進化心理学信奉者の正体

タイトルの「進化心理学信奉者」とは

  • 進化心理学の考えを生きる上での指針・思想としている

  • 進化心理学を人間の本質を表す普遍的な理論と考えている

  • 恋愛、モテ、セックスのコンテクストで発生する諸現象の説明付けとして、進化心理学を用いることが多い

そういった人物を想定しています。X上のアカウントのエボサイ氏が筆頭。急進性があるのが特徴です。ただこれらは僕の主観的な判断を含んだものなので、当人からは異論があるかもしれません。

一読して色々考えたことです。

先日Xであるアカウントから絡まれたのだが、この人物は進化心理学を嗜んでおり、またエボサイ氏をリスペクトしているようだった。このアカウントは意図的に物議をかもすようなアンケートを取ったり、部下にパワハラをしたりと、露悪的な発言が目立った(パワハラに関してはジョークのつもりだろうが、本人からは権威主義型パーソナリティの気質が感じ取れ、どこまでが本気で嘘なのかわからない)。この露悪性はエボサイ氏にも共通して感じるところでもあり、進化心理学信奉者に共通する特徴として僕は認識した。本書の著者であるアラン・S・ミラー氏、サトシ・カナザワ氏については、先に挙げた2人に比べればニュートラル寄りという印象だ。本書を読んだモチベーションは、彼らの露悪性の正体をつかみたかったためである。特別進化心理学に興味が湧いたからではない。

ちなみに、その2名以外にも進化心理学信奉者と呼べる人間は実在するだろうと、X上で「進化心理学 真実」などと検索して調べたみたのだが、存外それらしい人物は発見できなかった(全くいなかったわけではない)。なので、進化心理学信奉者とは、僕の頭の中にだけ存在するイマジナリーなものという可能性も否定できない。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

社会科学者は「標準社会科学モデル」を土台にして人間を捉える。標準社会科学モデルの特徴は以下のようなものである。

  1. 人間は生物学の対象ではない ⇒ 人間だけその他の動物(鳥類や昆虫など)とは別格の存在とみなす

  2. 進化の影響は首から下まで ⇒ 手や足は進化によって形成されたが、脳は進化の影響は受けていない

  3. 人間の本性は何も書かれていない書字板である ⇒ 人間以外の生物は生まれつきの本性を備えるが、人間はそうではない

  4. 人間の行動はほぼすべて環境と社会化によって形成される ⇒ 社会化が人間を作る(文化決定論

総合すれば、生物の中で人間だけは特別な存在であり、後天的・文化的な影響を重要視している、といったところ。

これに対し、進化心理学は以下のスタンスで人間にアプローチする。

  1. 人間は動物である ⇒ 人間と人間以外の動物を区別しない

  2. 脳は特別な器官ではない ⇒ 手や足と同じように脳も進化の影響を受けている

  3. 人間の本性は生まれつきのもの ⇒ 書字板にはすでに文字が刻み込まれており、進化心理学はそれを読み解く学問

  4. 人間の行動は生まれ持った人間の本性と環境の産物である ⇒ 進化心理学は、環境と遺伝子どちらか一方が100%人間の行動を決定するとは考えない

これまで社会科学者が行ってきたフィールドワーク、及び報告には過失がある。

マーガレット・ミードの誤解

マーガレット・ミードはコロンビア大学で、フランツ・ボアズからの指導を受けていた。ボアズはナチスから逃れたユダヤ人で、ナチスの優生思想の誤りを証明しようと考えていた。ボアズは文化決定論者だった。証明するためには、人間とは生物学的な要因ではなく、文化と社会化によって形成されるのだ、ということを示せばよい。即ち、自分たち(西洋文化)と大きく異なる文化を持った人間を見つければよい。そこでボアズはミードをサモアに向かわせた。

ミードは現地人の二人の少女に、「欧米では、男は性的に大胆で女を積極的に追いかけ、女は受け身でデートに誘われるのを待つ。サモアではどうなのか」とインタビューをした。少女らは、「男の子たちは内気で、女の子が男の子を性的に追いかける」と話した。ミードはこれを文化決定論の正しさの証拠とし、「サモアの思春期」を刊行した。この本は世界的なベストセラーになった。1928年の出来事だった。

約60年後、デレク・フリーマンによって、サモアの思春期が嘘であったことが暴かれる。インタビューで少女らが答えた内容は冗談だったのだ。ミードは少女らの冗談を真に受けて本を刊行してしまったのである。

存在しなかったタサダイ族

1971年、フィリピンのマルコス政権の官僚のマヌエル・エリザルデが、ミンダナオ島でひっそりと暮らしていたタサダイ族と呼ばれる民族を発見する。タサダイ族はわずか27人(資料によっては26人)の民族で、何百年間も外界から隔離されたまま、自分たち以外の民族がいることも知らず、石器時代の様式の生活を続けていた。彼らはとても平和的で、使用する言語には「武器」や「敵」のような争いを意味する単語がない。婚姻制度は一夫一婦制で、「愛の民族」と呼ばれた。1973年に彼らを紹介する書籍が刊行された。

しかしこれは作り話だった。

「進化心理学から考えるホモサピエンス」の著者(の一人)のサトシ・カナザワ氏によると、氏が初めて社会学を専攻した時に読んだ、イアン・ロバートソン著の「Sociology(社会学)」は、1981年発行の第二版で、それにはタサダイ族に関する記載があった。

「フィリピンで最近発見された石器時代の生活を送る部族タサダイ族は、敵意や憎しみを表す言葉を持っていないようだ。彼らは競争、所有欲、攻撃、物欲といったものを知らない穏やかな人々である。タサダイ族のような社会がある以上、人間の本性に対する欧米式の考え方を問い直さなければならない」

進化心理学から考えるホモサピエンス P.62

タサダイ族のでっち上げが判明した翌年(1987年)に刊行された同著の三版には、タサダイ族に関する記述はすべて削除されていたとのことである。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

以上の破線で挟んだ部分の文章は、本書を読んで個人的に重要だと思ったところを要約したものだ。これをさらに要約すれば、重要なのは2点

  1. 進化心理学は標準社会科学モデルとは対照的な視点を持つ

  2. これまでの社会学は文化決定論の正しさを証明するために嘘をついた

というところである。

僕は、進化心理学が展開する主張、例えば「大柄で暴力的な親には息子が多く生まれる」とか、「人はすべて勝者の子孫」とか、「自爆テロの根源はセックス」だとかについて、一々異論を唱えるわけではない。サバンナ原則などこじつけ臭さを感じるところはあるが、生物学的見地からの理由付けは、普通に納得できるところはある。僕は人間の本能というものを重要だと考えるほうだし、むしろ文化的教育で人間のほとんどが出来上がるとする標準社会科学モデルの方に違和感がある。生物学的要因で人間は形成され、文化的側面からでも人間の何たるかを説くことができる。一方が正しく一方が正しくない、というのは安易な二元論でしかなく、両面を知ることが大事なのだ、というシンプルな話だ。

そしてそれは、本書でも主張されている。

人間の行動を完全に説明しようとするなら、生物学的な要因と環境要因の両方が重要なのである。

P.32

ただそれでも、本書、というか進化心理学信奉者の主張は、人間の行動原理はすべて進化心理学で説明ができる、進化心理学こそが正しく、標準社会科学モデルは間違っている、という強い意志と熱意が感じられる表現がある。基本的に進化心理学信奉者の主張は、文化決定論の否定がセットになっている。

今のうちに断っておくが、この本で提示するアイデア(私たちが提唱するものであれ、他の研究者によるものであれ)の多くは、非道徳的で醜悪な、人々の理想に反する、男性もしくは女性にとって受け入れがたい含みを持っている。しかし、私たちはそれを提示しなければならない。科学的判断から、真実であると確信しているからだ。

P.20

伝統的な社会学者ら標準社会科学モデルの信奉者の大きな誤りは、人間の行動が無限の可塑性を持ち、文化的な慣行や社会化によってどんな雛型にもはめられると考えていることだ。

P.54

標準社会科学モデルが重要視している文化の多様性にも、本書は否定的だ。

性差がジェンダーの社会化など、社会的・文化的な慣行によるものなら、文化や社会によって男女の特徴は違ってくるはずだ。しかし、あらゆる人間社会(そして、多くの動物)で、男(雄)はより攻撃的、暴力的、競争的で、女(雌)はより社交的で、慈しみ育む資質を持つ。あらゆる文化・社会に共通するもの(行動にみられる性差)は、文化・社会によって異なるもの(文化・社会的慣行)では説明できない。普遍的なものは多様なものでは説明できない。普遍的なものを説明できるのは普遍的なものだけだ。

P.48

もっとも根底的なレベルでは、人類のすべての文化は本質的には同一だ。

P.55

「本質的には同一」というのはあくまで進化心理学側の立場から見たものであって、「そういう見方もできる」ということでしかないと思うが、それがすべてであるかのように断定口調で言い切っているところに、思想を統一しようという思惑を感じる。

僕は別に科学徒ではないが、科学に思想のような何かを持ち込んでしまうのは、よくないと思う。科学的探究で得られた情報が、思想の統一を乱す情報だった場合、当人にとってそれはノイズになり得る。視点がフラットではないのだ。進化心理学信奉者からの発言には、そういう思想や思惑のニオイが感じ取れる事が多い。ただここで僕が言いたいのは、思想があって非科学的だからダメだ、ということではなく、その思想とは何か、ということである。

進化心理学信奉者が考えていること、狙い、それは何か。

僕が思うに、彼らはこれまでの社会学が築き上げた「きれいな人間」像に欺瞞を感じていて、その嘘くささを暴こうとしているのだと思う。それがモチベーションだと思う。


そう考えると彼らの行動原理に一本スッと筋が通るような気がするのだ。

何が社会学だ何が文化決定論だ何がジェンダーだ、何が愛の民族だ。そんなものは全部綺麗ごとだ。弱いオスは淘汰される、メスだって強い遺伝子を求めている。それが生物として当たり前の事で最初から決められている。進化心理学でその真実が分かったんだ。そんなところだろうか。

これに文化決定論を支持する社会学者側が反論するのは少しキビシイと思う。何と言っても虚偽の報告をしてきてしまっているからだ。まあマーガレット・ミードの件は勘違いによる「過失」で情状酌量の余地はあるかもしれないが、タサダイ族の件は「故意」であり、言い訳の仕様がない。

ちなみにだがこのistp_8w7というやつが冒頭で述べた、先日絡まれたあるアカウントである。僕が少し進化心理学について述べたら引用RPでツッコんできたのだけど、2~3回反論したら黙ってしまった。おもろいからここに張っとこう。

あとこのistp(ISTP)というのは、MBTIという性格類型論にある一つの性格タイプの事だが、誤診であり、正確にはINTJである。ちなみにエボサイ氏もINTJ。この話は論旨から外れるのでここではこれ以上は述べない。


近年、インターネットでポリティカル・コレクトネスという表現をよく見かける。これは反差別、多様性尊重の観点から、差別や偏見になり得る表現を中立的な立場から見た表現に置き換えようとする運動の事だ。例えば、「看護婦」は女性限定とした表現であることから「看護師」に変更されたし、アメリカではアフリカ系アメリカ人の事を「ブラック」と呼称していたが、肌の色で判断するのは差別的であるとし、「アフリカンアメリカン」となったらしい。昨年公開されたディズニーの実写版「リトル・マーメイド」では、主役に黒人歌手のハリー・ベイリーが抜擢された。元々主役のアリエルは白人であり、ポリコレ意識の高さからこのようなキャスティングにされた模様である。これらは「倫理的配慮」と言い換えても差し支えないと思う。

そしてこのポリコレは、多くの人にとって(彼らが考える)不都合な真実を暴こうとする進化心理学信奉者にとって、相性が悪い。

僕はここでポリコレの是非を問うつもりないが、何もポリコレが全て正しいとは思っていない。何から何まで配慮しなければならないなんて窮屈だ、配慮された結果表現がオブラートになり面白みがなくなった、そういう批判もあり、いずれもよく理解できる。ただ、ここで言いたいのは、彼らは「倫理的配慮」に明確に反対する立場であるということ。倫理を「抑圧」と認識していることだ。

実際に彼らは、倫理的欠落が見られる発言をしばしばする。

産めよ増やせよと繁殖して、人口が増えるなり子育てがしやすくなるのであれば、帰結主義的には正解である。ただこれは社会全体を見据えたマクロ的な観点での話であり、ミクロ的観点、言い換えれば、代替性が効かないストーリーを持った当事者の観点から見た時、普遍性を持つほどの理屈だとは到底思えない。一般論として、自分の子が死亡した時、何ら精神や感情への負のフィードバックが発生しないとは思えない。多産多死戦略は動物としては正解かもしれないが、人間としては必ずしも正解ではない。人間である以上「多死」を看過することはできない。しかし彼らは人間と人間以外の動物を区別しないためこのロジックが通じないし、この問題を問題とも認識せず、ものすごい簡単に結論を出してしまう。

また、精神病を装うという行為もかなり常軌を逸しているとおもう。誰も鬱病になりたくて鬱病になるわけではないし、多くは精神的外傷が原因だろう。そういう状態を詐称するというのは、標準的な倫理観が備わっていればやろうとは思わないし、できるものでもない。

で、こういった倫理的観点からの批判があることを、彼らは予測した上で主張している、という見方があり、僕もそれに賛成だ。彼らは批判が起こることを分かった上でやっている。

残念ながらツイート主のエボサイ氏は倫理的問題を突っ込まれることは最初から想定内であり、むしろそのような批判は褒め言葉だと受け取って喜んでいるはずです。

彼らが批判されるようなことをわざわざ言うのかなぜか。

それはモラル破壊が目的となっているからだと思う。


唐突だが、ここで僕は2人の人物像を想起せざるを得ない。一方は架空のキャラクター、一方はある性質を持った人間の総体で、どちらも実在の個人ではないため、「人物」ではなく「人物"像"」と表現する。

一人は漫画「幽遊白書」の登場人物、樹(いつき)。樹は人間の殲滅を目論む仙水のパートナーだ。樹は姿かたちは人間のそれだが妖怪であり、仙水は元々妖怪の討伐を行う霊会探偵で、2人は敵同士だった。仙水は正義感が強く、人間は正しく妖怪は悪である、という二元論を持ち、融通が利かない人物だった。しかしその反面少年のような純粋な心を持ち合わす人物でもあった。
戦いの最中、仙水の極端な2面性を知った樹は彼に惹かれ、以降行動を共にする。妖怪の討伐を進めていくうちに、仙水は人間が快楽のまま妖怪を蹂躙している場面に出くわしてしまう。そこで仙水の「人間が正しく妖怪は悪」という二元論が壊れてしまった。人間の醜悪さを見続けた仙水は、人間そのものに疑問を抱くようになり、ついには人間を滅ぼそうと考えるまでに至る。
蔵馬は樹に「お前なら止めることができたはずだ」と言う。しかし樹は「わかってないな…」と言う。

樹は闇に堕ちていく仙水を観たかったのである。苦悩する仙水を観察することに快感を見出していたのだ。

もう一人は動物虐待犯である。先日僕は「動物愛護法」というドキュメンタリー映画を観た。

制作陣は様々な動物虐待犯にインタビュー、取材を行う(その手法は過激なところがあるが)。虐待愛好者が集うネット掲示板への書き込みを行った人物、YouTubeの「生き餌」動画をアップロードする人物、生活保護で得た金でインコを購入し、信頼関係を築けるほど手懐けたうえで虐待をする人物などが登場する。

制作陣は、ペットのトカゲ(小型犬ほどの大きさ)にハムスターを捕食させる動画を配信するYouTuberに配信をやめるよう主張するが、配信側は「自分のペットがご飯を食べるのを楽しんでいるだけ」と言って、要求を退ける。そこで制作陣は警察に法的措置が取れないかどうか確認するシーンがあるのだが、そこで下記の言葉を口にする。

このような一見虐待でないように見せかけている行為って繰り返していて、他の人たちも含めて抗議のメッセージも大分多く出てたみたいなんですけど、そういう人間たちに対して煽るような態度を取っているんですけども。要は世間を嘲笑うかのようにやっている人たちって、やっぱり我々なんかも精神的な苦痛を覚えているという事は、身内が何かされちゃったというのと同じような感覚でいるわけで。相手が人間じゃないから通報はできないけど、でも通報して何の意味もないんだと、ただただこっちも我慢してばかりって感じになってしまうのを、向こうもそれを分かった上で、へへ、ざまあみやがれ、っていう感じでやっているんですけど。どうにもそれが納得いかなくて。

もちろん配信側は「ざまあ見やがれ」とは一言も言っておらず、取材陣の心の中に生じた印象に過ぎないが、虐待犯の嗜虐性、露悪性を鑑みれば、そのような内心を潜めていることは想像に難くない。

「キャベツ畑を信じている子供に無修正のポルノを突きつけるような下卑た快感」を覚える樹、法的措置で罰せない悔しさを嘲笑う動物虐待犯。その二つの像を重ね合わせれば、「人が嫌がっている姿に快感を覚える人間」というシルエットが浮かび上がる。

僕は思った。

進化心理学信奉者の内心もこのようなメカニズムが働いているんじゃないんだろうか。先ほど述べた「モラル破壊が目的」と述べたが、じゃあそれは何のためにやるのか。それは、モラル破壊が快感になっているからではないのか?

そうでなければ「愉快さ」など口にしないと思う。


僕は進化心理学の理論のディテールは理解していないが、どうも「我々の行動や動機は遺伝子によってあらかじめプログラムされている」というロジックがあるように思われる。

そしてこれは僕の観察するところによるものだが、彼らは内省による自己理解(特に感情面)に困難を抱えているようなフシがある。そしてそういう人間にとって進化心理学は都合がいい。「なぜ自分はそのような行動を取ったのか?」進化心理学を用いればすべて「そのように作られているから」で完結し、それ以上考える必要がなくなる。即ち、進化心理学をインストールすれば内省の必要がなくなる。これは内省を苦手とする彼らにとってみればメリットであって、ストラテジーでもあろう。

ジークムント・フロイトは防衛機制という概念を提唱した。これは、受け入れがたい何某かに直面した時に、心の安寧を計ろうとして(ほとんど)無意識に行われる何かしらの行為や心の動きである。防衛機制には様々なものがあるが、その中の一つに合理化というものがある。これはもっともらしい理屈をつけて自己の正当化を図るという心の動きだ。イソップ童話のすっぱい葡萄が例として有名だろう。合理化は結構他人に違和感や不自然さを与えがちだ。人と話していて、どことなく言い訳がましいことを言ってるなと感じたことはないだろうか?そんな時はこの合理化が働いているかもしれない。

エボサイ氏はnoteで多くの有料記事を執筆しているから、ビジネスとして進化心理学を扱っている面もあろうが、あの熱量はただのビジネスの域を超えているものがあるように感じる。そしてそれは、肥大化した合理化の作用として見ることはできないだろうか?

(これは、僕のフォロワーがエボサイ氏のツイートを見て「こういう人を見ると本当は臆病なんだろうなぁって思う」という旨の発言をしていて、それがよいヒントになった)


最後に、これも僕の推測するところでしかないが、彼らはハードウェア面に恵まれた個体であり、優秀な遺伝子を持っているという自覚(ひとえに有能であること)があるように思う。そしてそれをバラまきたい、要はセックスがしたい。だから彼らはモテやセックスの話に執着する。できるだけ多くの異性と交わりたいと思っている。

しかし倫理がそれを許さなかった。倫理が彼らの邪魔をした。だから倫理を破壊する進化心理学にのめり込み、自分の思想こそが正しいと理論武装した。

倫理さえなければ俺が何もかもを支配できた。倫理さえなければ。



まとめます。

進化心理学信奉者とは、標準社会科学モデルが形成した倫理を覆すために、肥大化した合理化を伴う理論武装をし、進化心理学の思想的統一と快楽を得ることを目的としたモラル破壊者である。

というのが本稿の論旨となります。



考え過ぎかナ…(^▽^;)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?