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風・変曲点 第2話


  電話の向こうで古い柱時計の打つ音が聞こえた。それは加奈の子供の頃からあった大きな時計で、小さい頃はその振り子の振れるのを見ることと、時がうねりを描いて過ぎていくことが同一線上にあった。

 幼い頃、ちょうどまだ背丈が母の腰までしかなかった時に、母の腰に後ろから両手を回してしがみついて、「ひっつき虫!」とふざけた記憶がとっさによみがえってきた。そうすると母はいつも笑いながら向き直って、加奈を抱きしめたのだった。

 つとめて普通の声を出すようにしながら、「お母さん、私ね、お母さんのこと、ものすごく大切に思ってる。いつも、ずっと。これからも」と、加奈は言った

 少しの沈黙の後、「何かあったん?」と母はたずねた。
「ううん、しばらく旅行に出ると思う。まだはっきりと日程は決まったわけじゃあないから、また連絡するけど」

 そして加奈は、しばらく休暇を取っていないので旅行に出てみたいと思ったこと、仕事はとても順調にいっていること、マンションの模様替えをしたことなどを話した。  

 電話を切る前に、母は、何があっても加奈のことだから大丈夫だ、余計な心配などしない、と言った。その言葉は心に染み入るようで、心の内側をあたたかくさせた。

 その夜はベッドに横たわって、つとめて眠ろうとした。体はとても疲れていたが、神経が高ぶって眠れなかった。何ども寝返りを打った。何も考えないで、とにかく眠るのだ、と自分に言い聞かせた。

 加奈ちゃん、と呼ぶ声が聞こえて、見ると美術館の川西さんがそばに座っている。加奈ちゃん、行くべきだよ、とその夢の中の川西さんは言っていた。「俺は行けなかったけどな」
 いつしか鳥の声が聞こえて、空が少し明るくなっていた。少しは眠ったのか、あるいは全然眠っていないのか、自分でもよくわからない。それでも加奈は起き上がったそして、ていねいに歯を磨いて顔を洗った。手のひらにあたる水の冷たさが新鮮に感じられた。

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 朝早く家を出た。時計を見なかったので何時かわからない。「私は、今から病院へ行くのだろうか」とまるで人事のように、加奈は考えた。そしてそのまま、まっすぐに歩いた。バスの停留所を越してさらに歩き、地下鉄に乗って見慣れた駅で降りた。通勤のため何百回として乗り降りした駅だ。通い慣れた職場である美術館へ向かって歩いていくためのこの並木道をこんな早い朝の時間に歩くのは初めてだった。朝の太陽の長い影が加奈の目の前に見える。空は高い。風は秋特有の空気のにおいで、それは心をとても神聖な気持ちにした。

  道を行くのは加奈一人で、美術館までの間、誰ともすれ違わなかった。美術館に着くと、加奈は職員通用口に回り、セキュリティコードを押して通用門を開けた。中に入ると、扉を閉め、そのまま事務所には行かず、展示場の方へ歩いた。昨日と同じく二階へ上がって、大展示室へ入っていった。高い天井に近い窓から差し込む朝日が、床にまぶしい模様を描いている。館内の照明はまだともっていない。その光が映し出す展示物―古いギリシャの彫刻や中世ヨーロッパの絵画などが、光と影の陰影を持って照らし出される。大きな展示室の全てが、何か幻想的な模様に見えた。

 もう一度、加奈は昨日見た絵画のそばへ歩いていった。朝の光のなかで、その絵はまた違った色調を帯びているように見えた。ただ決定的に異なっているのは、その砂漠の絵のなかに、人物が二人、描かれていることだった。息を呑んだ。もう一度、目を凝らしてみた。確かにそこには昨日なかった人物が描かれている。それは後ろ姿の影で、どちらも、男とも女とも言い難い。二人は手を取り合って、まっすぐに、砂丘の上に立っていて、月光に照らされている。二人の輪郭は寄り添い、重なりあっている。どちらも、まるでもう一人がそばにいてこそ完成されることができるかのように、二人の心はぴったりと寄り添っているかのように見える。

加奈は手を握り締めて、後ろに下がった。距離を変えれば何かが変わるような気がしたが、そこには変化はない。そしてその絵から離れて、反対側の展示物をぐるりと眺めた。そしてまたもとの絵のそばに戻った。間違いはなかった。これは昨日見たものと同じ絵だった。

彼女はその絵のそばに掲げられた、題材を書いた小さなパネルを見た。「ジハード」とそこには書いてあった。画家の名前はこれまで聞いたこともないような名前だった。

「ジハード?」加奈は心の中でつぶやいた。それは聖なる戦いという意味ではなかったか。中世のイスラム教と関係していたような気がする。そして最近ではテロ事件にも関連してニュースの中で時々この言葉を聞く。その絵を食い入るように見つめながら、加奈はいつまでもその前に立っていた。
どれくらいの時間が過ぎただろう、開館のベルが鳴った。その音の大きさに思わず飛び上がるように体が跳ね上がった。階下で閲覧者が何人か入ってくる気配がした。

 頭を振って、加奈は意識を正した。そのまま階下へ降りていった。事務所の自分のデスクに向かって、砂漠の町アクラムについてインターネットで検索しはじめた。これといった情報は見つからなかったが、地理的な位置や風土について多少の情報は見つかった。

 俊雄から電話があったのは午後になってからだ。旅の予約が取れたとい言う。
「宿も手配できた」と彼は言った。

「なんだかえらく気にいったみたいだな。オアシスの町、アクラムかぁ。行って来いよ」
 そして俊雄は飛行機の時間など細々した事をつけ加えた。

 そうと決まれば後はもう早かった。
 数日の間には国際運転免許証を整え、休暇届を出し、地図を買い、そしてすべての手はずを整えた。旅行に必要な準備を、自分でも驚くほどすばやく、淡々とこなした。今から思えばあれだけのすべてのことを短期間でやってのけたのは不思議なこととしかいいようがなかった。

加奈の心を占めていたのはたった一つ。砂漠へ行くこと。

 そして今、4WDのハンドルを握りながら、どこまでも果てることのないような道を走っている自分がいる。走っている間は、不思議と心を忙しくさせる様な入り乱れた考えが入り込んでこない。たとえ何か心に入ってきても、それは風のように、一瞬にしてはるか後方へ飛び去ってしまう。それは不思議なほど解放された気持ちだった。

 レンジローバーのアクセルをいっぱいに踏み込んでみる。両側に見える砂漠はどこまでも続いている。砂の色がやや赤みがかって見えるのは、燃える炎のような色をした太陽のせいだけではない。砂漠の砂そのものの色が赤みの強い褐色の色をしているのだ。ここからずっと離れているが、エジプトの東にある砂漠も砂が赤茶色をしている。そこに近い海が紅海と名づけられたのは、この砂の色のせいだと言われている。

 沈みゆく太陽が、広大な砂漠に大きな波のうねりのような光と影の模様を映し出す。それは時速120kmの速さで走っていく自分の体とは逆に、まったく静止した美しさだった。このまま永遠に続いていくような完璧に静止した時間。

 その静止画に突然光の粒子が舞い込んだように何か動くものが目の端に止まった。

 目を凝らしてみるとそれは斜め前方を駆け抜ける一頭の黒い馬だった。その背に人の影が見える。土地の人間らしく手馴れた様子で馬をあやつり、一体となるように走っている。黒い馬は力強く精悍でどこまでも美しい。今は深いオレンジ色に照らされた砂漠を背景に、その影は切り絵のように見えた。

 炎に包まれた黒い弾丸のように駆け抜けていくその姿を目で追いながら、一瞬、視界のバランスを失ってハンドルを切り直した。軋む音と砂埃を上げて、蛇行した車をもとどおり戻した後、今一度その黒い影を探したが、どこにも見当たらない。

まさか、蜃気楼……….?

 加奈はあたり一面、ぐるりともう一度見直した。けれど見えるのは、ただどこまでも続く砂丘と空ばかりだった。


(第3話へ続く)

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