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『頭がいい』という評価軸よりも……

ふつ〜に考えたら、『頭がいい』というのはすごい評価なのだと思うのだけれど、もうそういうのいいんじゃないかなって、思うのです。

どうなんですかね?
いやもちろん、「頭よく思われたい」とか「スマートに思われたい」とか、「できる人と思われたい」とかはあります。その逆で「バカだと思われたくない」とか、「仕事ができないと思われたくない」とか。

で、なんか、自分をなるべく人よりもよく見せようとして、みんな疲れちゃってんじゃないかと思うのです。

ぼくは、疲れました。

しかも、そうやってがんばってきて、そんなに幸せになってないでしょ?とも思うのです。『頭がいい』より『人がいい』時代になって欲しいなぁと。

ちょうどそんなことを思っていた時に、『人新生の資本論』という本を読みました。いま、話題の本だそうです。気候変動という、全世界共通の待ったなしの課題をまえに、ぼくたちがどう在るべきか、をマルクスの『資本論』を起点に示してあります。
内容はちょっと難しい部分もあるけど、意外にスラスラ読めます。

で、そこにも、ぼくら(世界の人口の99%)は実は豊かにもなってないし、しあわせにもなってない、と書いてありました。そして、そのなぜなら、にも言及してます。で、「あぁ〜確かに」と思うわけです。

資本主義が進める生産性とか合理性とかって、キリがない。iPhoneは便利だけど、毎年新しいものはいらない。車だって、そんな頻繁にニューモデルはいらない。いらないはずだけど、資本主義はそうはいかないわけです。

そこで登場するのが、『いらない』はずなのに、『いる』と思わせる『頭のよさ』なわけです。
これは何も、マーケティングとかブランディングとかに限った話ではなく、資本主義にまつわるスキルです。それをいまは『頭のよさ』と表現しているような気がします。

じゃあ、資本主義って、ぼくらをしあわせにしてくれてるんだっけ?
よ〜く考えてみるとしてないよね、ってことではないでしょうか。
いま『人新生の「資本論」』が売れているのも、現代に対する違和感が背景にあるんではないでしょうか。

『人新生の「資本論」』を読むちょっと前に、『他者の靴を履く』という本も読んでました。『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』のブレイディみかこさんの著作です。

本書では、日本語ではどちらも『共感』と訳されるシンパシーとエンパシーの違いから始まり、エンパシーの功罪についても丁寧に論じ、エンパシーが持つ課題を提示してくれています。

シンパシーは、かわいそうだと思う相手や、共鳴する相手に対する心の動きや理解やそれに基づく行動であり、エンパシーは別にかわいそうだと思わない相手や必ずしも同じ意見や考えを持っていない相手に対して、その人の立場だったら自分はどうだろうと想像してみる知的作業と言える。p15

ぼくは、頭のよさよりもエンパシーの範囲をどこまで広げられるか、が大切だとここ最近は思っています。
身近な他者から、帝国資本主義から奪われる側のグローバル・サウスの人々、そして今はいない、未来の人々のために、ぼくらはどこまで想像力を発揮できるのでしょうか。

いま、ぼくらが生きている社会には、想像力が足りない、と思うのです。それが気候変動にも、新型コロナウィルスへの対応にもあらわれているのではないでしょうか。

資本主義が『頭のよさ』を求めるのだとしたら、脱成長コミュニズム社会には、エンパシーを基盤とする『人のよさ』を求めるんだろうなぁと思うのです。

そして『人新生の「資本論」』にも、『他者の靴を履く』にも書かれていないこと、それは、どうすれば人は他者への想像力を発揮できるかという点です。

ぼくは思います。
それは、さまざまな登場人物の立場になって書く、シナリオだな、って。

最後まで読んでくださって、ありがとうございます。
頭のいい人よりも、いい人にそばにいてほしいあらいでした。


SDGsに対する違和感は、グリーンウォッシュだったことが、本を読んだらわかりました。本は、世界を広げてくれますね。



シナリオ・センターは『日本中の人にシナリオをかいてもらいたい』と1970年にシナリオ講座を開始。子ども向けキッズシナリオも展開中。アシスト、お願いします!! https://www.scenario.co.jp/project/kids_assist/index.html