「推し」という神様達。

 推し、という言葉を初めて知った時、私は雷に打たれた心地だった。それまで「自分の愛する者(次元は問わない)」を表す時は「俺の嫁」と呼称するのが当たり前という風潮があったが、私はそれがとても嫌だった。他人がそう呼んでいても何の抵抗もなかったし、それほど好きなんだなぁという微笑ましい気持ちが芽生えたりしたが、私如きが「嫁」などと軽々しく呼ぶことがとても嫌だった。あくまでも私が勝手に次元を超えて愛でているだけであって、あちらは私に娶られることなど望んでいる訳がない、という抵抗感。だったらもっと相応しい相手がおるだろう! と憤りすら感じながら、頑なに「嫁」と呼ばずに生きてきた。そんな最中、突如現れた「推し」という呼び名に私はとてつもない好感と救いを得た。私のような矮小な生物だって「推せば」いいんだ、誰かに愛を伝えることは悪ではないのだ、という天啓にも似た衝撃。それから私はとても軽く「推し」という言葉を使うようになった。

 あちらこちらに「推し」が存在する私は節操なしだろうか、と考えるタイミングがあった(かなり前のことだけど最近思い出して結論が出た)ので、こうして文章に起こしている。私の思う「推し」というのは恐らく「どんな側面だろうと愛せる」だと思う。容姿が劇的に好みでも性格の一部だけ愛せないのならそれは私の中の「推し」の定義から外れるらしい、ということに最近気が付いた。同じ作品の中に「好き」に留まるキャラと「推し」に昇格するキャラが存在する理由がきっとこれだろう。そしてそれは三次元にも適用されるのだということを、つい先日思ったのだった。
 「好き」という感情は私の場合、人に対するものと物に対するものが同列である、ということを以前から付き合いがあって、エッセイもどきなどを読んで下さっている方は覚えているかもしれない。その心境は数年経った今でも変わらずだ。人も物も全て同列で「愛おしく」、「好き」な私は、何か一つだけ、誰か一人だけを深く「愛する」ことができない。それを欠点だと見なしていたこともあるし、今でもそれは私にとってのウィークポイントである。が、同時に、複数子供の相手を毎日している現状では、全ての我が子を同じだけしか愛せない、ということに有り難さを感じている。誰か一人だけ贔屓するような自分だったら、きっと何一つ許せやしなかっただろう。

 まぁ、三次元の話は一旦置いておいて、「推し」の話に戻るが、定義は上記の通りで、どんな一面でも「はぁ〜〜〜最高やん〜〜〜」と思えるキャラだけを「推し」と呼んでいるらしい。私は一度その作品に浸かると、それのことしか考えられない質のようで、寝ても覚めても夢の中でも、その作品の中で息をする。どのキャラも愛おしく思い、最初好きではないと思っていたキャラでも「この一面は推せるな……」などと思い始め、最終的に「この子も好きになってしまった……」「ああ……この子も好きに……」「全方向好きだらけなんですがどうすれば良いのですか?」状態である。麻薬か。その私が特別好きになって、且つ、「嫌えるところが見当たらない」と全面降伏してしまうのが「推し」となる。基本私にとって「好きになる」ということが簡単すぎる(多分人はこれをチョロいと言う)ため、粗探しのような品定めをする。「ここは好きだけど、ここがなぁ……」という感じである。とても失礼な行為なので決して真似をしてはいけない。私はよく夫に言われるのだが「他人に対するハードルが高い」らしい。そんなつもりは決してないのだけど、そうなのかもしれない、と自覚はして、他人を許す、ということを近年は気を付けているのだが、二次元にそんなことは関係ない。だってあちらは「私」を認識しないのだから。これは私にとって好都合である反面、二次元の『私』や『僕』は基本的にキャラクター達に好かれているのでギャップが凄くて、何だか申し訳ない気持ちになりやすく、主人公とキャラクター達が交流する系のゲームは途中で辞めてしまうことも多い。あと単純にシナリオがハッピーすぎて辛い。私はハッピーになって良い訳がない、と斜め後ろからのバッシングが辛い。なので、存分に品定めをし、その上で「こいつには勝てない……」という、所謂、「ハンッ、おもしれぇ女」という心情でただそこにいたキャラクターが私の「推し」となる訳だ。キャラにとっては有り難迷惑、という感じだろう。

 つまり、「推し」というのはほぼ「宗教」である。信仰する意義がある、という査定に合格し、私は一生そのキャラを愛することを誓っている。し、何なら本当に、中学生時代に崇め始めたキャラは今でも信仰している。何歳になっても愛おしく神々しく、私の人生の中で数少ない「生きててよかった……(数秒後にそれを後悔するし懺悔したくなるが)」を体感できるのが「推し」という存在である。結論として、私の推しはあちこちにいるが、かなり重々しい感情である、というのが結論となる。
 一作品に一人、多くて五人くらいかしら。いや、多分盲目的に信仰できるのはやっぱり一人なので唯一神と言ってもいいのではないか。多宗教だけど。触れた作品の数だけ存在するだろうし。それは流石に言い過ぎたな。たまには全員「好き」で留まり、面白かったなぁ、で終わるものもある。自分以外のものを「嫌い」と思うことが嫌なので、自然とそうなる。どんなものにも一縷の望み、好意を抱ける、と思えばこれはもしかしたら才能なのでは……!?なんて思ったりしてみたけれど、それはそれでやはり「節操なし」と斜め後ろから野次が飛んできそうなので、この部分の思考は放棄する。

 兎にも角にも、私にとって「推し」は人生の一部となる。どん底にいる時、思うのは推しのことで、辛くなったらスマホの中にいる推しを眺めて、次元の違いに安心して、そうして切り抜けてきた。きっと今後の私もそうしていくだろうし、そういう点で言うと、……さっきの定義で言うと、私の中で「我が子と夫は推しにはなれない」、のかもしれない。うーん。我が子達は辛うじてなるのかもしれない。なってるのかもしれない。苦痛の中でも彼等がいるから生きている、のは事実だし、でも、かといって、彼等を全肯定することは同じ人間であるが故に難しい。たまにはこれっぽっちも好きになれない日もあるし、めちゃめちゃ可愛く思える日もある。人間って難しい。そういうところが好きくない(日本語が下手)。そして、夫はもっとだ。あの人は私にとって、憧れであり、天敵であるので、脳内を占める割合が多い癖に本当に時々、嫌悪しか抱いてないのだけど、それを挽回してくる時もまた多いので、逆にとても腹立たしい。一定の感情でいさせてくれ頼むから。
 人間、である自分が嫌いで、人間のはずの母が好きにも嫌いにもなれない私は、全人類がとても愛らしく、そして憎々しい。だからこそ、好き勝手に感情を振り分けても迷惑のかかることはない二次元こそ、推せるのだろう。

 何を言っているのか分からなくなってきたので、「推し」の話はここでおしまい。

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