近況のあれこれ。

 今回はエッセイもどきですらなく、日記未満の書き殴りです。
 どうもお久しぶりです。閉吐です。

 一番最後に長い文章を書いたのがいつだったけ、という状態になって、早くも半年以上経とうとしている気がします。一応自分の企画の為に、年末年始辺りに一生懸命生み出したものがひとつあるので、それ以前、そして、それ以来何も手に付いていません。
 「創作なんてやってる場合じゃねぇ!」という現実世界と、「創作なんてやったって何もなりゃしねぇ」というネット関連のあれこれに苛まされた結果、情けない話ですが、文章を書かない方が健全に過ごせてしまう、もしくは文章を書こうが書かまいが精神の摩耗が楽にはならないと思い至ってしまった、ということだったかもしれません。兎にも角にも、今まで狂ったように重ねていたツイートすらできなくなっていたのでした。
 ただ、そういうマイナスな面だけが理由ではなくて、実は、三月からコンサータという薬を服用し始めたことも、その一つなのです。
 コンサータ、というのは発達障害をカバーするための薬。私は障害とまではいかないが『限りなく黒に近いグレー』との診断を受けていて、先生には本当に困る状況が出てきたら服薬してもいいかも、と言われていました。この度、現実での消耗が激しく本来頑張ってこなしてきた日常に支障が出るようになり、お試しでコンサータを飲んでみましょうと勧められたのでした。
 結果として言えば、コンサータは成功だったと思います。ただ、元々懸念していた通り、創作活動を始めとするありとあらゆる趣味と呼ばれるものに対する興味が薄れました。最初の一ヶ月間は特に強く、やらなければならないことを終えると力尽きるような毎日でした。いろんな家事が捗り仕事がほぼ苦痛なくこなせる代わりに、ただでさえつまらない自分という人間が、更にロボットのようになったみたいで、それはそれでとても理想的な自分ではあったものの、やはり何処か精神的にきつい日々でもありました。
 その反面、慣れてきた今では、これを上手く活用できれば今までよりも計画的に創作活動ができるような気もしています。とりあえずの希望的観測ですが。
 コンサータについての話はまた次回書きたいと思ってます。興味のある方は是非。

 創作していない間、確かに生きてはいたけれど、何かを失ったような心地でした。ただ枯渇しすぎて、絞り出すことすらできなくて、何処に進めばいいんだろうと呆然としてみることすらできない気持ちで。いつもみたいな焦る気持ちさえ湧き上がって来ないんですよ。もしかして自分はこのまま、創作から離れてしまうのかもしれないとすら思いました。しがみつくこともできなくなったら、それはもう不要なのではないか? その考えが頭から離れなくなって。多分、私は一度諦めたんだと思います。もういいやって思ったんだと思います。その程度なのよって。所詮私はそういう人間でしょって。
 そんな諦めの、ただただ息をしていた中で、ある日、突然思いました。
 私、書ける。今なら、書ける。
 なんの根拠があるの? と自問自答しても辿り着けなかったけど、思ってしまったんです。もういいやって思ったはずなのに。いや、あれはそう思い込んだだけだったのかしら。それすらもう分からないけれど。
 これで何度目? って嘲笑う自分もいます。何度無理って言って辞めて、何度立ち上がるの? って。それでも結局「創作」に戻ろうとしてしまう。戻ってこようとしてしまう。最早これは私にとっての「業」なのかもしれません。いえ、そういうことにしておいてください。きっとこれは業なのです。もうそれでいい。それでいいじゃないか。
 夜空を見上げて、青空から目を逸らして、夕焼けに浸って、風の音を聞いて、電車の窓から線路を見下ろして、住宅街の静かな夜を切り裂いて、走り回るこどもたちから耳を塞いで、愛されることも愛することも忘れて、
 私が、私を放棄して、
 そしてやっと息の吐き方が、分かる。吸いすぎた酸素が行き場をなくして、飲み込みすぎた言葉が喉元でこんがらがっていたことが、分かる。私は私で在ることをやめないと、私でいられない、なんて。
 私の中の『私』って、もしかしたらとんでもなく高いハードルなのかもしれない、と書いていてふと思いました。理想が高いのとは多分違うんです。なんて言えばいいのかな。元々住んでいる所が人よりも低いんだから人よりも頑張らなきゃいかん、というようなハードル。必死で追い付こうとして、追い付けない自分を殺してやりたくなってしまう。そんな感じ。だから私は、それを時々投げ捨てる。やーめた。低いところに住んでるから、なに? 寧ろ元々低いならもうそれでいいじゃんこれ以上落ちようがないんだから。そうやって五体投地して駄々をこねる自分を俯瞰して、呆れて、ああ、また頑張らなきゃって思う。そう思えた先に広がるうつくしいもの、それが私の「創作」なのだと思う。
 のたうち回る醜い自分から離脱して、少しだけ現実を忘れた時、見えてくるもの、感じられるもの、触れられるもの、聞こえてくるもの。それは間違いなく希望の光。そこではどんな「終わり方」も幸福に満ちている。というか寧ろ逆か。終わることができるからこそ、幸福なのである、なんちって。私は未だに自分の人生を終えることができない。できそうにない。情けない。だからまだまだ幸福になれない。これからも続いていくという絶望の中で、少しの希望を夢見ることくらいは、許されるでしょうか。

 ここまで書いて、またもや少し忙しくなりました。放置する癖をどうにかしないと。
 最近、少しずつではあるけれど、前を向けているんだなぁという自覚も出てきました。きっといいことなのだと思います。いや、そうであってくれ頼むから。
 私にとって、前を向くことはいいことだと思えないのもまた事実です。だって、前を向いた先にはまだ何もないのだもの。それってとっても怖いこと。あれ。でも前を向いて何もない、作っていくしかない、進むしかない、ってそれって創作ととっても似ているね。そうか、人生ってある意味創作活動と同じなんだね。そう言い聞かせてみれば、なるほど、生きることも悪くはないことなのかもしれない。とかなんとか、今年は思い込んでいこうと思います。
 Twitterでも呟いたけど、去年までの私は誰かのために創作し過ぎました。今まではそれで良かったのもまた事実。でも今年からはそれじゃだめな気がするから、変わらなきゃ。自分が楽しむために。それが一番のはずだから。んー。できるかな。自分のために、が世界一嫌いなのだけど。

 人と関わることが怖くなって、いっそのこともう誰とも関わらずにいられたら、それでよかったかもしれないけれど、私はそれができないのだと分かってしまったから潔く諦めて、上手に誰かと関われる術を身に付けられるように大人になりましょう。私のために、はとりあえず無理だから、関わってくれる誰かのために。誰かを傷付けないために、きちんとした距離にいましょう。誰かを壊してしまわないように、求められたら手を差し出せる余裕を持ちましょう。そのためなら、自分を大切にすることも、無理ではないかもしれないじゃない。

 私は「私」を早く早く辞めたいけれど、私は『私』にしかなれないのです。人生とはそういうものなのです。たぶん。めいびー。
 さて、戯れ言はこのくらいで終わってしまいましょう。自分を見失いすぎて、人の形が保てなくなる前に。

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