどい。」
ばあちゃんからグチをよく聞くようになってきた。

じいちゃんからすると自分の思うように動けない、民謡にも行けなくなりイライラが募る。でもばあちゃんは召使いじゃないぞ。


困った…。







親戚たち「あ、ねずみがおるやん。」




介護の仕事をしていた僕は家族から頼りにされた。もともと近くに住んでいたんだけども、じいちゃんばあちゃんの家で一緒に住むようになった。ばあちゃんの不満も聞けるし、介護もできる。適任という話。僕の意見を聞く前に決まってたからね、別にいいけどね。


夜は僕がいるので、日中は僕の父、じいちゃんらの子供達四人が変わるがわるじいちゃんちに行き、介助をした。家族が多いって強いなぁ…と思った瞬間だった。
…いや、僕の父は排泄介助はしなかったな。あいつめ。まぁ、こればっかりはしょうがないけどね。



僕の仕事は毎日夜に一回のオムツ交換。

その時は、夜に来てくれる事業所がなかったのかな。今ならいろんな方法が思いつくけど、当時はこれが僕の仕事、と疑ってなかった。


でもこれがまぁ…正直なかなかの負担だった。

在宅で毎日介護してる方からすれば、1日一回オムツを変えるぐらいでなんだ。となるかも知れないが、

当時まだ二十代で遊びたい盛り。夜勤もある仕事をしながら、夜勤入りの日以外は毎日23時にオムツを変える。

遊んでても帰ってきて変える。仕事で残業してても、一回帰ってきてオムツを変えてまた仕事に行く。

…しんどかったなぁ。


まだじいちゃんの便が緩くてw
ほんと今なら色々方法が思いつくけど、当時はほんとに…ちゃっとオムツを変えて仕事に、遊びに戻ろうとしてるのに、はみ出るはみ出るww

ね「じいちゃん…またムッチャ出てるやん!」
じ「そうかぁ?すまんなぁ。」

よくこんな会話をした。


だからかな、今でもお通じには敏感。出なかったら心配だし、出し方にもこだわりたい。どっちにも負担だからね。


じいちゃんも僕を頼りにしてくれて、ほぼ毎回お小遣いをくれた。僕は遠慮なく受け取り、もらったお小遣いをばあちゃんに渡して、またじいちゃんの財布に戻してもらっていた。
#喜びのリサイクル



ベッドの上で、腕を頭の下で組んで天井を見上げるじいちゃん。
テレビを大音量でつけながらうたた寝するじいちゃん。
狭い廊下を巧みに車椅子で通るじいちゃん。
ゴソゴソと枕の下から財布を出して小遣いをくれるじいちゃん。

何を言っても「そうかあ。がんばりやあ。」と言ってくれるじいちゃん。




5、6年、そんな日常が続いた。







僕は結婚することになり、ばあちゃんちに住み続けるわけにはいかなくなった。
前住んでいた近くの家にまた戻って生活を始めた。1日一回のおむつ交換は続けていた。


もちろんじいちゃんにも報告した。
報告した日は僕は夜勤入りで、夜勤前に妻も連れて行き、挨拶をした。

結婚指輪を見せて、
「結婚すんねん。今度資格の試験も受けるねんで。だいぶ大人になったやろ。」と。

じいちゃんは、いつもと変わらず、
「そうかあ。がんばりやあ、」と。


夜勤に行き、朝帰ってきて、僕は寝た。

電話が鳴った気がしたが、そのまま寝てた。

すぐおばちゃんがうちに来て







じいちゃん、朝死んでてん。


在宅酸素のチューブ、外しててな。
今往診の先生来てるわ。












は?死んだ?

チューブを外してた?

なんで?今までそんなことなかったやん?












なんか、わかった気がした。
泣いた、泣いた。





今でも、じいちゃんは僕のために自分でチューブを外して死んだと思ってる。



今は、じいちゃんの気持ちを理解できる気がするし、じいちゃんのおかげで色んなこと知れたし、介護やっててよかったと思えるけど、当時は

僕がじいちゃんを殺したんや。結婚するって言ったから、自分が邪魔になるって思ったんや。僕が自殺させたんや。介護やらんかったらよかった。オムツ変えてなかったらよかった。結婚するのももっと軽い感じで言ったらよかった。

とまぁ荒れた。


身内で最後に話をしたのが僕だった。
身内には全部話したし、周りもそう思ってたと思う。今までチューブ外してたことなんて無かったからね。




…という、言わば美しいような思い出もありながら、あんまり僕の、老人ホームで働いているケアマネという立場でそれ言っては…どうなんだというところだが、やっと終わったって、確実に思った。正直ね。



じいちゃんを、毎日のオムツ交換を、重荷に思っていたんだろうな。結婚してからも続いていたら、大変だったのは事実。じいちゃんには、助けられたと思う。




きれいごとだけじゃなくて、介護は現実。生きている人の、生活を支えるということは、生半可なことじゃない。


でも、死ってきれいごとの部分もあって。

安らかに死んでもらえるように、やり切ったと思えるように、

迷って悩んで試して笑って、

毎日介護できたら最高だな、と思う。



そんな、正解がないよっていう曖昧な部分が、僕が介護が好きな理由。
だから逆に、適当にもできる。なんとでも言える。最高に難しく、すごく人間が出る仕事だと思う。









何が答えだったか、正解だったかは、16年介護してきたけどわからない。いや、わからない事がわかった。無知の知、というやつかな。



でも僕はじいちゃんから多くを学んだ。

介護の大変さ、情報の、知識の大切さ。

要介護者の思い、覚悟。どんな思いで介護を受けてるかを想像できるようになった。



じいちゃん、ありがとう。

じいちゃんの覚悟、忘れてないで。



まだ介護頑張ってます。

多分これからも頑張ります。



見といてね。












「そうかあ。がんばりやあ。」




























じいちゃんの介護できて、よかったで。

じいちゃんのおかげで、介護が好きになったんやで。


おしまい。




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