見出し画像

『才能がある人』は、才能を発揮する技術のある人、の説

シナリオ・センターのあらいです。
2023年もよろしくお願いします。

さっそく本題。いま『忘れられない物語のつくり方』(仮)という書籍の原稿を書いています。
ですが、自分の書いた原稿が、わかりやすいのか、また皆さんが読みたいと思う内容になっているのか、自分では判断ができません。
書き上げた1稿目の原稿をぽちぽちアップするので、「この部分よくわからない」とか、「もっとここ知りたい」とか、好きマーク(これ、安心する)とか、リアクションしてもらえたら、ありがたいのです。

本書のテーマは、創作初心者の方、経験者だけど筆が止まってしまう方が、物語をエンドマークという目的地まで書けるように、なにを考え、どう書けばいいのかをお伝えすることです。

で、今回は 第1章 物語の姿を知ろう から才能について書いたパートです。
4000字くらいありますので、お時間のある時に読んでもらえたらうれしいです!


1 才能が、あるのかないのか

■才能あるのないの問題

 さぁ、創作講座のはじまりです。
 さっそく、みなさんに一つ聞きたいと思います。みなさんは、ご自分の才能について、考えたことがありますか?
 才能という言葉は、創作をしようと思う人なら、誰でも一度は気にしたことがあると思います。

「自分に才能は、あるのだろうか……」
「才能は、あるに決まっている!今はまだ眠っているけど……」
「才能がある、と言われたことはあるけれど……」
「才能がないから、いつも苦しんでいるんだ……」
「あの人みたいに、才能があったらいいのに……」

創作をしようと思っている、もしくは、創作をしている方が、どうしても気になってしまう、この『才能』という言葉。
 小説家や脚本家など、作家として活躍している方々には、もちろん、才能を感じます。
「あの作家のような展開、自分には考えられない」
「あんなセリフ、どうやって思いつくんだ」
「あの設定を思いついた時点で、もう天才だよね」
そんな風に、思うことがあるのではないでしょうか。それに比べて自分は……と思って、なんだか自分が、無能に思えてきたりして。

 この才能という言葉は、とても曲者です。才能という言葉を、大辞泉でひくと、次のように書いてあります。

  物事を巧みになしうる生まれつきの能力。才知の働き。
  「音楽の―に恵まれる」「―を伸ばす」「豊かな―がある」
  「―教育」

 辞書を引くまでもなく、才能というと、生まれ持っての特別な能力という感じがします。そうなると、自分に物語を作る才能があるのか、ないのかと考えたとき、漠然と不安になったりします。いま現在、プロとして活躍しているわけではないのですから、そう思っても当然です。『生まれつき』とか、言われると尚更です。
 まず、創作講座に入る前に、才能という言葉についての考え方を、整理したいと思います。「才能あるのないの問題」にけりをつけておきましょう。

■才能は、誰にでもある。だから、誰にもない

そもそも才能のあるなし、については、悩んでも意味がありません。
創作においては、スポーツように身体性が左右するわけではない点、数学のような正解が存在しない点から、才能の有無を判断することが難しいのです。
もっといえば、才能の有無を自分で判断することは、その道について極めていなければできません。なので、道なかばの人が、自分で判断できるわけもなのです。

シナリオ・センターの受講を検討されている方や、受講して間もない方から、たまに「私には、才能はあるのでしょうか?」と聞かれることがあります。それはわかりません、と正直にお答えしています。
1970年の創立から、これまで何万人という受講生の方がいます。受講後すぐに「この人には、すごい才能がある」と言わしめたのは、たった一人だそうです。その方は、誰もが知る小説家で、累計発行部数は3億冊を超えているそうです。そのレベルまでいくと、「この人は、すごい」と思わせる才能の片鱗を感じさせるようです。
この話をすると、「じゃあ、自分には無理か……」と思う方がたまにいますが、まったくの誤解です。プロとして活躍している方々も、初めの頃は、いまの皆さんと同じように、才能があるのかないのか、判断することができないくらいだったわけです。これが、才能について悩んでも意味がない理由の、一つ目です。

とはいえ、才能があるのかないのか、はっきりさせておきたい、という顔が目に浮かびます。なので、ここでけりをつけておきましょう。
皆さんに、才能はあります。魅力的な物語を書くことが、絶対にできます。
私なりの、創作における『才能』という言葉の定義をお伝えしたいと思います。

 創作おける『才能』とは、他の人には書けない物語を書くことができる能力

唯一無二の物語が書くことができること、ということです。「だから、それが難しいだろうが!」という顔をこちらに向けてきますね。でも、そう思いませんか。他の人には、絶対に書けないような物語が書ければいいわけです。
そして、それは、簡単です。あなたが今から書こうとしている物語は、他の誰にも書けません。プロにも、書くことはできません。絶対に、です。

私は、シナリオ・センターで『シナリオ・ワークショップ』を担当しています。このワークショップは、入学希望者の方に向けて、シナリオが書けるかどうか、シナリオの技術とはどういうものか、シナリオ・センターでどんなことが身につくのかを体験してもらうものです。10年間で、2000名近くの方々に、私は実施してきたと思います。
ワークショップでは、シナリオの書き方と、面白くするコツをお伝えした後に、簡単な設定のあるシナリオを、参加者の皆さんに書いてもらいます。誰もが、初めてシナリオを書きます。
2000名にこのシナリオを書いてもらって、一度として、同じシナリオになったことはありません。他にもワークショップを担当する講師がいるので聞いてみても、同じです。初心者の方が書いた拙いシナリオですが、すでに唯一無二です。唯一無二の作品なのです。
つまり、参加者それぞれの方が、生まれつき才能があるのです。だって、誰にも同じものは書けないのですから。本書をお読みの皆さんにも、同じことが起こります。絶対に、人と同じ作品を書くことはできません。あなた自身、誰とも同じではないからです。
つまり、あなたには、才能があるのです。
ただ、みんなに『ある』ということは、誰にも『ない』とも言えます。みんな、唯一無二の作品が、書けてしまうからです。
では、どこで差がつくのか。
それは、技術です。
才能は、誰にでもあるものです。その才能を活かすも殺すも、物語を書くための技術です。技術の差が、作品の魅力となって現れるのです。そして人は、いいます。「あの人には、才能がある!」と。ですが、正しくは「あの人には、才能を活かすだけの技術がある!」なのです。「才能を活かすだけの技術がある」を略すと「才能がある」という言葉になるのです。

■表現技術によって、才能は開花する

 皆さん、机の前に貼ったあの公式を見てください。まだ貼っていないという方は、急いで貼ってください。気合を入れて、筆で書いてもいいくらいです。自分への果し状です。

「どう書くか」×「何を書くか」=心に残る物語

「どう書くか」が技術です。誰でも、習得することができます。「何を書くか」というのが、作家性です。作家性と才能は、ほぼイコールと考えていいと思います。誰もが持っているものです。
「どう書くか」については、本書の中で、お伝えしていきます。創作の地図を一緒に作っていきましょう。
「何を書くか」については、教えることができません。ごめんなさい。もっといえば、教えてはいけないものです。作家それぞれが持っているものだからです。そこに手を加えようとすると、既製品のような人間ができあがってしまいます。

 私が、ある小学校で体験した出来事があります。その日、私は地域の小学校にて、キッズシナリオというシナリオの出前授業に伺っていました。授業の時間まで、少し時間があったので、何の気なしに廊下に貼ってある作文を読んでいました。作品は、秋に行われた運動会について、5年生が書いたものでした。
 最初は「みんな、なかなかうまいなぁ」と思いながら読んでいましたが、途中から違和感が生まれました。リレーを頑張った話、組体操を頑張った話、玉入れを頑張った話などなど、どれもこれも、運動会で何かしらを頑張った話なのです。
 30名分の頑張った話は、感動的というよりも、ある種の異様さを感じたほどです。前日に、雨が降って中止になったらいいのに、と思った子は、一人もいません。運動会の練習が、嫌で仕方がなかったという子も、いないことになっています。
 私の姪は、運動が大の苦手です。運動会は、大っ嫌いです。もしも姪が、この学校に通っていたら、どうにか運動会を頑張ったことにして、作文を書くのでしょうか。「明日、雨になれ!」と、布団の中で願ったことが、本当に頑張ったことだったとしても、それは書けないような雰囲気すらありました。「何を書くか」を、教えると、こういうことが起きます。
 この場合、作文の課題が「運動会で頑張ったこと」だったとしても、「何を書くか」ではなく、「どう書くか」という表現技術を、先生が子どもたちに伝えることができていれば、子どもたちの作家性は遺憾なく発揮されたはずです。
 運動が得意な子は運動会での頑張りを、運動会が嫌いな子はその思いを、特に思い入れのない子は、周りの子たちの様子を書くこともできるのです。
 
 作家性を花開かせるのが、技術です。「どう書くか」がわかれば、書きたいことを自由に書くことができます。自転車の乗り方がわかれば、好きなところに行けるのと一緒です。
 自転車の乗り方がうまくなればなるほど、いける場所も増えます。行ってみたい場所も増えてきます。そうやって、「どう書くか」と「何を書くか」は、ともに向上していくのです。
「どう書くか」という表現技術が習得しきれていないだけなのに、才能という言葉で、創作から逃げてはいけません。あなたにないのは、才能ではなく、才能を活かすだけの技術だからです。そして、くどいようですが、技術は、誰でも身につきます。
 才能という、本人さえもよくわかっていない言葉のせいで、創作を諦めたり、踏み出せなかったりする方が多いので、ちょっと熱く語ってしまいました。とてももったいないことですから。
 ちなみに、新井一は、才能をこう言っています。

忍耐というか根気というか努力というか、そういうものを持ち続けていることが、むしろ(才能という言葉を使いたければ)才能なのです。

新井一『シナリオの基礎技術』p9

 技術が身につくまで、楽しく続けていけばいいんだよ、ということです。
「だけど、事実、デビューが早い人もいれば、遅い人もいる。自分は、まだデビューの足がかりさえつかめていないんだけど、これは才能の差ではないの?」
 なるほど、そういう意見もあります。ですが、それは才能とは無関係です。技術の習得の速度は、人それぞれだからです。自転車でも、すぐに乗れる人もいれば、そうでない人もいます。
 創作に関していえば、それまでに小説をたくさん読んだり、映画やテレビドラマ、演劇などをたくさん観たりした方が、習得はいく分早くなるかもしれません。ですが、それも誤差の範囲です。洋楽を聴いているから、英語の習得が早くなるわけではないのと同じです。
 大切なのは、才能という言葉で、創作から逃げないことです。もう一度、壁に貼った公式を見てください。少し、付け足しましょう。

「表現技術」習得可能 ×「才能」有 = 心に残る物語

 才能という言葉に惑わされずに、何をやるべきかが見えてきたと思います。露払いは終わりです。さぁ次に進みましょう。
 まずは皆さんが、誤解してしまっている、あのことについて、触れていきます。この誤解のせいで、創作をあきらめる人もいるくらいです。伸び悩む原因の一つでもあります。
 とはいえ、これは講座です。次への集中力は大切。ここら辺で、5分休憩にしましょう。


ここまでが、1章の1のパートです。
このあと、皆さんが混同しているがゆえに、創作を難しいものにしてしまっているドラマとストーリーの違いについての話に続きます。

さて、才能についての話。どんなものでしょうか?

現在、2章まで書きました!残り4章、8万字!!がんばれ、自分。
シナリオ・センターのあらいでした。


シナリオ・センターは『日本中の人にシナリオをかいてもらいたい』と1970年にシナリオ講座を開始。子ども向けキッズシナリオも展開中。アシスト、お願いします!! https://www.scenario.co.jp/project/kids_assist/index.html