「強さ」ってなんだろう。

 昔は「ひとりで生き抜けること」が強いと思っていた。今もそれは間違った認識ではないと思っている。が、ほんの少しだけ、強さの意味合いが変わって来ている。

 私は今、母親業をこなす毎日だ。その中で短時間だがパートに行き、雑だが何とか家事をこなし、ワーッとなってる間に一日は終わる。パートの時間だって子供の送り迎えだって、事務的な業務用の言葉しか吐かないのだから、実質「会話」する大人は朝と帰宅後の夫だけ。けれどそれだって何処か事務めいているし、何より時間が短い。朝は忙しいし、夜は日付を超えているからお互いに眠い。人との会話はそういう、どうしても必要だから仕方のないコミュニケーションばかりの日常。喋りたくなくても、接客業だし母親だし、円滑な関係を保つ上では仕方のないこと。その義務感がとても嫌いだ。
 好きに発言できるのはネットの中だけ、と言いたいけれど、ここ最近はネットですら気軽には発言できていない。人間関係というはとにかく面倒臭く、そして辛い。

 人間関係。私が思う「強さ」はやはりそこにあると思う。

 ひとりで生きていくことは、不可能に等しい。無人島にでも暮らすのならまだしも、都会だろうが田舎だろうが、完全自給自足、人と会話することもなく、誰かとの何かしらの関係を本気でまったく気にせずにいられる人が、いるのなら見てみたい。そこに至った境地を知りたい。
 とてもじゃないが、私には無理だ。
 私は人間が嫌いだ。けれど愛している。そのどうしようもない不完全さも、有り得ないほどの思いやりも、憎しみながら抱き締めたい。そんな私は一人孤独に生き抜くなんて、できやしない。したくもない。だからこそ、少しだけ、私の中の「強さ」の定義が変わってきたのかもしれない。

 「強さ」。それはきっと「弱い自分も見せられること」だと思う。
 弱みを曝す、というのは恐ろしい。それはきっと死活問題だから。弱い部分を誰かに積極的に知らせたい人はいない。それは弱点=触れられたくないもの、だからだ。曝したら触れられる機会が出来てしまう。それがどんなに愛している相手だろうが、そんな機会に怯えながら暮らすのは辛い。
 だからなのだろうか、弱みを知ると人はどうやら嬉しくなるものらしい。弱みを握ることができた優越感もあるだろうし、そんな曝したくなかったものを教えてくれた特別感もあるだろう。とにかく喜ぶ。曝す本人にプラスにしろマイナスにしろ、喜ぶ。何故言いきれるかって? 私は散々弱みを曝して、喜ばれてきたからだ。
 ならば私は強い? 答えはNOだ。
 私は、狡い。ただただ弱みを見せているだけじゃない。そんな無謀なことはしない。最初は馬鹿みたいに信じて馬鹿みたいに裏切られて、馬鹿みたいに泣いていたけれど、今は違う。向き合って考えてみたら私は、自分の弱みを餌にして相手の弱みを狙っているのかもしれない。
 ほら、ここにこんな弱みがあるの。無防備に置いてあるよ。あなたはどう扱う? 私の弱みをどう利用する?
 私は狡い。自分の弱みを敢えて曝すことで、相手が裏切った時の保険にしている。
 ほらね、まただ。人の弱みに付け込んで好き勝手発言して。だから私は本当のことなんて話したくなかったし、本当の弱みは見せてないんだ、バーカ。みたいな。
 そう。お気付きかもしれないけれど、私は多分、本当の本当の本当に触れられたくないことは、曝していない。触れられたくはないけれど、触れられてもまぁ仕方がないや、って諦められる程度の弱みだけを餌にしている、狡いやつだ。
 でもこうでもしないと、弱い私は立ち向かえない。私の弱みを狙ってくる人達に。もう傷付くのは嫌だし、傷付けるのも嫌だ。なら、利用したから利用された、くらいに受け止める方がよっぽど健全なのだ、と思い込まなければやってられないくらいに、不健全な心持ちなのだ。

 そういう意味で私は、自分が本当に思う「強さ」を手に入れることが、未だにできずにいる。
 弱い自分を見せる強さ。果たしてそんなものが本当に必要なのだろうか。そんなことしなくても人間関係は築けるでしょ。
 そうかも、しれない。けれどやり方が分からない。

 それはきっと自己肯定感のせい。マイナス域の肯定感では、無防備に急所を曝すことなんかできやしない。撫でてー! とお腹を向けるわんちゃんが好意的に受け入れられるのに対して、警戒心溢れるねこちゃんは走り去ってしまうから残念がられたり無駄に怒られたりする。私は警戒心の強い野良猫と同じ。でも私自身はそういうねこちゃんだって好きだ。道で出会ってしまって走り去られると、怖がらせてごめんね、と思うし謝ってしまう。つまりは、もしかしたら私のような弱みを曝せない人間にも好意的な人はいるのかもしれないけれど、大半は舌打ちをして睨み付けるものなのだ。なんなんだよ、と、ちゃんとやれよ、と。
 ねこちゃんには鋭い爪といざという時の鋭い歯があるように。私は弱みで自分を武装している。けれどそれは何の役にも立ちやしない。私の弱みを狙ってくるような人達というのは今まで大体、強いと見せかけた弱者だったから。いつだって反撃の準備はできているのに、逃げ回るのも立ち回りも遥かにうますぎて、私は結局戦うことすらできずに、その自分の弱みで自傷行為をする。自分を呪い殺している。獲物を仕留める勇気も、ないからだ。

 弱肉強食、という言葉を散々母から聞かされた。
「あんたは弱いからすぐに食われるだろうね」
 それは脅しの言葉。強くなれという激励でありながら、その実、私を萎縮させ弱いままでいさせるだけの呪い。
 母は弱い人だったと思う。力も意志も怒りのパワーもあの当時の私の世界では一番強い人だったけれど、母から離れてから気付いた。あれは強い人じゃない、怖い人だ、そしてどうしようもなく弱い人。
 私の強さの定義に母は合うようでいて合わない。弱い所を見せられない、見られたくないが為に横暴に振る舞い、破綻し、弱さを自ら曝していた人、というのが、今の私の母への感想だ。それでも世界一恐ろしい人というのには間違いないし、世界一愛されたい人というのも、間違いないのだと思う。全く、本当に、どうしようもない。

 私は強くなりたい。強く、在りたい。
 ただ強いだけじゃなくて、その強さで相手を包み込んで守れるような、弱さを抱き締められるような、そして何より、弱くて狡くて大嫌いな自分を認められる、強さが欲しい。
 多分、それが本心だろう。ここまでぐだぐだと述べてきたけれど、きっとこれが本音だろう。
 私は、自分を好きになりたい。そういう強さが欲しい。毎日自分を「死ね」と呪うのはもう、疲れた。疲れたけれど、私は私を認められないから呪うしかない。疲れた。疲れている。それでも日常は回っていくし、母親だし、社会人だし、何より生きている。そろそろ認めてあげなくちゃと思うのだけど、でも、まだ難しい。
 だから私は、自分に「生きていていいよ」と言ってあげられることが一番の「強さ」なのだと思う。

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