「嫌なら見るな」を通してはいけない

某年某月某日、WWW内の某空間において某発信者が発した某コンテンツはいささか倫理に抵触する内容をはらんでおり、小規模ながら若干の批判が巻き起こった。この騒動内でコンテンツの発信者は「嫌なら見るな」という発言をしている。それは発信者が多く残した発言の中の一部で、発信者の主要な主張ではないと考えつつも、このフレーズを目にした瞬間自分は強い違和感を覚えた。

この違和感はいったいなんだろうか…ただ思索するだけではなかなか結論が出ない。答えを求めてnote内で検索をしたところ、以下の記事内にある一つの文章が良いヒントになった。

ちなみに「わざわざ見に行くな」とか、「嫌なら見るな」というご意見には「なら世界中の人に公開すんな」でお返ししたいと思います。

本稿では僕が感じた「嫌なら見るな」論の違和感について論じる。


情報を得る手段、より抽象的に言えば物事へのアプローチの仕方というのは、プル型プッシュ型の2つに分類できるように思う(元々はマーケティング用語)。プル型とは自分から能動的に情報を得ようとする方式や態度。例えば、意味がわからない単語の意味を辞書で調べる、評判のいい飲食店に行ってみる、面白いと思ったアカウントをフォローする、など。その性質上本人にとって必然的に必要な情報となっている。対しプッシュ型とは自分ではなく向こうの方からやってくる方式だ。例えば、不意に送られてくるDM、飛び込み営業、いつのまにか郵便受けに入っている新しくできた料理店のチラシ、などなど。主に発信側の都合で行われており、必ずしも受け取り側のニーズに即しているわけでもないことは、多くの人が経験上理解できるところだと思う。プッシュ型で得られる情報は受け取り側にとってノイズになることが多い。

冒頭で述べた某コンテンツが発信されたのはインターネットだ。このインターネットと言うのは、利用者にとって、プル型の媒体なのか、プッシュ型の媒体なのか、どっちなのだろう? 利用するプラットフォームによるが、多くは2つの混合型だろう。例えば、僕は今年バイクを買ったのだが、冬季は寒いので乗らないつもりでいた。しかしバイクというのは長期間乗らないでいるとバッテリーが上がってしまうらしい。対処法を知りたいと思った僕はGoogle検索で「バイク バッテリー上がり」で検索をした。すると、

  • 【保存版】バイクのバッテリーが上がった時の対処法

  • バイクのバッテリーが切れたら車から充電(ジャンプ)できる?

  • 不動にするな!冬の大敵「バッテリー上がり」に対抗せよ

といったタイトルのサイトがヒットした。こちらが得たい情報に即しているし、ノイズらしいノイズは見られない。一見プル型に見えるが、大手のサイトほどバイクには直接関係がない広告があって、それらが「不意に」視界に入ってくる。YouTubeなども同様で、基本的には検索したワードに関連する動画がヒットするが、やはり動画内には広告があるし、閲覧候補に挙がる動画も、(自分の閲覧履歴から編成されるとはいえ)「勝手に」選ばれて画面に映る。比重は分からないが、Google検索とYouTubeによる情報取得はプル型とプッシュ型の両方の性質があると言えると思う。

では、旧TwitterのXはどうなんだろうか。このSNSは先に挙げた2例に比べると、プッシュ型の要素が大分強いのはないかと思う。現在のXの仕様では「おすすめ」のタイムラインがあり、詳しい仕様は分からないが、ユーザーがフォローしているアカウント(つまり情報を得たいアカウント)以外のアカウントも表示される(視界に飛び込んでくる)。自分のポストへのいいねやリポスト、誰々からフォローされたなどの通知はそのまま「プッシュ通知」だし、知らないアカウントからDMが届くことだってある。通常のタイムラインには企業のプロモーションのポストも多く散見される。こちらから特に望んだわけでもないのに「おすすめユーザー」が表示される。絶対に知る必要があるという訳でもない大量の雑多な情報がプッシュされている(まあユーザーは「何か面白いことないか」と思いながらその雑多な情報を享受しているんだけど)。

その「向こうから飛び込んでくる大量の雑多な情報」の中に、自分が望んでいない(見たいとも思っていない)情報が紛れ込む可能性はゼロじゃないだろう。この記事で取り扱うコンテンツが発信されたのはこのXだった。


話を元に戻す。コンテンツの発信者は「嫌なら見るな」と言ったのだった。これは批判が起こったことに対する言及であり、つまるところ「批判や文句を言うな」という事だろう。確かに受け取り側がコンテンツを観なければ批判などは生じない。シンプルな話だ。対策の仕様だってある。Xであれば特定のワードをフィルタリングする機能はあるし、ミュートやブロック機能を使えば事足りる。

しかし、僕はこれをある種の「不自由さ」であって、制限がかかった状態だと思う。受け取り側が納得した上で行っているならばそれは「自衛」であって、僕は何も言うつもりはない。でも納得できない場合、こちらだけが制限を受けるのは違くないか。なぜ向こう方に合わせてこちらの設定を変えなければいけないのだろう。

僕はこう考える。

自分から世界中に発信するプラットフォームを選んでおいて、「嫌なら見るな」というのは都合がよ過ぎないか?発信側が表現の発信範囲を狭めるという選択肢だってあるだろう。なぜそれを考慮していない?なぜ、不快感を負った方が一方的に制限を受けなくちゃならないんだ?作り手は自由にコンテンツを作る一方で。

不公平だと思わないか。批判されたくないんだったらそっちが場所を変えるのもアリだろう。LINEの身内のグループだったり、Xであれば鍵アカウントであったりだ。すでに述べた通りXはプッシュ型の要素が強く、受け取り側は望んでもない情報を不意に得てしまうこと多い。発信側がプラットフォームを変えれば充分批判される可能性は減るんだ。検討したっていいだろ。

それが呑めないんだったら、批判されないように表現を変えたり配慮するしかないだろう。

まあ、自分が表現したものが受け手にどのような影響を与えるか、どう思われるのか、それを理解し、考慮した上で適切に内容をコントロールする手腕をもってこそ一流やプロフェッショナルだろうなんてことを考えます。もっとも誰もが一流にはなれないだろうし、なる必要もないだろう。誰もが二流三流のクリエイターでいることの自由というのはある。もちろん皮肉だ。 


「嫌なら見るな」なんて通しちゃいけないんだ。分断が加速する一方なんだよ。

これで本当に解決でいいのか?

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