「親友」に収まらないクソデカ感情をたった一人に向けていることに気が付いた話。

 一人だけ、親友と呼んでいる人間がいる。

 彼女とは中学三年生の時に同じクラスになっただけ、一緒の時間を過ごしたのはその一年間のみだ。高校は別の学校に進んで、大学も違ったし、私は音大中退、彼女は院卒。頻繁にやり取りをすることも少ないし、別に親同士が仲がいいとか家が近所だとかいう訳でもない。不思議な縁で、緩やかな交流が続いて、もう十五年経った。そんな関係の人間は私にとって彼女が唯一だけれど、彼女は交流関係が(多分だけど私が見ている限り)広く、友達と呼べる人間はきっと多いので、必要とされる時だけ話せたらいいかな、なんて思っているし、それで十分満足している。
 というのも、これは完全に憶測でしかないけれど、私は彼女の「素」を存分に堪能している、数少ない友人だと自負しているからだ。彼女が普段あまり人には話さないだろうコアな話なんかをアウトプットするには丁度いい距離感にいられるんじゃないかと、ホッとしている。近すぎず、でも昔馴染みだからこそ話せる内容とか、多分あるだろうから。私は逆に昔馴染みだからこそ、そこまで弱音を吐きたいと思わず、楽しい話題だけしていられるし、馬鹿な話が気軽にできるし、冗談を言える相手で、多分win-winの関係なんだと思っている。が、本当の所は分からないし、改めて言葉にして確認するつもりもない。
 私と彼女は平気で半年近く連絡を取らないことも少なくない。私が一月、彼女が十月生まれなので、その時には「おめでとう」「また推しと年齢が離れたね」なんて言いながら、近況報告を何となくして、そのまま途切れた返信を数ヶ月後、唐突に違う話題(主に新たな推しの布教合戦)が始まって、唐突に終わる、というのが数年続いている。直接会うこともない。通話もしない。勿論リモート飲み会なんてものもしない。どうしてずっとこの状態で仲を保っていられるのか、本当に不思議で堪らない。私と繋がっているメリットは一体何処にあるんだ。……まぁ、彼女は本当に優しい人で、そしてある意味で他人への関心の薄い人なので、私くらい踏み込まない人間じゃないと嫌になるのかもしれない。所謂「都合の良い相手」みたいな。でも、それくらいで考えていてくれたら良いな、と私は思っている。私的には唯一無二だけど、彼女の中ではその他の有象無象の中の一人でいたい。重要な人間として認識されていたらと思うと、失うことが怖くて堪らなくなってしまうから。

 堂々と「親友です」と言えないのは、そういう理由があるんだと思う。負担になりたくない。「重たい」と思われて切り捨てられたくない。縋りたくない。
 そんな感情を抱いていることを知られたくない。

 思えば、転校二年目として全く知人のいないクラスで、たまたま出席番号が前後だっただけだ。知り合いもいないけど、一人でいるのは怖くて、でもどうやって誰と仲良くすれば良いのかも分からなかった十四歳だった私は、休み時間の中でも一人で読書している後ろの席の女の子に憧れたのだ。
「本、好きなの?」
 それが始まりだった。

 彼女には沢山のことを教えてもらった。私の知らない世界を彼女は沢山知っていた。お気に入りの本の中には「十二国記」があり、お気に入りの歌手の中には「Cocco」があった。私が一番最初にやりたいと思って母の圧に負けてできなかった剣道部に所属していて、沢山の友人や知人がいた彼女は廊下を歩けば沢山の他人と挨拶を交わしていた。優しいご両親とかわいらしくて暖かな姉がいて、時々学校帰りに寄り道させてくれた彼女の家の居心地の良さは、今でも私の理想で、彼女の一人部屋は私の隠れ家みたいなものだった。あの一年があったから、私は多分、命を経たずに今ものうのうと生きているんだと思う。
 笑い転げた放課後、一緒に受験勉強して、彼女の方が賢いのに唐突に繰り出される天然回答に爆笑して死ぬかと思ったりした。移動教室に遅刻して、段差を踏み外した私のせいで一緒に転ばせたり、創作の世界をリレー形式で紡いだりして、本当に、本当に、私の心の中の養分をくれた人だ。斜め後ろの私達が99%責めてきても、1%だけは肯定してくれるのは、多分彼女の、そして彼女のお母さんのお陰。いつか恩返しがしたい。ずっとそう思っている。

 ……一度だけ、実家が本当に辛くて、彼女の家に助けを求めようと思ったことがあった。事情を話せば、きっと彼女のお母さんはできる範囲で力になってくれるだろうと、彼女もきっと私を守ってくれるだろうと、ギリギリまで悩んで、彼女の家を遠目からずっと長いこと、眺めていたことがあった。追い詰められていたんだと思う。辛くて、辛くて、人様に迷惑をかけてでも、助かりたかったんだと思う。
 でも結局、やめた。
 一つは、母があの幸福な家に報復するかもしれないことが怖かった。私の憧れ、理想、オアシスである無関係の人達を苦しめるのが怖かった。泣きながら諦めて帰ったあの日の夕方を、私は忘れることはできない。あの時、助けを求めていたら救われたのか、私には知る術はないけれど、今も緩く交流できていることを思えば、きっとSOSを出さなかったことは正解だと思っている。
 不思議と彼女や彼女の家に対する嫉妬心などは全く感じたことはない。当時は少しだけ、「どうして私の家はこんな風に優しい家じゃないんだろう」と虚無感を感じたことはあったけど、それも仕方のないことだとすぐに諦めがついた。寧ろ彼女とその家族が幸福であることが私にとってのこの世界の希望なんだと思っている。
 そう、彼女は多分、「生き神」ならぬ、「生き推し」なんだ。
 私にとって、「推し」=「神」「宗教」だ。彼女はその域にいる。だから向こうから連絡がなくても凹んだりしないし、私と会話(LINEだけど)してくれるだけで嬉しい。期待を持っていないのは、神聖すぎるから。神の目に人間一人が映る訳がないと達観しているから。穢したくないのだろう、私は、彼女を。
 ああ、重たいよな、こんな感情。一個人に向けるものじゃないよな。でも、生きる指針を初めてくれた人なんだもん、仕様がないじゃないか。(因みに生きる指針をくれた二人目は夫、そして子供達だ。それらよりも神聖視し、重要なポストにいるのは仕方ないことじゃないか?)愛しい、という言葉なんかでは足りない。生きる幸福。彼女が生きている限り、私はきっとずるずる生きてしまう。

 ……彼女がもし、死んでしまったら?

 想像もできない、したくない。きっとポッカリと空いた穴を塞ぐことができず、屍になるんだろう。守るべき存在がいるから、ずるずるとそこからも生きるだろうけど、それだけになるんだろう。言語化するべきじゃなかったな。後悔している。

 この戯言を彼女に届けるつもりはさらさらない。寧ろ、絶対に知られたくない。でも、それだけあなたのことを慈しんでいる人間未満の存在がいることは、ひっそりと伝えていきたいと思っている。今度、彼女の実家に何か贈り物をしよう。彼女の誕生日には今年こそ何かを送ろう。私の原初のかみさま。今日も推しを眺めて生きていて。それが私の願いです。

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