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感覚派、論理派に対する違和感

感覚派と論理派、あなたはどちらかという話がある。
私はこの話題があまり好きではなくて。というのも、この表現を借りるなら「論理的な説明のできる「感覚派」」が不憫に感じられることが多い。


感覚派の人がその表現手段の一つとして「言葉」を選んだとする。もしくは発信手段として「言葉」を磨いていくとする。次第に彼は自分の感性をより正確に誰かへ発信するために、「言葉」を巧みに操れるようになっていく。「言葉」というフィルターに通すことで順序立てて彼は感性を発信していく。すると周りがこんなことが言い始める。
「彼は論理的に物事を考えることに長けている、論理派だね」
周りは彼の論理的思考能力の高さに気を取られていて、この時もう話の内容は関係なくなっている。

感覚を論理的思考に乗っ取って自己発信をした結果、論理派と言われる矛盾。
ここにはマイノリティである感覚派に対し、マジョリティである論理派の「私たちの理解の及ばない思考回路を感覚派と呼ぼう」という暗黙の了解がある。
自分の感性を論理立てて伝わるように言った途端、
「あなたの言っていること理解できるよ、私たちの仲間だね」と言われ、半ば強引に「論理派」というカテゴリに入れられる。
言葉に変換可能な上澄みの部分を何とか伝えただけなのに。

「あなたは感覚派ですか?論理派ですか?」は「あなたは論理的に物事を説明できる人ですか?」に等しい。もちろん例外もあるのはわかっているつもりだけれど、多くの場合がこれなんじゃなかろうか。

相手が論理的思考のできる人間かどうか疑問な時に、異端審問のように投げかけられるこの質問。弱いものいじめのように思えてしまって、胸がざわざわするのだ。

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