2020年を振り返って。

 2020年、どんな年だったかと聞かれても一言では言い表せないくらいの濃度だったように思う。いや、毎年毎年、濃厚なんですけれども。もう少しマイルドにならんかなって年末には毎年思っているのだけれども。
 何はともあれ今年も無事(?)生き抜いてしまったので、一年を振り返っていきたい。

 1月。長男と長女が施設から帰宅して一緒に暮らす話が本格始動したことで、家に宿泊して慣らしていく訓練が回数を増やすことが決まり、月に二回は自宅と施設の往復送迎することになった。バスを乗り継いで片道一時間半。大荷物の小学二年と一年の兄妹を連れてバスに乗るのはなかなかハードで、お泊まりから施設に帰るってなった時の落ち込み方も回数を追うごとに激しくなっていくのは結構精神的にも辛かった。その代わり、初めて家族六人で年末年始を過ごし、初詣にもいけたのだけど、いやぁやっぱりハードだった。
 あと1月始めには口内の唾液腺を摘出してどれくらい機能してるかの検査もあったな。誕生日の翌日。ほとんど痛くないしすぐに終わる検査だって聞いていたのに、実際は麻酔して、下唇の内側を切って、グリグリと唾液腺を探しながらぷちぷち引っ張って抜き取るっていう結構ガチな外科的なアレだったので、かなり驚いてしまったという。しかも、やはり唾液腺自体が量的に減っていて、私から見て左側にはほとんど見つけられず、一旦縫ってから、急遽右側も切って摘出することになった時は流石に白目剥いてた。青いシート的なもの被せられてたんだけど、その中で。見えないから何されてんのか分かんないし、麻酔効いてるから痛みはないのに、でも感触は残ってるから、今切ってるとか、今探してるとか、今引っ張ってるとか、逐一分かるは結構は恐怖だった。何よりも怖かったのは、医師と看護師さん? が喧嘩し出したのが怖かった。私の唾液腺がなかったばかりに……。持ち方とか支え方とか、何度も注意される看護師さんが不憫でならなかったし、ないないって探しながらイライラしてたのに段々焦っていく医師が可哀想でならなかった……。でも何よりも同情したのは自分にだったけども。下唇両サイド切って縫って、片方は抉っている状態だったから、麻酔切れてからの痛みは酷かったし、口内炎みたいになるって言われてたものの、両サイドそうなってしまうと直接唇当たっても痛いしストローも使えないしで、本当に散々な目に遭った思い出。この検査頑張ったお陰で『シェーグレン症候群』の診断は下ったものの、本当に診断されるとも思っていなかったし、更には折角診断されたのに指定難病患者の申請には全くいけなくなるだなんて、この時は全く予想もしていなかったな。
 ああ、唾液の件とか微熱がずっと続くとか、体調も地味に悪くて、接客業がしんどくなって来て、仕事も憂鬱だったな。施設との往復が月に何回もあるのも、子供と1対4で生活するのも割と統制取れなかったりで、自責ループにも入りやすかったし、とにかく一人でひっそり辛かった1月でした。

 2月。上記の生活は継続しつつ、実は創作の原稿もあったりして、自分で参加させてもらったのに締め切りを守ることができなくて、とにかく本当に自分はこの世で一番ダメ人間なのではないかってほんのり絶望して、自暴自棄になりやすかった時期かもしれない。ああ、夫が離職もしてたんだっけな。しかも就活にはなかなか踏み出してなかったんだっけか、いや、この頃から就活始動してたんだっけ、分からない。分からないけど、とにかく毎日が何となく辛いのは継続していて、うっすらとした「死にたい」が形を得ていくのが怖かった。そうか、まだ次女は幼稚園、三女は保育園だった時期か。それも辛かったんだっけ。園行事が複数あるのは本当に辛かった。
 自分で選んでる人生のはずなのに、何一つ思い通りになることがなくて、とにかく本当に毎日消えてしまいたかった。早く息を止めることだけが具体性を帯びていくのが怖かった。そんな2月でした。

 3月。上記のままの精神状態で、仕事と育児と帰宅訓練に振り回されていて、相変わらずずっと「死にたい」が頭から離れない毎日だった。表向きは家族が揃って、夫も無事再就職が決まって、前向きなはずなのに、私は全くそうじゃなかった。
 コロナの影響で次女の方は一足早く春休みに入り、つまり私は仕事を休むことになり、毎日毎日家で次女と二人きりで過ごす日が続いて、その中で二人の帰宅の為に家の中の用意もしなくちゃいけなくて、不用品を仕分けるとか、無法地帯だった部屋を過ごせるように片付けるとか、とにかくしっちゃかめっちゃかって感じで、そのうち「死にたい」を考える余裕もないくらい忙しくなっていったのだけど、でも、ふとした瞬間にはまた圧倒的な「死にたい」「死のう」「もうやめよう」「私には無理だ」が襲って来て、それに一人で耐えるのは、本当に孤独で辛い作業だった。でも、ちゃんと耐え抜いた。それだけは誇ってもいいのかもしれない。
 30日。無事に住民票も家族の元に戻して、長男と長女が再び私の「家族」として生活することが許された日。私が過去、守れなかった二人が、戻って来た日。私達が家族として再スタートした、記念すべき日。

 4月。次女の幼稚園(正確にはこども園なんだけど)に転園できて、同じ場所に通えるようにはなったものの、コロナの影響で通園バスが運行せず、結果毎日送り迎えなんてできない(隣駅から15分くらい歩く。家から最寄り駅まで行くのもバス停まで徒歩、バスで10分くらいなので、それを毎日なんて正気の沙汰ではない。)ので、四児全員自宅保育の日々が幕を開けたのだった……。
 とにかくカオス、とにかく地獄。そんな毎日だった。帰宅できたばっかりの小学生達はまだまだ試し行動があって、幼児よりも幼児みたいで、まぁそうなったのも自分に責任があるのだからって思っても辛いもんは辛かった。
 各自に何一つ指示が通らない。四人に同じことを順番に言わなくてはならない。一人が話しかけて来たら全員が一気に話しかけてくる。檻のない動物園くらいの危険度。気が狂いそうになる一方で、私は「全員やっぱり発達の傾向があるのではないか」という観察も始めていた。書籍、ネットいろんな文章を読んでは実践、トライ&エラーを繰り返して、少しずつ子供達との信頼関係を築けるよう努力していたつもりだ。児童相談所の定期訪問でそういう話も出しながら、その都度一緒に思考してもらって、その度に過剰なほどに「よく見てる」「よく考えてる」などと褒めてもらい、その分自己否定と自己嫌悪に支配されはしたものの、自分以外の人間を深く観察し、考察し、実践できるのはある意味、喜びではあった。初めて「人間」を「育てていく」面白さを理解してきていた。全力で向き合って、深夜まで子供や夫と議論することも少なくなかった。
 ああ、あとはカウンセラーさんが新しくなって、訪問看護の提案を受け入れることにしたのも4月だったっけ。
 そして新たな課題とも言うべき対象を再確認する。『夫』だった。コロナでの休業があり、6人が毎日家に缶詰になってる生活。フラストレーションは溜まる一方で、私含めて誰も碌にガス抜きする方法を知らず、また、自覚もできない人達もフォローをして回る。その為に心身を削り続ける、そんな4月でした。

 5月。小学校への慣らし登校が始まって、その分付き添いという新たな負担もできてしまったものの、短時間でも彼らが家族とは違うコミュニティーで過ごすのはとてもいいことだった。夫も出勤が始まって、少しずつ家族があるべき生活に戻っていく反面、やはり親子感、兄妹感のコミュニケーションに難ありだという認識が私には無視できない課題として立ちはだかっていた。どうしたらもっと円滑に会話が進むのか。対人距離感が近すぎるか遠すぎる人達を5人も毎日相手しなくてはならないのは、苦痛でもあった。
 でもここで逃げ出しても何も変わらないというのは痛いほど分かっていたし、過去に彼等を手離したあの日からずっと、今度こそ逃げないで向き合うって決めたんだ、というのだけを支えに一人で踏ん張り続けている。そんなイメージ。とにかく何でも試そうと思って、実際に試し続けた。効果的な話し方や接し方を模索し続けた。ここで頑張れば、子供達にも私にも夫にも、いつか「財産」として根付くことだけを信じて。現在の苦痛、なんて大したことないって思える未来を信じるしかないって、ひたすら心身を削り続けた。今までの31年で私が学んできたちっぽけなノウハウを彼等に注ぎ続けた。時々やめた。根腐れも怖かったし、何より疲弊して自暴自棄になることも少なくなかったと思うし、心の底にまだまだ蓄積していた、『過去』が何度も何度も私を殺し続けていくのを見ているしかなかった時もあった。それでも、やっぱり、守りたい人達が笑っていてくれるのは、嬉しかった。嬉しいと思える自分にホッとしながら、ちょっとだけ、馬鹿にして、でも、それがまた私を奮い立たせた。そんな5月でした。

 6月。小学校も幼稚園もやっと通常運転に戻り「日常」と呼べる生活になっていくのを感じた。私は定期的にカウンセリングに通って、訪問看護も週一で来てくれて、他者と会話する時間が増えた。それは苦痛を伴う解放だった。誰かと話すことは私にとって非常に高カロリーな作業で、1時間の会話で3日分くらいのHPとMPを使い果たすことに似ていたから。ただ、その繰り返しは私に「閃き」みたいなものを齎すということも感じていた。会話することで整理される何かがあるというのは私にとって大きな収穫だった。でもやっぱり苦痛だったけど。でもそこに慣れる必要があるという実感も得られたので、とにかく頑張ってみることにした、そんな6月でした。

 7月。スケジュール帳を開いてみて、全く整理されていない内容に、見ているだけで目眩を覚えた。自分の予定、子供の予定、全部がごちゃ混ぜで、何が何だか分からない。
 そんな中、子供達を発達クリニックの初診に連れていく日がやって来て、それぞれの検査の日時や小学生二人には服薬での対処が決定された。とても大きな前進に感じた時のあの衝撃は今でも忘れられない。自分の直感や体感が決して思い込みではなかったこと、彼等の苦痛がきっと目に映らないだろうこと、それを少しでも早く、少しでも多く、取り除く手伝いができる喜び、でもそれは私と夫が彼等に与えてしまった「業」なのだという罪悪感。いろんな感情が渦巻いていた。
 7月ということで、幼稚園は半ばに、小学校は末に夏休みとなった。早すぎる。たった一ヶ月でまた缶詰生活だ〜! と内心泣く私だったけれど、服薬が始まっていたことで大きな変化があり、自粛期間の缶詰生活の経験を活かして、かなり良好な夏休みを過ごせたように思う。風向きが変わった、とも言えるかもしれない。そんな7月でした。

 8月。引き続き夏休み。新築一戸建ての購入が具体的に進んで、家族で新しい家や引っ越しに胸躍らされていた上旬。いろんなことが順調に思えた。年明けからの苦痛が何もかもきちんと結果として反映されていくような感覚。いや、もっと前からの苦痛も、いろんなことが成仏されていった気がする。「家族」として成立し始めている、そんな手応え。一方、私の中に『切り捨ててきたはずの過去』や『それに付随している過去の私達』を認識してしまって、子供達を通して、過去の母や自分に向けた憎悪に溺れそうになっていく感覚も増していって、再びひっそりと「死にたい」が支配権を握っていく。そして酷い夏バテで体力がガンガン落ちていく。体力が落ち、体重が落ち、精神力も限界値を突破、眠れず食べられず、でもとにかく体が怠くて仕方がない。とにかくずっと死にたいと願ってしまう。そんな8月でした。

 9月。二学期が本格的に始まって、学校も幼稚園も細々と行事を再開させた。私は管理する予定が増えたことにてんてこまいとなった。子供達が各自発達の検査を受け(三女だけ検査内容が違うので10月に予定されていた。)、私はカウンセリングが週一になった。母との記憶や過去の自分、現在の子供達や夫との関係。家族の命運も予定も心身も何もかもを背負うことによる酷いストレスは確実に私を蝕んでいたことは間違いない。でもそれではダメだと奮闘したがっている自分もいて、そのズレもまた辛さを新たに産み出していった。どうにかしたい、どうにかしよう、でもどこを直せばいい? それを教えてくれる人が誰もいないことに改めて気付いた時、私が望んで家族に注いでいたノウハウや愛情が、酷く汚いものにも思えた。私には誰も何もくれないのに、という感情が再び私に覆い被さってこようとしているのを自覚しては泣いて、もっともっと自分を嫌って憎んだ。そんな9月でした。

 10月。引っ越しの話が全然進まず、ちょっと訝しがったり心配していた10月。幼稚園の運動会を始めとする子供の予定や行事に夫が手を貸してくれるのを嫌がらなくなったのを感じていた。これはとても嬉しいことだった。それまではとにかく自分の休みを自分の為に使いたい人だったし、仕事に関しては鬼なので、自分が穴を開けることを酷く嫌って、すぐにキレる人だったから。カレンダーアプリの共有も功を奏し、休みの予定をきちんと自分で考えて提示してくれるようにもなった。とても有り難いと思った。
 正直、四児の予定を把握するのだけでも精一杯で、そこに自分の通院が複数あって、どうにか予定を組まなくてはならないのに、夫の休みを決めることまで手を回せる余裕はなく、苦痛の一つでもあったので、それをきちんと伝えられて、夫もそれに応えようとしてくれるという新たな希望が私を一歩回復へと向かわせたのだと思う。
 三女も遅れて検査を受け、そして上3人の検査結果は想定通りで、本当に安堵した。発達の偏りのある子、偏りがないのにコミュニケーションに難ありの子、偏りが上位に出てしまっている子、それぞれの個性を数値で確認できる有り難さ。対処法の模索はまだまだ続くけれど、指針は決まったようなものだった。ただ、三女は遅れてる方かもしれないという不安が実感に変わっていったのもこの時だった。
 あと、訪問看護の人と少し揉めた(実際には揉めていない。私が一方的にショックを受けただけだ。)のも10月始めで、折角戻ってきつつあった体調は一気に逆戻り、久しぶりに風邪も拗らせる。そんな10月でした。

 11月。小学校と幼稚園に行く行事や面談などが重なりまくった11月。毎日誰かと話さなくてはならない週もあったりで、とにかく疲労とストレスが積み重なり、遂に頸椎椎間板ヘルニアも悪化の頻度が上がっていくという絶望感。三女の検査結果がやはり発達の遅れがあると出て、それも引き金になってなのか、今までの疲労やストレスが爆発したのか、パニック発作のような症状が現れ始めて、少し周りを騒がせてしまったり……。
 そんな中でも、小学校の担任の先生に長男の特性を理解して頂けたり、長女の特性を理解してくださっていた担任の先生と和やかに会話できたり、次女と三女も担任の先生方ときちんと理解を深める機会を得られたり、対話の訓練を重ねておいた成果を実感することもあった。
 19日には結婚記念日を迎えることもできて、トータルで見れば悪くない11月でした。

 12月。頭に不動産の件がやはり詐欺だったことが発覚して一気に慌ただしくなった我が家。日々の予定や行事、通院に加えてそちらの対応にも追われて、毎日心身が擦り減っていくのを感じながら、でもお陰で小さく燃えていた闘志のような何かが完全に目覚めたような感覚があった。
 滞っていたいろんなことが一気に流れ始めて、濁流に飲み込まれないようにひたすら全力で泳ぐ毎日。そんな中に小さな発見や気付きがあって、少しずつ、今の自分との妥協点を見つけることができていくような感覚。これはとても不思議だった。否定すら肯定する自分に戸惑っていた。でもそれはとても正しいことのように思えた。潔い諦め。私はようやくそのスタート地点に立てたのかもしれない。

 そして、今日が12月31日。大晦日、という訳です。
 この一年を振り返ってみて、やはり相変わらずの怒濤さだな、と感じている。でも、その怒濤さが私の皮を剥いて、角を丸くしていくのかもしれない。刺々しさを失うのは寂しくて怖い。それが今までの私を支えていたのだから。それを受け入れていく。その過程がまさに今年だったように思う。培ってきた理性と知識、それらを制御しきれずに泣いていた私を、抱きしめることはできなくても、少し距離を開けて、座って待ってあげるような、そんな優しさを自分に向けられることに、ほんのりとした嫌悪感と甘ったるい絶望感を味わいながら、来年からの奮闘を心待ちにしている私がここにいるのは間違いない。
 来年はどんな年になるだろうか。少なくとも今年手に入れたスキルで、もうちょっと楽に息ができるようにはなるとは思う。それにプラスして、是非とも今年ほとんどできなかった創作活動やその他の趣味を堪能して欲しい。沢山脳味噌を使ってくれ。酷使してくれ。それだけが私の武器だと痛感したのだから。

 2020年の大晦日の私より。2021年のどこかの私へ。
 とにかく進め。迷子になってもきっと大丈夫。ずっと迷子のままの私は最早、プロ迷子だもの、どうにでもなる、どうにでもできる。進まなくなること、思考しなくなること、それだけは駄目。絶対に。脳味噌を常に全開にしていけ。私、私を信じてみようと、思うから。だから、それに応えなくてもいいから、とにかく、信じてる私がいるってこと、時々思い出して、気持ち悪いって思って、それを原動力にして、走り抜けろ。私のエネルギーはマイナス感情だ、だったら恐ることなんて何もない。私のマイナス感情は途切れたりしない、ずっと燻ってる。汲み上げて、吸い上げて、そして、跳べ。高く高く、どこまでも、行きたい場所に向かって進んでいけ。

 愛せない私を、嫌っていくことで、生きていこうよ。ね、私達。

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