見出し画像

私の後ろ戸

先日、高速バスを利用し、広島市内へ買い物へ行った。
バスに乗車したのは高速上のバス停。
高速上のバス停への入り口には、沿道の騒音対策なのだろうか、防音仕様の厚い扉が設置されている。
目的地への往路でこの扉を開けるときは何も思わないのだが、帰宅時(夜間帯)にこの扉を開ける際に、無性に寂しさが込み上げてきた。

昼間の楽しかった空間から続いてた世界線が、この扉によって遮断され、明日からの日常生活が待ち構える現実世界に戻される。
そのように感じてしまったのだろう。

以前にもこのような経験があった。
当時信州に住んでいたとき、中央道の高速バスで東京に行くことがあったが、その際日野バス停を利用した。
東京での仲間との楽しかった飲み会が終わり、ひとり帰路につき、日野バス停の扉を開けたとき、この寂しい感覚に陥った。
信州の家には家族が待っているのだが、飲み会の楽しさに加え、かつて東京で生活していたときの華やかさが思い起こされ、このように感じたのだろうか?

最近見た「すずめの戸締まり」という映画の中で、「後ろ戸」という扉が登場する。

主人公のすずめがその扉を開けると、中にはきれいな満天の星空が広がる世界があるが、何故かその扉を通ってもその世界には入られないシーンがある。

劇中の後ろ戸の意味合いと、私が感じた扉の意味合いは少し違うのかもしれないが、扉というものは時に非日常な世界と現実世界を隔てる役目になっているのかもしれない。
扉の先の記憶が、華やかであればあるほど。

でも、きれいに映る扉の先の世界とを分け隔てリセットし、現実世界へ戻る覚悟を持たせる意味でも、このような後ろ戸はいい役目を果たしてるのかもしれないと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?