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「食べる」目的の変遷

人は、毎日栄養を摂取しなければ生きられない生き物。飽食の時代には、そうそう極限まで「お腹が空いた」という状況はならないものの、「空腹」は生命が無意識から求める欲求の姿。でも、満たされたら、次の段階の欲求に変わっていくわけですよね…。

1、「生きるため」に食べる

生きていくためのエネルギーを摂取する。かつて、木の実の採取や動物の狩猟など、人間が「食料確保」のために不安定な毎日を送っていた時代には、多くのエネルギーを消費し、それを賄うための食料を必要とする。そのサイクルがずっと繰り返されてきました。

しかし、社会が分業化され、農業を通して、計画的に食料が生産されるにつれ、人間は安定的に食べるものを手に入れられるようになっていきました。そして、機械化、大規模化する中で、より多くの人を養える食料を生産できるようになったのです。

もちろん、世界にはいまだ、飢餓に苦しむ人々もたくさん存在していますが、国の治安が安定し、社会システムが機能し、経済が成立する国においては、およそ「食料は確保出来ている」といっても過言ではないでしょう。

お金さえあれば、食を手にすることができる。それが、コンビニエンスストアやデリバリーなど利便性ももたらす社会となれば、なおのこと「食べなければ死ぬ」といった切迫感は希薄化していくことでしょう。

もしかしたら、1日3食というタイミングさえ、今や人の生活スタイルやお腹の具合に応じて、柔軟になっている時代になったとも言えるのです。

2、「社会に関わるため」に食べる

 食に対する選択肢が増え、そして多く人が生きている世界では、「社会」が出来上がります。それは、同じ考えや違う考えも含め、様々な人が「関係」を作り、集団やグループというつながりを形成しながら、仕事や生活、あるいは遊びを営んでいく世界です。

そこでは、「同じ」と示すための「行動」が、集団としての結びつきを強めるため、同じ色やデザインの服を着てみたり、あるいは、同じ食べ物を食べたり、趣味や言葉さえも「似せて」いくことで、お互いのつながりと安心感を得るのです。

そうして「社会」が発展する中で出来上がったのが「トレンド」というやつです。流行とは、その時代や、勢いを感じさせるための「旗印」です。

「これが流行っている」

「行列ができているお店」

「イチオシの商品はこれ」

といった、時勢を感じさせる説明やキャッチコピーとともに、人々が吸い寄せられ、消費していく。それは、「中身」よりも「関わり」を持つことで、安心感と同じ方向への共感性を示すような存在です。

結果として、高度経済成長期には、テレビなどのマスメディアと通じて、有名人が進める商品が、食べ物に限らず、あらゆる消費場面に有効だったのです。それが、一通り浸透すると、よりよい品質を求め、食の世界では「料理の鉄人」に代表される料理人や、雑誌では料理研究家とのタイアップが増え、プロによる「オススメ」という形のプロモーションが、トレンドを牽引したのです。

さて、その後、トレンド界隈はどうなったでしょうか。かつて世の中の流行を発信していた象徴的な雑誌、「◯◯ウォーカー(角川)」は、2020年には休刊となり、ウェブへ以降する形で実質的に消滅しています。

もちろん、日経トレンディも、Dimeも雑誌が主流からウェブ化され、そして、その社会的な影響力と存在感を低下させているのです。

つまり、世の中は「トレンド」で動かなくなっていきたのです。

3、「自分のために」食べる

では、これからの食はどうなっていくのでしょうか。それは、「新しいもの」も経験し、「最高のものも」知り、最後は「どれがちょうどいいのか」を選ぶ時代。それを「パーソナライズ化」というかもしれませんし、「自分サイズ」というかもしれないでしょう。

好みは人それぞれ。食べるタイミングや量も違う。だからこそ、なにか大きな時流に流されて、適さないものを無理して食べるよりも、自分にあった食生活を送りたい。それが、今、食に対する欲求の中心です。

だから、欲しい物を欲しいだけ食べたい、という狭くて強い欲望に応える商品も、一つの人気になりえますし、調味料を別添させて「味変(=あじへん:味が変化するようにすること)」させることが、消費者の「それぞれ」に寄り添う形なるわけです。

あるいは「ひと手間」は「最後の一振り」など、おいしさに「自分らしさ」を追加する動作が、商品との結びつきを強く印象づけます。

こうして、「自分の好み」を知った消費者が、必要なもの、無駄なく手に入れたい。其の最短ルートをどうやって売り場や買い方で設計するかが問われているのです。

だから、「品質やおいしさ」は当たり前。それと同じが、以上に「買い方・食べ方」の不を解消することも、とても大切な商品価値や差別化要素になっているのです。

こうした流れを、なにかペルソナ(=個性や嗜好のタイプ)やグループにくくって、捉えやすくしたがりますが、それは求めているニーズとは真逆。コミュニティのようにまとめるほど、個の小さなズレは、みんなのズレとなり、やがてそのまとまりは機能しなくなることでしょう。

そうすれば、マーケティングは「手段」から「目的」そのものを探す方向にならざるを得ないわけですから、これまでの手法や考え方が通用しなくて当然。いま起こっている消費者の生活における出来事や気づきを、いかに言語化、可視化できるかに、かかっているのです。

そうした、「生活インサイト」はデータだけではなかなか見えない。データとしての片鱗があっても、それを「言語化するセンス」が必要。ますます、マーケティングは「アーティスト的才能」が求められていくような気もしています。

ここまで書きながら、思いました。これ有料級noteですねww

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