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なんで外国ではウキウキしながら雑草を撮るんだろう

矢車菊、という花の名前を聞いたことがあるだろうか。

私は植物にうとく、「あーあの花ね」とピンと来なかった。「菊」というくらいだから、黄色か白かな?と思っていたが、実は青なのだ。(今日のサムネイル画像が矢車菊)

なぜそんな話をしているのかというと、今度「矢車菊」という曲をコンサートで歌うことになったのだ。

リヒャルト・シュトラウスというドイツの人が作曲した歌曲集『乙女の花』の中の1曲だ。本当は今日、この曲についてnoteを書こうと思っていたのだが、終わってみるとまったく違う話になった。

でも、人生においてわりと大事なことを思い出せたなと思う。


雑草が映えている

話は変わるが、矢車菊は雑草だ。ヨーロッパでは、こんなにも綺麗な花が雑草として咲いている。はっきり言って、かなり映えていると思う。

O-DANより

数年前スイスに住んでびっくりしたのが、矢車菊と一緒で、ポピーもそこら中に咲いている雑草だということ。ポピーは日本でも見かけるが、上の画像みたいに咲き乱れている風景って、少ないような気がする(大阪だから?)。

スイスではちょっと歩いただけで、こうした花々に出合えるのだ。雑草だと分かっていても、カラフルだからか、見ているだけで癒される。

なんで外国では雑草を撮るのか

しかし日本で働いていた時は、雑草を気に止めたことはなかった。ましてや立ち止まって写真を撮ることなんて、したこともない。スイスに住んだ途端、そこら辺に咲いている雑草を「きれいだなぁ」と思うようになった。そして写真にも撮るようになった。

が、しかし。日本に帰ってきて3年、雑草の写真は私のカメラロールに1枚も増えていない。

なんでかなぁと考えてみた。多分「自分にとってスイスの雑草は初めてのものだったから」だ。まぁ、初めて外国で暮らして浮き足立っていただけのような気もするが。

本当に不思議。なんで外国で初めて見るものには「おぉ〜」と感動して写真を撮ったり(撮らなくても記憶に残ったり)するのに。日本に帰ってきたら「当たり前」として流してしまうのか。

できればそこを流さずに、日常に感動したい。春になったらたんぽぽとか撮ろう、と思った。

「平凡のなかにある非凡なものを、感知しているだろうか?」

そういえば。これを書きながら、終末期医療に関わる2人による『ライフ・レッスン』という本を思い出した。

死にゆく人たちが「もう一度だけ星空がみたい」「もう一度、しみじみ海をながめたい」というのをきくとき、わたしたちはいつもハッとさせられる。海のそばに住んでいる人はたくさんいるが、しみじみ海をながめ、海を味わいつくす人はほとんどいない。ほとんどの人は空の下に住んでいながら、星をながめようともしない。わたしたちはほんとうに人生にふれ、味わい、堪能しているだろうか?非凡なものを、とりわけ平凡のなかにある非凡なものを、感知しているだろうか?

『ライフ・レッスン』最終レッスン より
(エリザベス・キューブラー・ロス、デーヴィッド・ケスラー著
上野圭一=訳)

引用するために、この本を手元に持ってきた。読んだのは大晦日だが、当時の私も「大事だな」と思ったみたいで、線を引いている。

いやぁ、まだ年が明けて1ヵ月くらいしか経ってないのに、忘れるものなんだな。このnote書いてよかった〜。

「私、毎日感動してます!」みたいに生きると疲れてしまいそうだけれど、ふとした瞬間に「あ、いいな」と思えるくらいの心構えでいたい。2月はそんな1ヵ月にしよう。

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