私と夫くん。

 私は夫である彼のことを、世界で一番見くびっている人間だと思う。

 使ってみていざ驚く。見くびる、とは、どんな言葉。

大したことはないとあまく見る。あなどる。見くだす。「相手チームを-・って惨敗する」
類語は、軽んじる/卑しめる/蔑する/、など。

 簡単に纏めてみたけれど、ふむ、確かに。私は彼を見くびっているようだ。だって彼は全然現実的じゃないし、予定は未定だし、後先考えないし、外で寝落ちるし、金銭感覚は緩いし、楽観的が過ぎるし、自信家の癖に自己肯定はしないし、基本誰にでも優しいのに私にはあんまり優しくないし、私の声は眠くなるといってほとんど話を聞いてくれないし、友達いないとか自虐ネタばっかりぶつけてくるし、私のドジを誇張して人から笑いを取ってるし、つまりは基本自分のことしか考えていない。最っ高に腹立たしいといつも思う。だから彼と話していると突然無性に意地悪になったりする。私の中の「悪いヤツ」が彼をとことん虐め抜こうとする。陰湿な言葉をぶつけて、止まらない嫌味を吐き出して、そして最後はいつだって怒らせるか落ち込ませている。そんな彼の姿に狼狽するのも毎度のことだ。
 自己分析、他者分析は私の癖で、それは夫に対してもいつもやってしまうのだけど、「悪いヤツ」が顔を出してる間は分析できない。本当に申し訳ないと後から思っているのだけど、その時止めることが出来ないのなら意味がないのも分かっている。いざという時に無能ですごめんなさい。
 で、シラフに戻った私が狼狽しながら、「悪いヤツ」の言い訳を感じ取れる状況になるといつも同じフレーズでヤツは叫んでいることが最近分かってしまった。
『絶対彼が悪いのに、それを指摘されてるだけなのに、キレたり落ち込んだりするのはおかしくない!?』
 そして冒頭に戻る。私は多分、夫を見くびっているのだ。
 彼は自分のことしかしないから。彼はいつも私を困らせているから。彼は既婚で父親という意識がなさすぎて自由に振る舞ってしまうから。
 だから、言われても仕方ない

 この考え方に気付いた時、心底ゾッとした。これじゃ私が嫌だと思っていた人達の言動や、よく聞くイジメの加害者の言動と同じじゃない!? と思った。衝撃だった。何より、自分を正当化して、価値観を押し付けてる自分に、反吐が出た。これは、あの人と、母親と同じだ。

 私は、私の為に夫をコントロールしたがっていた。自分の快適ライフの為に。だって小言言い続ける生活って嫌じゃない? 自分より年上の男の人にガッカリし続けるの辛くない? 情けない父親にはなって欲しくないと思うのは普通のことじゃない? 愛のフリした鞭で叩きまくって、結果暴君だった母みたいに、あれはダメ、これはダメ、約束を破れば耳が痛くなるような正論で故意に傷付ける。散々自分が砕かれたやり方で、私は夫を攻撃していた。
 ……事細かに説明していけば、恐らく、十人中七人くらいは「それは夫さんが良くないわ」と言ってくれる人もいるかもしれないのだけど(冷静に考えたとしても、いい歳の大人が注意されるべきことじゃなかったりはする)、でもそれとこれとは別問題だと私は思う。改善しなければと思っている。
 そうして考えた。私は夫をどうしたいのだろう。

 ……私の願いは突き詰めればただ一つ。

『もし私が突然いなくなったとしても、子供を抱えて生きていける人になっていてほしい』

 正直な話。不慮の事故とかで唐突に私が死んでしまうみたいな状況になったとして、今のままの夫に子供を丸投げするのは、恐怖である。
 彼じゃなくとも父親というのは大体そうだと感じているのだけど、仕事優先で家庭にいない。きっちり時間の決まっている仕事ならば平日の帰宅後子供と顔を合わせて会話をしたり食事をする時間もあるかもしれないが、そうもいかない家庭も少なくない印象だ。実質週一の休みの日にほんの少し遊ぶ程度の触れ合いしかできない状況の中、それでも頑張って父親として生きている人は多いだろう。
 けれど、もしも、母親という立場の人がいなくなって、頼れる親族もいなかった時、行き場を失くすのは子供。
 似たような話(だと私は認識している)に、それまで亭主関白だった人が、熟年離婚され、靴下の場所も分からない、食事も作れない、洗濯物もできない、みたいな話も聞いたりするけれど、困ってから焦ってもどうしようもない。
 熟年離婚なら困るのは自分だけだけど、働き盛りに子供を抱えるシングルファザーになってから焦ったって、もう遅いのだ。
 まぁ普通に考えれば、子供を抱えて生きるとしたら私だろうし(この国ではシングルといえばマザーだろう)、死ぬ順番も彼の方が早いだろうし、私も子供の為に生きねばという思いが芽生えて定着した今無茶苦茶な生活や自暴自棄な振る舞いはしないだろうし、そこまで不安に思ったり心配することはないかもしれないけれど、でも念には念を、というやつだ。私は子供を大切に思っている。その片親に彼を選んだからには、彼を野放しにしてはいけない責任みたいなものがあると思う。子供と私の平穏の為に。

 つまりは彼が私の思い通りにならなくとも、子供を任せられるくらいになってくれたら、それでよいのだ。
 そう思うようにしたら、随分と接するのが楽になった。その旨もいろいろと伝えて、話し合いもして、どうして私が小言ばかりなのか、何にそんなに怒っているのか、どうなって欲しいのか、どうして欲しいのか、私なりに精一杯言葉を吐きだした。
 (仮にも文章を書く人間としては恥ずかしい限りなのだけど、私はどうも喋るのが本当に下手糞で、あちこち話が飛躍するし、主語述語の使い方がなってないので伝わりにくいらしい。話す方も聞く方も混乱するので多分私は人と会話しない方がよい。のだけど、お喋り且つ早口且つ話してる時にはブレーキが効かないので喋り終えてからいつも後悔している。)(あれ、待てよ、文章も似たようなもんじゃないか? 支離滅裂、しっちゃかめっちゃか、特にエッセイもどきだと酷過ぎない?)
 私の言葉に時々混乱しながらも、夫は自分なりの結論を導き出した。それは「甘え過ぎてた」という言葉。

『甘え方を知らない大人たち』

 私も夫も、第一子。私は下に弟と妹、夫は弟が二人。一番下とは十歳差。私は過干渉過保護ネグレクトの三重苦な家庭に育ち、夫は良く言えば放任主義の家庭で育った。
 学生時代に脚光を浴びた期間と典型的なハミ子の期間を経験し、それぞれの事情からどちらも、幼馴染みや長年の友人などが周囲にいない。
 私にはネットの友人がいるけれど、会えない。
 夫には職場で出会った気の合う人がいるけれど、友人と呼んでいいのかは分からない。
 そんな良くも悪くも似たもの同士が毎日顔を付き合わせて、結婚前の格好悪いところまで知っていて、それでも尚、知り合ってから早十年が経とうとしているのだから驚くと共に、十年近くも深い関係でいられた人がこれまでの人生に存在しなかった私と夫は、否が応でも、「互いしかいない」という意識が育った。育ってしまった。
 これはある意味、地獄だ。ここまでドロドロと汚い面を見せ合ってもずっと共にいてしまったが故に、多分この人を手放したらもう二度とここまでの安心感は得られないんだろう、という妙な確信を得てしまった。
 そう。私も彼も、安心している。自分の存在を肯定も否定もしない人、環境に。甘んじて過ごしてきてしまった。

 そんな風に生きてきた私達だから、今までは他人に弱い部分を見せたり、縋ったり、できなかった。当たり前のように、甘える、という概念もなかった。
 それが悪い形で露呈して、胸の張れない情けない親が出来上がってしまったんだと、思う。
 歪んでいる、と言えるのかもしれない。心地よすぎるから緊張感を失って、ずぶずぶと沼に溺れるような生き方をしてきてしまったのかもしれない。
 そこに気付いてから私は一人、脱却することに奮闘してきた。これは単に私が、「生き抜く為なら防御するより攻撃せよ」という信念の中生きてきたからこその暴挙であり、基本的に生物は怖いものから逃避したがるものだと思っているし、それが当然だと思う。彼も例外なくそうだった。彼はとことん逃げた。向き合うことからも、立ち向かうことからも、考えることからも、逃げた。その結果、私が持ち出した、「このままじゃ離婚も考えなきゃいけないんだよ」という言葉に、ある日突然立ち止まらざるを得なくなったのだと言う。
 私は常々、彼は一人で生きたい人なのだろうと感じているし、私も他人にペースを乱されるとパニック状態に陥るから、きっと私達は離婚した方が互いのテリトリーだったり時間だったりが持てて、今より良い関係になれるのかもしれない、なんて考えていたのだけど、彼はそうではなかったようで、そこでも心底驚いた。そんな選択肢すらなかったと言うのだからびっくりだ。だって自分だったら、こんなに口煩くて正論振りかざして時々暴れるようなパートナーは願い下げだからだ。すぐにでも離婚したい、離れたい、自分の選択は間違いだった、人生の汚点だ、くらい思うと思う。彼は私の何が好きなんだろう、何で一緒にいるんだろう、と毎日思う。そして時々訊ねては困らせている。

 私は今、離婚も視野に入れて生活している。
 ただ今すぐ離婚したい、とかではない。今私達は、二人の子供と離れて暮らしている。彼等を引き取る為に借金の返済もしている。それがあと一年で終わるのだけど、それと同時に彼等を引き取る為の動きを始めることができる。あと一年半か、二年か。わくわくの反面、とても不安。私に本当にできるのだろうか、と縮こまりながら、やるしかねぇだろおめぇの子じゃ! と喝を入れて、今から気合いを溜め込んでいる。のだけど、彼を見ていると、そういうのって全く感じない。表に出ないだけなのか、出さないのか、はたまた考えてさえいないのか、それすら分からない。
 無事に引き取れた後、家族六人での生活が始まって、最初はきっと苦労するだろう。二ヶ月くらいはてんてこ舞いに違いない。でもきっと少しずつ慣れていって、生活リズムとかも整ってきて、賑やかな毎日が日常に変わっていく。その頃にきっと、問題が浮上すると予想している。今の夫が何も変わらなかった場合は、だけど。
 その時、私は決断しなければならないと思う。甘え方の知らないふたりの大人が、片や甘え続けたい、片や甘えさせたくない、じゃあやっていけない。私の人生の主役は私だけど、今の私は子供達の為に存在しているようなものだから、彼等の害になるのなら、それが例え夫だろうと切り捨てたい。これはほんのり仄めかしてはいるけれど、はっきりと言い切ってはいない。そんなことをしたら一週間近くどんよりとされてしまう(これが非常に面倒臭い。落ち込むくらいなら改善する為の思考を持って欲しいけれど、人間ってそんな簡単には変わらないものです。八年かけてようやく人の形をしてきた人を見ながら思うこと)。
 甘えさせる、というのは、その人の全てを許すことではないと思う。対等な関係で在りたいから、間違ってることは指摘したいし、理解できないことはそう伝えたい。
 ただ、気を付けなければ、伝える側が甘えてしまえば、それは一瞬で暴力になる。愛やら正義やらの大義名分で偽装した、ただの虐待行為。それは大人も子供も関係なくて、夫婦も親子も友人も、みんな同じだと痛感している。
 甘える、甘えさせる、ということが時々は必要だと思う。時々は。甘い蜜だって欲しいのは当たり前。でも蜜を浴びるほど飲んでるだけじゃ、カロリーオーバーでぶくぶく太っていく。動けなくなる。相手の蜜を根こそぎ奪っていたら蜂に襲撃されるでしょう。
 それじゃ、だめだから。だめだと、私は、思うから。
 適度にカロリー摂取しつつ、ストイックに魂も脂肪も燃焼していたい。……でも最近脂肪が減りません。へるぷみー。

『見くびってるけど、でも、尊敬してる』

 私は夫を見くびっている。
 けれど彼は、びっくりするくらい的確に、私に必要な辛口コメントをくれる。共感性はゼロ。寧ろマイナス。彼の言葉で更に追い討ち食らうことも多々ある。けど、多分私に必要な言葉だとは思う。
 そしてびっくりするくらい、蜜を塗りたくってこようとする。まじこわい。何かしら褒めてくれるのだけど、疑い深い私にとってそれは寧ろ脅しである。
 誰にも深入りしない代わりに平等に優しい彼の姿勢や後先考えずに走れるところ、人目を気にせず自由でいられるところ、「俺は俺」と言えるところ、頭のおかしな私に対して「それがお前だろ」と受け止められる懐の広いところなどなど、尊敬してしまう箇所は後を絶たない。
 最近気付いたのは、彼は私にとって「なりたい自分」なのかもしれない、ということ。
 私が彼に怒る時、それは大体「私はそんなことできないのに」と思う時だったりする。私はそんなちゃらんぽらんなことできないのに、というのは裏を返せば、私だってちゃらんぽらんに生きていたい! ということじゃないのだろうか。そういうカラクリに気付いたら、彼を尊敬している部分にも納得してしまった。私ができないことをやってのけるからだ。羨ましい。そうなりたい。
 だから私の目標は彼である。彼みたいに阿呆でちゃらんぽらんで能天気に生きることである。
 といっても人間そう変わらないというのは勿論私にも当て嵌るので、私はどうしても堅物で馬鹿真面目で馬鹿正直で損ばかりしている。自分でいうと何だか悔しい上に、自分をイイヒト化しているように思えて納得いかない。が、事実なので記しておこう。
 ただ、その辺を自覚してから、意識してちゃらんぽらんになる時間を作っている。ずっと肩肘張っていると、呼吸も浅くなってしまって、顔も引き攣っている。馬鹿真面目を辞めて、ただのバカになる時間って大切だな、と思う。お陰で日常が少し楽になっているのも事実だ。

「お前、最近少しだらけてない?」
 なんて夫が言うので私はこう返している。
「私はね、今なりたいものになってるの。なりたい人の真似をして、ちゃらんぽらんに生きてるの」
 誰それ、と訊かれるので濁しておく。私が出会った中で最高に阿呆な人、とか言っておく。それでも私を見限らない人、とかも言っておく。
「まさか、俺のこと?」
 と訊かれたらこっちのもん。肯定も否定もしない。にっこり笑ってちゃらんぽらんを続ける。そうすると痺れを切らせて畳み掛けてこようとする彼に、こう言い放つ。
「私、あなたみたいになりたいんだもん」
 とっておきの切り札で、時々攻撃してやるのだ。

「だって、結局のところ、尊敬しちゃってるからね」

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