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風・変曲点 第3話



 日が沈んで薄暗くなってきたころ、地図にあった町、チタムに着いた。ここで一泊して、また明日の朝発つ予定だ。

 ホテルに行く前に、まず十分な飲み水をどこかで確保しなければならない。しばらく走っていると、道よりの小ぶりな建物に何か看板のようなものが出ており、車が数台止まっているのが目についた。どうやらハイウェイに近いことから、長距離トラックのドライバーたちを相手にするレストランのようだった。

ドアを開けて中に入った。
古びた石の壁に木の床。表向きからは想像できないほど広々とした空間だった。

 壁に沿って長いいすが据え付けられており、古く重そうな木のテーブルが並んでいる。テーブルクロスは紅色をベースに鮮やかな緑や青色を散りばめたもので、イスラム教に関連すると思われる入り組んだ模様に織り上げられている。高い天井の天窓から斜めに陽が差し込んで、これらの色に深みと奥行きを与えていた。

 戸口で席に通されるのをしばらく待ったが、誰も出て来ない。中に入って目についたテーブルに席を取った。夕食時であると思われるが、客はまばらだ。奥のほうに店の者らしき男たちが座っていて、何やら顔を寄せ合って話し込んでいる。メニューをもらおうと手を挙げた。三人のうちの一人がこちらを見たように思えたが、気がついているのかいないのか、よくわからない。まだずっと話し込んだままだ。

 どうしたものかと思いながら、もう一度手を上げたとき、隣のテーブルから声が聞こえた。

「ここでは、辛抱強く待つしかないのよ。ははは」

 力のこもったハスキーな声。強い訛りのある英語で声をかけてきた相手はその太い声に似あわず人なつっこい目をした三十代前半の黒い肌の女だった。スレンダーな体とはアンバランスな大きな胸が濃い紫色のタンクトップの胸元から半分溢れるように突出している。なめらかなチョコレート色の肌に、細かくカールした肩までの黒い髪。煙草をくわえた唇は官能的に厚く、とびきり赤い口紅とリップグロスがたっぷりと塗られている。

「まあ今日中に夕食にありつければラッキーだと思わなきゃあね」そういって細い指の先ではさんだ煙草の煙を吐いた。

 加奈はもう一度店の男たちに目を向け、「気長に待つことにします」そう言って少し笑ってみせた。それを見た女の弧を描いた眉が少し動いて、やにわに興味をもったような表情に変わった。

「あなた、どこから来たの?」そういうなり加奈の前に席を移してくる。
日本から来たと聞いた途端、歓声をあげた。

「ジャパン! 日本の男たちってかわいくて大好き。それに体毛がなくてつるつるしてるしね。日本のシバイヌもかわいい」犬と男は同じペットのレベル扱いらしい口ぶりだった。

「私はニューヨークから来たの。日本人もいっぱいいるわ。つきあってたのは、なんて名前だったっけ。ちょっと待って、今思い出すから。そう、タケシ。とってもいい子だった。カンフー映画に出てくるハンサムな主役みたいで」

 ニューヨークから来たという割には、発音に訛りのある英語を話す。生まれたのはどこか他の国なのだろう。

「今のボーイフレンドはチャイニーズだから、日本人の男と似てるけど。でも味はスシとムーシューくらい違うわよね。でもさ」と女は相手のことはおかまいなしといった風にしゃべり続ける。「エジプトの男もいいわよ。ダークな肌で、セクシーで。ちょっと禁欲的なところがまたいいのよ」うっとりしたように言う。

ちょっとついてはいけない話題だと加奈が感じていると、店の扉が開いて男女数人の客が入ってきた。みんな体格がよく、砂漠の太陽に日焼けしたばかりの肌に派手なTシャツを着ている。それぞれにカメラやマイクロフォン、ライティング機器やサウンド器機などを持っている。明け透けな大きな声で話している英語のアクセントから、アメリカの映像クルーだと想像がついた。

「ちょっとぉ。遅かったじゃない。砂地獄に転がり落ちて帰ってこないのかと思ったわよ」
 そう言って女が声をかけると、「お前さんの蟻地獄に転がり込んじまうよりマシだと思うけど」と濃いサングラスをかけた長髪の男がサングラスをはずしながら、愛嬌のあるウィンクとともに軽口を返す。
「この暑さ自体が地獄だよ。まったく」

 ベースボールキャップをかぶった別の男が汗を拭きながら、うんざりした声で言う。
 女は笑って、「そんなこと言って、いいウィードが手に入ったからって天国気分なんじゃないの」
 麻薬のことを言っているらしい。ベースボールキャップの男はあごを天井に向けて高らかに笑って、すぐそばの椅子にどっかりと腰をおろした。
「私はアビエラよ。彼はチャーリー。その向こうはマーク。それにヴィヴィアン。彼女はレポーター。私たち、テレビの取材でここへ来たの」

 加奈に向き直って女が言った。
 加奈は自分の名を言って、ここからアクラムの町へ行くことを告げた。
「アクラム。これから行くところも同じ方向だけど、あたし達が行くのはもっと内陸より。今夜はここに泊まって明日発つの。この奥はホテルになっているのよ」

 しばらくすると店の男がやって来て、テーブルの上にオリーブやパンをのせた皿を置いた。みんな連れあいなのか、とたずねるしぐさで、アラビア語で問いかける。アビエラが何かアラビア語ですらすらと答えた。店の男はわかったといった風にあいづちをうって、すぐさま、重い木のテーブルを動かして、テレビクルーの全員と加奈がいっしょに座れるようにアレンジした。きっとアビエラは、自分たちは一つのグループだからテーブルをくっつけてほしいと頼んだのだろう。

「アラビア語を話せるの?」加奈がたずねると、アビエラは「あたしはもともとエリトリアの生まれなのよ。どこにあるか知ってる?」と丸い大きな目で面白そうに加奈の顔をのぞきこむ。
ここへ来る前に、中近東とアフリカの地図は調べてある。
「アフリカの東側だったと思う。エチオピアのあたり?」

 そう言うと、感心したという顔で、「大当たり。スーダンの南とエチオピアの東。ここにいる連中は他の国のことなんて全然知らないわよ。エリトリアの大半がムスリム(回教徒)だってこともね」
そう言って、ハイファイブのために手を上げた。

 料理が次々に運ばれてくる。伝統的なクレイの器に入ったピラフのような米料理は今しがたオーブンから出てきたといういでたちで熱く芳ばしい香りを放っている。メジロの香り焼き。オクラとラムのトマト煮込み。ビーツと呼ばれる赤カブのような根菜の料理。ゴマをペースト状に練ったタヒーニ。中近東でポピュラーなタブーリと呼ばれるクレソンのサラダ。

「ここにはメニューなんてないのよ」アビエラが加奈に耳打ちする。「その日あるものを作ってもってくるだけ」
 
それにしては上出来の料理だった。シンプルを極めたような料理なのにその味は深い。素材はみんな驚くほど新鮮で、その証拠にズッキーニに残る黄色い花はまだ畑から摘み取られたばかりというきれいな色をしている。この近くで採れたものばかりを料理しているのかもしれない。そしてラム肉の柔らかさ。とろりと甘いソースはザクロのジュースに蜂蜜を混ぜたような、不思議な優しい味がした。

 酒の類はいっさい見当たらない。店には置いていないのだ。イスラムの文化にあって、アルコール類はいっさいご法度だ。

 カイロにあるシェラトンやヒルトン、フォーシーズンズなどの一級ホテルならまだしも、都市から離れた地方では、客がワインやビールを持ち込むだけで怒り出す主人もいるからということで、誰も酒は持ち出さなかった。持込みのバーボンを飲もうとして、店から追い出されたという経過がここへ来るまでの他の町であったらしい。もう日が暮れかけて、近くには夕食を取れるところなどどこにもないのに、ここで追い出されては大変だ。
「あなたもここに泊まれば」とアビエラが加奈に声をかけた。それも悪い考えではないかもしれない。どうせスケジュールなんてないのだ。

 アビエラがクルーの全員に加奈を紹介してくれた。クルーは全員で七人。シンジケートのための特別番組の取材に来ている。取材を受け入れる側の体制が整っていないからと、ここまで漕ぎつけるにはずいぶんの長い月日がかかったらしい。今でもすべて承諾を得たわけではなく、プロドューサーの力とコネクションで何とかここまでやってきたものの、取材が果たして本当にできるかどうかはまだわからないのだという。

「どんなテーマの番組なの?」
 加奈が興味を持ってたずねると、レイと名乗ったカメラマンの男が「幸せに生きるための究極の秘密」だと答えた。

 これまでの軽口のやりとりからして冗談だろうと思ったが、カメラマンの男の顔はいたってまじめだ。「つまりね」とアビエラが笑ってつけ加えた。「アクラムからもっと奥の、リビアとの国境に近い場所に小さな集落があるの。ワヒの集落と呼ばれているんだけどね。そこは砂漠の真っ只中にもかかわらず、いつも食料が豊富で、そこに住む人たちはみんな楽園に住むみたいに暮らしてるって話しなのよ」

「楽園?」
「そう。それは特別な場所なの」

不思議そうな表情の加奈に、
「私たちもはじめはヴォルテックスみたいなものかと思ったのよ」
レポーターのヴィヴィアンがオリーブをつまみながら言う。

「ヴォルテックスって?」

「地球のあちこちにあるんだけど、そこへ行くと元気が出るような場所なのよ。アリゾナ州のセドナなんかもそうだし。要するに地球の磁気パワーというか、ツボみたいなもんなんじゃない? セドナにはスピリチュアルセンターみたいなものがいくつかできてる」

「でもそういうのじゃないのね?」
「全然違うのよ」と、少し興奮した様子で、今度はラム肉を串に刺したシシカバブを振りかざしながら言う。

「これから行くその集落ではね、重い病気になったりする人がないんだって。しかも大きなケガをする人もないっていうのよ。争い事もなくてみんな仲良く暮らしてる、おとぎ話みたいなところだって。みんなが自分の好きなことだけをして、それで暮らしていける。ね、興味湧いてくるでしょう?」
ニューエイジかあるいは何かうさん臭いカルトかという気もする。
カメラマンのレイがそこで口をはさんだ。

「それだけ聞いたらカルトみたいだけど―」
 そしてアラン・ミクリの丸い眼鏡の奥の怜悧そうな目で加奈を見て、「おそらくはイスラム教の信仰とかかわりがあるんじゃないかと思うんだ。どんな宗教でも奇跡は起こるとされているけれど、それは信仰の強さと関係している。きっとこの集落では絶対的な信仰があって、とても強い力をもった宗教的なリーダーがいるのかもしれない。多分ね。それにしても視聴者の興味を引きそうなおもしろい話しがいろいろあるんだ」

 そう言って、なぜその集落がプロドューサーの目に留まったかを物語るストーリーを話し出した。生粋のニューヨーカーらしく、レイの話す英語はとても早くてよくわからなかったが、言っていることはこういうことだと思う。
 何十年かに一回だけ砂漠の向こうに橋が渡る。何でできた橋かは、誰も知らない。とにかく果てしなく遠い砂漠の向こうにある橋を渡ると、思いのまま願いがかなう。そして永遠の幸福を得るのだ、という。

 エイエンノコウフク?
 そんなものがあるわけはない。

 そう思ってから、いやしかし、と加奈は思い直した。あるはずのないもの、起こりうることなどないと思っていることは、すべて、ただそう思ってきたことに過ぎない。最近起こったいくつかの出来事は、加奈の足元にある大地の基盤を揺るがすに十分のことだったから。

 そしてその橋を、その時はまだ年若い頃に見たというベドウィンの老婆がロジディという村に住んでいるという。そこは電話もないような、砂漠に取り残された小さな村だ。ほとんどが年寄りと子供で、若い、労働力のあるもの達は大きな町へ出稼ぎに出てしまっている。
 けれどもそれ以上の情報は何も入手できていない。本来ならプロダクションの企画の段階でしておくべきファクトファインディングがまったくできていないとのことだった。

何だか絶滅寸前のジャワサイを探しに行くようなプロジェクトだ

(第4部へ続く)


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