”俺は給料の亡霊だ”ー 父の言葉で決めたアメリカンドリーム
俺は給料の亡霊だ
これは私が小6のころ、父から母に送ったショートメッセージです。
たまたま母の携帯を覗いたときに見えてしまいました。ショックでした。
「亡霊」という言葉に秘められているのは、父のやるせなさ。
当時、身体も心もボロボロになりながら働いていた父。父は仕事の疲れから、休日はずっと寝ていました。
それでも、母とは軋轢があり、感謝されませんでした。
父と母は喧嘩ばかりしていました。母親は事あるごとにトリガーされて「ワンオペ育児」の恨み節が始まり、喧嘩に発展していました。
私と弟は、自室から、父と母の怒鳴り声を聞きながら、泣いているしかありませんでした。
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ー父の生い立ち
私の父は、あまり裕福ではない家庭で育ちました。祖父が若いころから肺炎持ちの病弱で、医療費が大きくかかっていたからだと思います。父が生まれてから定年になるまで、祖父と祖母で共働きでした。
父は子供時代、妹と1つの狭い部屋を共有していました。衝撃的だったのですが、学習机の下のスペースで寝ていたそうです。
また父は、車に乗ることができませんでした。家計的に、車を買う余裕がなかったからです。車を持っている親戚が羨ましく、親戚に車に乗せてもらうこともあったそうです。
その後、父はバイトをして免許を取り、駐車のバイトをやりました。念願の車を運転するという夢をかなえました。
そのほかに塾の講師バイトなどもやったそうです。そして、バイトで稼いだお金で、学生時代にアメリカ横断を成し遂げました。
父は新卒で上場企業に入社しました。そして母と出会い、結婚しました。
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ー母と祖母の生い立ち
母は、田舎のごく一般的な家庭で育ちました。特別贅沢もせず、旅行もせず。祖父母は精一杯働き、母と叔父を育ててきました。
祖母は貧乏でした。戦後、農地が没収されてしまい、弟たちの面倒を見ながら畑仕事を手伝ってきたそうです。弟をおぶって、山の斜面を開墾していたそうです。小さい頃からです。養蚕の手伝いもしていました。
その後母と叔父が生まれてから、祖母は子育ての傍ら、内職や工場での仕事にいっていました。
今でも祖母の手をみると、指の関節が大きくなってしまっています。工場の仕事で、指を酷使したからだそうです。
大好きな手。苦労のつまった手。ありがとう。祖母の畑で、虫食いの小松菜を一緒に収穫したときの写真。
祖母は昨年、認知症の診断をされてしまいました。5分前の出来事やその前の日のことなど、中・短期記憶がかなり減退してしまっています。
叔父が初詣に行っている間、祖母と私は留守番をしていました。「あれ、むんちゃん(叔父の名前)はどこ行っちゃったんだっけ?」と5分に1回は聞いてきました。
60代のころは、祖母はハキハキ頭がキレるタイプだっただけに、とても寂しいです。他方では、遠い過去の記憶は鮮明なのです。認知症とはそんなものなのでしょうか。
お留守番の間、祖母の思い出話を聞くことができました。祖母が弟をおぶいながら山を登り、畑仕事をしていたこと、養蚕の手伝いの様子。蚕のうんちが床一面に落ちていたこと、繭の収穫のことなど。
工場の仕事以来、手の関節が腫れてしまったことも、このとき話してくれました。
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母は大学から上京しました。家計に余裕はなく、4年制の大学は学費が払えないので、短大にしかいかせてもらえなかったそうです。2年間短大に通い、就職しました。そして父に出会い、結婚しました。
3年後、私が生まれました。4年後、弟が生まれました。
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ー死闘の育児と父の言葉
私も弟も、喘息やアレルギーがあることもあって病弱でした。
喘息やアレルギーがあると夜泣きがひどいという知見があるそうで、
私も御多分に漏れず。
母はまとまって睡眠時間を確保できませんでした。
兄弟そろって、毎年病気をしていました。ロタウイルスやノロウイルス、インフルエンザ。また、季節の変わり目にはいつも熱が出て、ケホケホと咳込んでいたそうです。
幼稚園の送り迎えや買い物のとき、母親は、電動ママチャリの後ろに私を、前に取り付けた座席に弟を乗せていました。物心ついたころから、母親が弟に使っていたおんぶ紐もよく覚えています。
母親は、私と弟が中学生になるくらいまでの子育て期間を振り返って、”戦争だった”とよく言います。
自分が倒れてしまったら、二つの弱い小さな命が失われてしまう。
そういったプレッシャーから、母は来る日も来る日も約10年以上、死闘を繰り広げてきました。
私が印象的だったのは、母が具合が悪くなってしまい病院に向かう途中でした。小さい私と弟を連れ立って病院に向かっていました。途中で母は自転車を止め、植木に吐いてしまいました。
母は自分の代わりがいませんでした。父は毎日遅くまで仕事があり、休日は疲れて寝ていました。うつ病になってしまったときもありました。
父が子育てや家事を手伝う余裕など、幼い私から見ても全くありませんでした。
子供を人に預けようにもお金がかかるし、親族はすぐ近くにいないしで、母は一人で闘ってくれました。
この母の死闘が、「ワンオペ育児」という、父に対する恨みつらみにつながっていきます。
また母親は、ワンオペ育児のストレスから躁うつ病になってしまい、躁状態のときの浪費癖が目立つようになりました。
浪費といっても、ギャンブルや数百万の買い物といったところまではいきません。デパートなどで服飾品を買い込んでしまうというものでした。
私と母は、よくお金の使い方で喧嘩をしていました。
”お父さんが苦労して稼いだお金なんだから、もっと大事に使ってほしい。お父さんは、自分の娯楽にお金を使えていないんだよ”
”うるさい。お母さんの精神がおかしくなって、離婚することになるよ。そうしたらあんたたちが不幸になってしまう”
”離婚したいが、かかりつけ医に止められた。子供が一生苦労することになる、だって”
母親のレシートを見せてもらい、お金を管理しようとしたこともありました。
こうしている間にも、父と母が、些細なことをきっかけにして怒鳴り合いになる状況は続いていきました。
”私はワンオペ育児で死ぬ気でやってきた。どれだけ大変だったか。仕事もやめ、自己実現できない。
自分の人生を犠牲にして育児・家事やってるんだから、文句言わないで。文句があるなら育児・家事手伝えば?”
”俺だって必死で働いてるんだよ”
父が家にいる土日は家庭の雰囲気はあまりよくなく、居心地のいいものではありませんでした。
折に触れて母は、父に対して苛立ってしまいます、なので、子供である私たちを連れてデパートなどに行くことが多かったです。外出先で母は、欲望をとどめることができず服を買っていました。また、子供たちが学校に行っている間に、服やカバンが増えていることもよくありました。
こうして、私の家の服やカバンの量は、ものすごいことになっていきました。
ゴミ袋400袋でも足りないくらいの量でしょうか。
また、私や弟と父が会話することはほとんどありませんでした。第一、父は平日は夜遅くまで帰らず、土日は仕事の疲れから寝ていました。また、父は起きてきたとしても暗く、不機嫌でした。、一時期のうつ病が治っていないのではないかと思うくらいでした。
普通なら子供が愛想をつかしてしまいそうな話ですが、
私は、そんな父を突き放すどころか、同情し、感謝しました。
子はかすがい、とよく言います。父とたくさんコミュニケーションを取って家庭の雰囲気を明るくすることまでは、できませんでした。しかし父にとっては唯一、文句を言われずに会話をできる存在として父の支えになれていたと願っています。
父親の犠牲に感謝する気持ちは、伝わっていただろうな。父は身体も心もボロボロになって働き、お給料を取ってきてくれました。
そのお給料のおかげで、私や家族は住む家がある、食べるものがある、学校にも行ける。
父が犠牲になって稼いでくれたお給料を、大切に使いたい、と思いました。同時に、”父が病気になったら、お金がなくなって一家離散してしまう”と本能で分かっていました。
そこで、小学生の私は、
”長男長女として家計を守らなければ。お父さんが稼いでくれたお金を大事にしたい。”
と強く思うようになり、お金に対する執着が生まれていきました。
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そんなとき、私が痛いほど分かっているつもりだった父の気持ち。それが形になって幼い私をボディーブローする瞬間がありました。
俺は給料の亡霊だ
私が小6のとき、父から母に送ったショートメッセージです。私は、たまたま母の携帯を覗いたときに見てしまいました。ショックでした。
おそらく、母と喧嘩をしている最中でのメッセージのやり取りだったと思います。
身を粉にして働いても、母親からはワンオペ育児と恨まれ、家庭の団欒もない。土日は、母と子供たちは出かけてしまう。
自分は給料を稼ぐ以外に、家族に感謝されることもなく、影の薄い存在であるー
そんなむなしさ・やるせなさを感じての言葉だったのだと思います。私はショックでした。
..
ー私の決意
そこからの私は改めて、「父親が汗水垂らし、犠牲になって稼いでくれたお金である。自分のお年玉よりも、もっと大切に使わなければ。」と常に思うようになりました。
また、私はこのとき、心に誓いました。
絶対にお金持ちになる。
そもそも、なぜ父がここまで犠牲にならないと、お金がもらえないのでしょうか。
なぜ母は、もっと家事や子育てを外注できなかったのでしょうか。
”お勝手”の領域もあり簡単な話ではないとはいえ、母はこれだけ「ワンオペ育児」を恨んでいるのですから、やりようはあったはずです。
そしてなぜ、限られたお金を意識して、小学生の私が欲しいものを我慢をしなければならなかったのでしょうか。
小さい頃、周りの友達の発言で、嫌いだったものがありました。
「これ親のお金だからいいよ~☺大丈夫、大丈夫」
友達と一緒にいて、何かしら小学生にとって大きな出費(数千円)をするときに、聞いていた発言だと思います。
そう、この発言をする友達と私との間では、家計の経済的格差があったのです。
思えば、私の家族は、農地を没収されてしまってから代々、見るべき資産がありません。
農地没収から貧乏で働き者の祖母。
学習机の下で寝ていた父。
4年制大学を諦めた母。
2代にわたり、貧困の鎖が続いてきました。
そしてその鎖を、上場会社に就職できた父が、
自身の努力で断ち切れそうなところまできました。
しかし、資産を持たない場合、労働を切り売りするしかありません。
父は身体も心も擦り減らして、なんとかしてこの鎖を断ち切ろうとしています。
私は、心に誓いました。鎖を断ち切るためにも、
絶対にお金持ちになり、豊かさを手に入れる。
私の世代まで連綿とリレーされてきた、祖父母の無念と犠牲。両親の無念と犠牲。
そのリレーは、私の代で止めなければなりません。
私の子供には、親が自分を”給料の亡霊”と感じている状況を経験させたくありません。
労働の切り売りをすれば、病弱な私に反動が来てしまう。
結果的に、子供は寂しい思いをしてしまうでしょう。
幼いころから病弱な私は、能力を武器にして豊かになるしかないと思い、勉学に励みました。
私は、小学生の頃から塾に通わせてもらっていました。塾では、小学生ながらに、講座ごとにどんなことをやるのか質問し、講師の質を吟味し、料金に見合うかどうか科目を選別していました。小学生の塾というのは、つべこべ考えずに4科目パッケージで取るのが当たり前ですから、科目によっては出席しない授業があるというのは私くらいでした。
また、中学生以降は、塾に行くのであれば必ず特待を取れるよう頑張りました。
お金への執着が実ったのか、私は小学校~大学までずっと国立で来られました。士業の資格試験にも、ストレートで合格できました。
私よりももっと、我慢してきた人も知っています。学習机の下で寝ていた父の下克上のおかげで、私は決して”貧困”ではありませんでした。
しかし非”貧困”状態は、父の犠牲と家族の不和のもとでなんとか成り立っていたのであり、”豊か”であったとは決していえません。
また幼いながらに、主観的にはお金の面で我慢してきたことは多かったです。
例えば、食事のときに店員さんから、”お飲み物はどうされますか?”と聞かれとき、本当はグレープジュースが飲みたくても、我慢していました。
家族の外食のときは、ロイヤルホストにする?と聞かれても、”バーミヤンかサイゼリヤがいい”と言うようにしていました。
折込チラシのクーポンも母の代わりにチェックして、使うように頼んでいました。
いつでも水筒を持ち歩き、 ”水やお茶”にお金をかけたことがありません。
参考書はなるべく購入せず、書店に通って立ち読みをしていました。社会人になってからも、書籍は必ず中古で購入するか、図書館で借りています。
疲れていても、交通費節約になるのであれば必ず歩くか、自転車で移動しました。
いざ大きなお金を使う際には、希少なお金を配分するべく、「出費に見合うだけのリターンを得られるか?」と自分に問いました。
ひいては、お金以外の局面でも、「投資に見合ったリターン」「コスパ」のようなものを意識する癖ががついていきました。
ーお金や時間を使うのであれば、それに見合う効用を得なければならないー
こういった思考癖から、勉学は順調に進みましたし、大学でも様々な機会を活用し、チャンスを得られたと思います。
私にはいまだに、資産はありません。
『金持ち父さん貧乏父さん』によれば、資産とは、お金を運んできてくれるものです。
持ち家は負債です。その後私たち家族はローンを組んで自宅を購入することができましたが(未完済)、これは負債ということになります。
”資産が資産を生む好循環”は、まだ手に入っていません。
父も私も、過酷な労働の犠牲のもとにしかお金を手に入れることができません。
バランスシートのプールに、お金を運ぶバケツ。
そのバケツからは、高額の医療費や税金などの水が漏れて出てしまい、プールに注ぐころには量が減ってしまっています。
なので私は、小学生で誓った
絶対にお金持ちになり、豊かさを手に入れる。
この目標を達成するために、まだまだ走り続けなければなりません。
ときどき考えます。もし私が、豊かな家庭に生まれており、小学生の分際で、”投資対効果” などと気にしなくて良かったとしたら。
塾の授業をサボっても、”お父さんのお金を無駄にしてしまった”という後ろめたさを覚えなくて良かったとしたら。
もっと余裕があって、穏やかな人間性になっていたかもしれません。
他方では、自分のやりたくないことから逃げる性格になってしまっていたかもしれません。
今の私は、辛くても踏ん張って、投資を回収しようとします。
ストイックでがめつい、と人から評価されることもあるでしょう。友達から、”貧乏性だね”と言われたこともあります。
..
このように、自分のアイデンティティーは、
絶対にお金持ちになり、豊かさを手に入れる。
というところにあり続けてきました。
贅沢や楽がしたいわけではありません。正直、骨の髄まで染みついた節約根性が抜けるとも思えません。
資産が1億円になっても、外で水やお茶にお金を使わないだろうし、本も中古で買っている気がします。
私はただ、自分や家族にとって必要な選択が、お金の制約によって阻まれてしまうのが嫌なのです。
特に父と母は病弱なので、もし大病をしてしまった際の治療は、妥協したくありません。
もっとポジティブなことでいえば、お金の不安なく、父と母を海外旅行に連れていきたいと思っています。
お金に大きな余裕のない父と母は、15年前に行ったサイパン以来、海外旅行に行ったことがありません。
二人ともヨーロッパに行ったことがないので、連れて行ってあげたいな。
..
ー資産構築のため走る
俺は給料の亡霊だ
この父の言葉で、
”貧困の鎖を断ち切るアメリカンドリーム” の実現を目指して走ってきました。
世の中に評価される資格を得て、夢の3分の1程度は達成しています。
しかし、資格止まりではダメだと思っています。これまでの父の軌跡から、労働を切り売りして得るお金の限界を感じています。
そのためにも、”たとえ細くても絶えない” 不労所得が並行している必要があると考え、投資を始めました。
投資を始めた現在でも、いや、投資を始めたからこそ、
決して無駄遣いはしません。
交通費や飲料費はとことんケチります。住民税も、少しでもポイント還元があるようにLinePayビザクレジットカードを新しく作りました。マネーハックをいろいろ調べています。ドラッグストアの買い物では、たとえ少額であっても、①そのドラッグストアのポイントカードと②楽天ポイントカードと、それに③メルペイのクーポンを忙しく切替え、レジの人を苦笑いさせています。
ちょっと頑張りすぎているかもしれません。幼いころからの、家計を守らなければという責任感が抜けません。自分に厳しい日々が続きます。
この間も、急で家族のことでまとまったお金が必要になったことができたことがあり、一人でプレッシャーを感じていました。
その結果、胃腸炎になり、救急外来で点滴になってしまいました(ここで1万円失いました)。
いつか
”無理しなくていいよ。少しくらい、無駄にしてもいいよ。”
って自分に優しくできる日は来るのだろうか。
..
子供を育てるために人生を捧げてくれた父と母に感謝を込めて。
2021年5月4日
なお現在、時を経て夫婦仲は良くなり、
小さな言い争いはあるものの、
家族は絆で結ばれています。
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