見出し画像

空白の時間で得た「海を見る自由」

 2018年3月。レンガ造りの校舎には僅かな蔦が這う。上京して3年が経とうとしている。止めることの出来ない時間とその流れにぎっしりと詰め込まれた青春を想い、胸が熱くなった。

 志望校の受験を終える頃、ある文章と出会った。偶然にもその文章は進学先の教授が書いたものであり、大学へ進学する意義を問うたその言葉は次なる人生の扉を開こうとする私の胸にドカンと体当たりしてきた。

大学に行くとは、「海を見る自由」を得るためなのではないか。

大学へ行くというのは、勉強するためでも、友人を得るためでも、エンジョイするためでもないと、彼は断言した。大学へ行くとは、「海をみる自由」すなわち「立ち止まる自由」を得るためだと。時間を、自らの人生そのものを誰からも制御されず自分で管理できる、光輝を放つ時であると。高校までも社会に出てからも、そのような時間は他にない。今まで数え切れないほどの自伝書や格言を読んできたけれど、この文章ほど私の心を熱くしたものはないだろう。この言葉は、信念を込めて腕に掘られたタトゥーのように、私の精神に取り込まれた。

 しかし、立ち止る事を許された「自由の時間」とはどんなパワーを秘めているのだろうか。人生で最も輝いているというこの時間がどんな価値をもっているのか、その後の人生に何をもたらしてくれるのかが、私には明確ではなかった。「人生の最盛期」であったという愛おしい思い出にしかならないのではないかと。


 「考える」、そしてその先にある「自分の軸を持つ」には、一見無駄に思えるような空白の時間を若い頃にどれだけ持てたかに左右されます。

最所あさみさんは、自分の判断の軸を持つためには一定の空白の時間が必要であると説いた。その空白の時間とは、知識をぎっしりと頭の中に詰め、思想を育てる時間。それがあってこそ成長に繋がる。そしてその成長とは、自らが育てた思想に新たな知識・思想を付け加えては自己否定をし、「自分の軸を磨く」プロセスなのだ。

これを読んだ時に、あぁ とあの言葉とつながった。大学時代とは空白の時間なのだと。自分の専攻分野の知識を吸収して、多様な友人からなるコミュニティを得て、サークルやバイトなど好きな事を思いっきりするのは、大学生活の目的そのものではなく、自分の軸を磨くための過程にすぎない。大学時代はただの黄金期ではない。その先でどれだけ自分が開花できるかの準備期間。


 時に、孤独を直視せよ。海原の前に一人立て。自分の夢が何であるか。海に向かって問え。青春とは、孤独を直視することなのだ。直視の自由を得ることなのだ。大学に行くということの豊潤さを、自由の時に変えるのだ。自己が管理する時間を、ダイナミックに手中におさめよ。流れに任せて、時間の空費にうつつを抜かすな。

孤独と向き合い自分の思想を広げ、時間を最大限に使うことこそが大学生活の価値である。この時間と過ごし方こそが"人物"を作るのではないだろうか。


今ある蕾が咲き乱れ、花筏となり水面に浮かぶ頃には最高学年になる。残された時間は限りあり、終わりを思うと胸がきゅっと締め付けられる。最後の1年、どんなものにしようか。もう戻ってはこない、この煌めきの時間を。


卒業式を中止した立教新座高校3年生諸君へ。

自分の"器”を育てる時間 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?