「人材」育成か「市民」育成か

現実の政治家たちがどうか、という点はともかくとしてw ヨーロッパでは今、RacismとかGenderの問題など人間同士の間でのJusticeと同じくらい、このClimate Justiceも教育として外せない要素になってる、というお話。スウェーデンのグレタさんが呼びかけて始まったデモの広がり、イタリアでのこうした動き、オーストリアでは緑の党が政権与党入りしようとしている。


翻って日本。日本の教育の中には問題山積なのはもちろんだけど、その中に「グローバル人材育成」か、「グローバルシティズンシップ育成」か、という課題がある。グローバルうんちゃらの話では、いつも英語のヒヤリングやリスニング、英語で意見を発信だ、という話にだいたい帰結する。その末路が昨今の英語民間試験をめぐり明らかになりつつある「教育疑獄」なんだから情けない限りだが、考えてもみてほしい。英語で自分の意見を言うためにスピーキング教育の強化を、小学校から英語教育を、なんて言うけど、意見って何?何言う気?教育で「市民」じゃなく「人材」育成を重視した場合、そうやって育った「人材」が持ち発信すべき「意見」ってそもそも何だと考えているのでしょう?だって、これから必要とされる「グローバル人材」とはこういう人たちだ!という話を前任校で散々聞いたけど、「明日からタイの工場にパッと派遣しても現地スタッフをうまく使って仕事できる人材」なんて時点で、はいはいと派遣されてく「人材」がいったいどんな「意見」を持てばいいわけ?そう、昨今の教育改革では、主体的学びや自分の意見や考えを持つ市民、と言いつつ実際のところ「人材」の育成が目指されていますが、どんな「意見」?しかもそれをどうやって持てるようにするの?という話は誰も注目しない。

日本の教育、昔からではあるけど特に経済状態が悪化した後の平成の改革は、グローバルにしろ英語にしろプログラミングにしろ「人材の育成」というのを掲げている。日本は冷戦期に、共産圏とのせめぎ合いが激しい東アジアにおける資本主義経済と民主主義社会のショーウィンドウとしての役割が与えられ、特に敗戦後の焼け野原から目覚しい経済的発展を遂げたことに価値を置くようになった(「日本は経済大国」って言説がもうそうだよね)から、教育も「市民育成」より、働いて経済活動に参加できる「人材育成」により力を入れるべき、ととらえられがちである。そういう調査結果を読んで自分はびっくりしたけど、日本の世の中じゃそっちが普通というか、特に疑問も持たれてない。ぶっちゃけ区別もついてない。「人材」がいればdemocracyも「市民」ももれなくついてくんじゃね?みたいなそんな感じw

忘れちゃいかんのは、古代ギリシャのdemocracyは奴隷制を前提にしてること。つまり、あの社会で働いて経済活動にがっつり参加してたのは奴隷たちであり、経済活動に参加する人、技能ある職人=市民、とはならない。働ける「人材育成」が必ずしも近代democracyという、人間の性から考えたら極めてunnaturalな状態の維持には貢献しないってことである。公正や社会正義、人権など、近代democracyが土台にしている概念は、必ず教育によってしか維持できない。democracyも市民も、意識して育成しなくたって働いてりゃそこにnaturalにできちゃうものでは決してないのである。

今はグローバル経済の時代。資本主義経済が大暴走中である。かつて帝国主義の時代がそうだったように、肥大化した資本主義と帝国的独裁権力はすこぶる相性がいい。そこに「市民」は確かに要らない。今アジアはそうなりつつあるように見える。democracyなんかアジア起源じゃないもん。資本の力に押され、本来のnaturalなアジアが戻りつつある。

さて、ここで考えたい。経済的に豊かにさえなれれば、古代アッシリア帝国、人間の性から考えると超naturalな状態で肥大化した「世界最古の帝国」、多種多様な「人材」はいたけど、公正も近代的な意味での社会正義もなく「市民」はいない国、人は知識人ですら名前を奪われ言葉を奪われ帝国を構成する「モノ」、それこそ「材」になっていく、それでも他を圧倒する軍事力(翻れば居住地の安全)、経済的豊かささえあれば価値があると考えるのか。それともunnaturalな近代democracyに価値を置き、歴史的に勝ち取った公正だの人権だの社会正義を徹底して教育し価値観を維持し、豊かさや平和との折り合いを苦しみながらでも模索し続けていく道を選ぶのか。古代アッシリアなんてまた極端なー、そこまでの話じゃなくてもー、とか程々の独裁でー、なんてぬるい事はまぁ起こらないと思った方がいい。そちらが人間の性としてnaturalな状態、ということは、最初はいかに誤魔化していても、水が高いところから低いところに流れるように、必ず古代アッシリア帝国に程近い状態が出現する。自分は、中島敦はだからローマでもなくアッシリアを、アッシュルバニパルを題材に小説を書いたんだと思っている。アッシリア、「世界最古の帝国」には、人間がその性に従い、強さと富を求めて肥大化した究極のnaturalさがある。前者が人間同士のjusticeはもちろん、climate justiceと相性が悪いのは、バビロン捕囚に通じる強制移住政策やレバノン杉なくなっちゃったことからばっちり証明されてる。しかも、2000年近く続いた国は、肥大化したあと滅亡して、復活することもなかった。持続可能性とは真逆の結末が待っている。

もはやdemocracyやjusticeすら壊れつつある日本で、そして東アジアのバランスの中で、「市民」を、citizenshipをどう育成するか、は実は21世紀の世界における大きな課題ではなかろうか。ヨーロッパだけで持続可能な社会は実現できない。地球は一つなんだから。

#教育 #環境問題 #justice #citizenship  #持続可能な社会



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