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日本語ラップは革命の夢を見るか ~小林勝行『KATSUYUKISAN』をめぐって~ (text by 韻踏み夫)

「満月の夜」、一人が家を忍び出る。深夜の「ファミマ」へ向かって。まるで、中学生が親にバレないように夜遊びに出かけるときのような仕方で。しかしこれから動き出そうとする陰謀が、夜遊びよりも歴史的で政治的で重大なことであるにしても、それがなんだというのだろうか。いや、ここでは、夜遊びにしろ、陰謀にしろ、あるいはその妄想であるにしろ、それらは同等の価値を持つ。結果引き起こされるものの規模が、たまたま違っているだけだ。

土着性。小林勝行がデビュー作から描いてきた、生々しいリアル。「覚える札の数え方/覚える「これってシャブより中毒性ないんすよね?」」(「108BARS」)。それは、郊外的な(ファスト)風土の土着性であるにしても、ともかく土着的なリアル──それは赤井浩太が好む主題で、彼はたびたびそれに執着を示している──を最もうまくつかんだ作家である。二木信が「小ヤンキー的土着性」と呼ぶもの、それは本作でもいささかも変わらない。小林勝行にしか出せない、郊外のリアルを描くディティールの質感。たとえば冒頭を飾る「満月の夜」で待ち合わせ場所となる「ファミマ」の一語にすでにしてそれが表れている。しかしその土着性を世界性へと開く契機を、小林勝行は二つ手にしている。「ファミマ」はいまやいつものたまり場であることをやめて、世界的であるほかない「出来事」に開かれることになる。一つは、ヒップホップである。だがそれに関してはすでに誰もが知っていたことである。しかし、この作品では、もう一つの契機が導入されたのだ。革命。

ヤンキー的、悪党的、俗物的な者たちの群像劇。それを民衆と呼んでみてもいいけれど、ともかくそれは、あまりにリベラルに平坦化されすぎた「市民」などとは決して無縁の、底辺に蠢いていた下層の者たち。この作品の物語は、日々の過酷な労働や理不尽、耐え難いものの数々に耐え続けてきた者たちが突如、堰を切ったように欲望を解放し、蜂起するというものである。そうした者たちが、全国から、震源地として指定されている神戸は三ノ宮に集まろうとする。たとえば、「西」からは、「日章旗」をはためかせた暴走族の集団が。「2ケツタコ踊りパリラパーリラ」。ここでもまた、赤井がお好みであろう主題を確認することができる。日本語ラップ的な革命の主体は、右翼的なエネルギーをも取り込んだものにならねばならないだろう、と。

ナショナリズムが享楽の問題であるように、性的な欲望もまたここでは解放されることになる。「北」から三ノ宮へ向かう者たちは、きわめて性的な快楽にまみれている。執拗に描かれるエロティックな描写はしかし、勝利へ向かう革命軍の兵士の高揚感と入り混じる。彼らは後背位で腰を振る。「絶対いける ひと突き/電撃子宮の奥 突き刺さるおめでとう/片手は手綱 パッチン 尻叩きかかる拍車/ワテら勝利へ乗せる勝ち馬」。

したがって、ここでの革命は、三つのものの複合体として考えられている。政治的な問題があり、それには、プロレタリアートによる蜂起というマルクス主義的な形が与えられている。次に、閉塞した平成の地方、郊外を生きたヤンキー的通俗性のエネルギーの暴発。そしてそれが呼び起こす、土着的な民衆蜂起の系譜学。祭事的な空間の現出。信長の敵を討ちに走る秀吉や、特攻隊、尾崎豊「15の夜」……。そうした系譜学。

全国から人が結集した三ノ宮では、「理想郷」が実現し、「ポリ」は排除される。日本語ラップ的コミューン?スケボーが走り、飛び、暴走族がブンブンと回る。「今日人やたら多ない?何?祭り フェス?何の集まり?」。

一枚のピークであるのは、「午前零時革命」である──これは疑いなく革命的日本語ラップの大傑作に数え入れられなければならない。「なぁ兄弟そのままでえんか?/日頃の我慢誰のせいなん?」。高齢者介護の労働者の苦境がレペゼンされる。「親でもない老人の下の世話好んでやる奴はまぁおらんぞ」。どうしてこのような世界なのか。「世の中変えるためには選挙って眠たいねん/一気に変わらへんの?」。異議はあるまい。

「こっちは更地から泥にまみれ/落ちたら死んでまう足場組んで/クソ力使てどでかいビルやら建てるけど/そこに住めんのは何故?」。そこで彼はあることに気付く。「ひょっとして日本中の俺らみたいな労働者って/皆手袋して汗かいて動きやすい同じような格好しとんなぁ」。労働のために最適化され、着せられる作業着。その機能性。しかし動きやすくなった身体はなぜ労働に従事することを課せられるのか。その身体は別のことに使用されてよいのではないか。そして作業着を着た者たちがいっせいに動き出せば?「なぁ兄弟明日仕事一斉に休んでボイコットせんか?/無責任なんは上の方やんけ/俺ら民衆の団結をびびっとんねん」。もう結論は出た。「もし俺らが一斉に手を組んだら/この狂った世界は一夜にしてぶっ壊せると思わへんか?」。

言うまでもなく、きわめて正当なマルクス主義的な蜂起の夢がここでは語られている。革命は、蜂起が次々に連鎖することなしにはなされえないが、この労働者たちの一歩が連鎖──この作品の語彙にしたがえば「飛び火」──を引き起こす。農民一揆のような暴動、クーデターに呼応して、ニートがゲームのなかで大統領をヘッドショット、アノニマスが電気を止め、解体屋がいつも仕事でそうするように鉄球を使って国会議事堂を破壊する。C4爆弾が役所やオフィスビルを破壊する。革命のただなかに炸裂する強度。「爆破あれは夏の祭り/闇夜にでかく爆ける花火/真っ暗ん中を駆け昇り/子宮でクラッシュ精子と卵子/爆破民衆の祭り」。

こうした革命がラップを通して歌われるときに、二つの技法が用いられている。一つは、フロウの次元における反復性。ここでの小林勝行のフロウは、変化に富むというよりは、同じ一つのフロウ──とはいえ、そのフレーズには情念的な強度が備給されている──をリフレインさせることに注力しているようである。もう一つは、ナラティブの次元における同時性。蜂起は連鎖しなくてはならないのだから、シンクロニシティを三人称による群像劇の語りで描くことが求められる。「その時」「時同じく」「飛び火」(「満月の夜」、「午前零時革命」)のような語彙で、異なる空間で同時に起きた出来事が、継起的に語られる。物語世界内の時間においては同時的だが、ナラティブの時間においては継起的であること。そしてそれが同一のフロウのリフレインによって重ね塗りされてゆくこと。こうした圧縮の技法において、描かれる革命は鮮烈なビジョンとなることができている。

しかしながら、いささかリスナーを突き放し脱力させるかのように、ここまでのことは単に精神錯乱者の妄想であったことが示唆される。彼は一人で座り、横にはいない架空の同志に話しかけていただけだったのだ。彼は再び監禁されることになる。「パトカー内「なぁ海行かへんの」」。

であるとすれば、これは単に、かつて可能だった(土着的、民衆的)蜂起や、(マルクス主義的)革命が現代において決定的に失われてしまったという、すでに誰もが抱きつつある諦念を再確認するだけにとどまるエンディングだということになるのだろうか。言うまでもなく、そうではない。そのような解釈は徹底して斥けられるべきだし、同時に、あの妄想としての革命を単純に肯定することも、まったく不十分な態度だ。重要なのは、革命が物語世界内の現実から、妄想へとその位相を移行させられたとしても、そこに描かれた革命の強度そのものは「現実的」であるままであることだ。この革命は、だから、現実にはたらきかけることを目的とする一般的なポリティカルラップの範疇にとどまることをやめて、妄想の、欲望の強度を問題とし始める。

たとえば次のような問いが残されている。このアルバムでは一貫して、革命とは「This is a man’s world」なもので、「女子子どもはよ逃げろよ」と、男性中心的な革命観が採用されていた(「兵庫県神戸市中央区三ノ宮」)。ならば、ここで革命は「勃たなくなったチンポの代わり」(ECD)として夢見られているということになるのだろうか。そうではない。ここでの革命は「否認」を介したフェティッシュとしての革命であり、そうであるからこそ、その宙吊り状態において強度を生きる。実際、男らしい革命の妄想が描かれたあとで、彼は現実には、「鉄柵ん中 精神病院のベッドの上/天井の監視カメラ」に見下ろされ、安定剤を飲まされてヘラヘラと笑っている(「田舎の山奥」)。そのような不気味な光景で、一枚は閉じられる。なんと鮮やかで、かつ衝撃的な対比であろうか。革命の妄想の側には解放と男根性が振り分けられ、精神病院の現実の側には監禁と不能性が振り分けられる。しかし問題は、この両者に通底し、両者の境界を破壊してしまうような強度である。監禁されながら革命の妄想を生きること。彼は革命後の世界において、ある種の原始的ユートピアのなかで、「各自嫁連れて子供はようけいて」生活することを夢見ているが、現実はひとり精神病院のなかである。不能性の回復として革命=男根が再建されるのではない。不能性と男根性のあいだで宙吊りにされる主体の強度において革命の妄想が生きられるのだ。

こうも言える。ここで描かれた革命はすでにパロディ化されている。とはいえ、パロディ化されているというのは、その革命が浮薄なものであるということではなく、その逆である。つまり、かつてクロソウスキーがニーチェについて言った意味でのシミュラクル、強度の記号への翻訳としてのシミュラクル、そのようなものとしての革命が描かれているという意味で、パロディ化されているのである。仮面としての革命。だから精神病院に監禁された者の苛烈な生と、マルクス主義的な革命の瞬間のどちらにより大きな意味があるかということは問題ではない。この両者が同時に炸裂し、溶け合うような、ひとつの欲望の強度があらわれていること、真にこのアルバムが革命的なものに生成するのは、この契機においてである。

日本語ラップが夢見る革命。かつて私は、宇多丸が見出したジャンクな享楽という主題と、彼の天皇制批判が結び付けられていたということを示した。サブカルでジャンクな主体が自らの靴下の悪臭を享楽するホモソーシャルな局面と、チンカスがたまって腐臭を発しながら人を誘惑する男根としての天皇制。ならばどうやって天皇制を批判しうるのか。

メシアTHEフライ──最も偉大なポリティカル・ラッパー──のファシズム的な名曲「鉞」は、下層の欲望に向けてアジテートしつつ、「ぼんやりとした老後よりも今を確実に満たす欲望を」と歌っていた。アングラで、ファシスト的で、ドラッグと性の快楽にまみれるメシアのフロウ。「悲鳴にも似てる叫び声あげなけりゃ聞こえねえぞわれわれが誰なのかさえも」!

「名付けられた俺はルンペン/大豪邸にかけるションベン」(「ルンペン」)。guca owlはこのような場所から歌い始めた。「ぶっ壊そうかあの高いビルを/どうせならオシャレな壊し方で/中にいる人たちは助からない/でも仕方がない/いるからいけない」。ある種の脱力のなかで、夢うつつにビルを破壊する。「一度見てきなそれでわかるさ/この街がどれだけイカれてるか/俺が狂っちゃいないのは確か/あいつらは俺を知らないはずさ」。

たしかにそうだ。「あいつらは俺を知らないはずさ」。思考することがまだ違法ではない(ジョージ・クリントン)ならば、何を思考すべきかはすでに決まっている。私たちはみな一人ひとり、革命を夢見る。そのことを「あいつら」は知らない。秘密なのだ。日本語ラップを聞いていると、私たちがぶつかるのは、よかれあしかれ、秘密の革命というテーマであり、少なくともそのような匂いを優れた日本語ラップは嗅ぎ当てている。

韻踏み夫

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