ヨーロッパ文化教養講座(新約聖書「善きサマリア人のたとえ」の話)
2023/07/05
小生はほぼ毎週日曜日の朝は、所属教会で礼拝に出席している。
7月2日の牧師の説教は、「善きサマリア人のたとえ」の話だった。
たいへん、有名な話なので、自分の理解の確認も兼ねて書き留めたい。
1.舞台背景:
イエス・キリストが十字架に掛かるために、エルサレムへ行く途中、村々に教えを説いていき、大変評判になった。
このときは、ユダヤ教の時代。
ユダヤ人の支配階級は、神殿を管理する祭司とその部下(サドカイ派)、及び律法学者(ファリサイ派)。
2.ファリサイ派からイエス・キリストへの問い:
ユダヤ教の最も大事な掟(律法)を守るファリサイ派にとって、ときによっては掟を破っても民を助けるイエス・キリストの存在が邪魔だった。
そこで、イエス・キリストに問う。
律法学者「先生、どうしたら、神の国へ行けるのですか?」
イエス・キリスト「律法には何と書いてありますか?」
律法学者「『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。また、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』とあります。」
イエス・キリスト「それでは、その通りにしなさい」
律法学者「わたしの隣の人とは誰ですか?」
*律法学者は、自分の質問を質問で返された上に、イエス・キリストから何も糾弾できるような言質を取れなかったことから、更に質問をする。
3.善きサマリア人のたとえ
ここで、イエス・キリストは、律法学者に対して、善きサマリア人のたとえを用いて説明する。
1)ある(ユダヤ人)が(治安が悪い)エリコ街道を歩いていると、追い剥ぎにあい、半殺しになって、街道に放置されている。
・そこに祭司が通りかかったが、街道に倒れているこの人をみて、避けて通り過ぎる。
・またそこに、レビ人(祭司と同じ一族)が通りかかったが、同じく、避けて通り過ぎる。
・そして、(当時、ユダヤ人と対立し嫌悪感を持たれていた)サドカイ人が通りかかった。 彼を抱き起こし、手当をてして、宿屋に運び、宿屋の主人にお金を渡して、彼を見守るように頼んだ。
2)イエス・キリストは、律法学者に言った。
「この中の誰が、追い剥ぎに遭った人の隣人ですか?」
律法学者は、答えた
「慈悲深い行いをした、その人です。」
3)イエス・キリストは、律法学者に言った。
「あなたも行って同じ事をしなさい」
3.「善きサマリア人のたとえ」の解釈
1)追い剥ぎに遭って半死半生になっている自分たちと同じユダヤ人を見捨てた、祭司とレビ人は、厄介事に巻き込まれたくなかったということもあるだろうが、このユダヤ人が死んでいるかもしれないと思い、死者に触れると汚れるという律法を守ることを優先した。
つまり、人命救助より自分達の信仰を守ることを優先した。
2)イエス・キリストに質問をした律法学者は、当然、律法を守る立場なので、このたとえに、律法学者が登場すれば、当然半死半生のユダヤ人を見捨てる立場だったことを、気づかせられた。
3)そして、この「善いサマリア人のたとえ」についての説教を聴いている我々もまた、見捨てた祭司と同じ事を繰り返す、罪深き人間である。
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