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新年クリスマス論と景色的ピアノ菩薩(1/2)

クリスマスという世界最強イベント。むしろ街の方が人間の思考に擬態しているのではなかろうかというくらいの高揚感、期待感。擬態シティーは肩で呼吸してるので、浅いし早い。これがクリスマスじゃなかったら、腹式呼吸を勧めていたところだ。クリスマスそのものどうこうより、一年が終わろうとする空気や、その最後くらい(あるいは最後まで)楽しく過ごすことで「終わりよければすべて良し」としたい人間による人間のための人間讃歌なのかもしれない。(信仰する宗教によって位置付けはかなり違うと思いますが)こういう話はリアルタイムで目にすると白けてさせてしまう可能性があるので、新年にこっそりと忍ばせた。(まさにクリプレばりに…なんつって…)

いずれにせよ、そういう喧騒はしばし孤独な人間を助けてくれる。私も逸る街を味わうために、駅ビルとか商店街といったような場所に積極的に出向く。そもそも私は主人公的であるより景色的でいる方が居心地が良くて好きだ。(無関心な傍観者ではありたくないけれど)
だてに小学校入学当初すでに「映画音楽のサウンドトラックが書きたい」と言い出してない筋の通りっぷり。映画音楽のような人生。

この感覚をもう少し掘り下げて話したい。私はピアノを弾いている時の自分が一番好きで、それは自分の視点が実際の身体よりも数センチ後方にあるということが大きいと思う。ピアノを弾いている時の自分なら、友達になりたい。彼女は信用できる。損得勘定もなく、裏切りもなく、無条件に優しくて頼もしい。普段の私はお世辞にも慈悲深くもなければ献身的でもないし、それなりに本気で人の幸せを祈っている時もあるが、禍々しさの牙に飲まれそうな時も確かにあって、友達になったら疲れそうで躊躇してしまう。40歳近くなってようやく、それでもこれだけ素晴らしい人たちが友達でいてくれるのだから、自分の正体についてあれこれ考えるのはやめようと思い始めた。それくらい、自分に懐疑的である。加えて、人気者たちへの憧れも持ちながら、人に好かれようとすることには大変否定的で、そんなややこしいやつ誰が友達でいたいだろうか!私は無理なんだけど?(こういうこと考えている時に決まって脳内で 安室奈美恵さんのCan you celebrate?が流れてくることも添えておく)

Bref, そんな器が豆皿級の私が、ピアノを弾いている時だけは何かの鉱物に憑依したのではないかと思われるほど、あらゆる邪念や煩悩とは無縁でいられる。ピアノの菩薩かハーモニーの聖母に吸い込まれてるとしか考えられない。普段あれだけ強烈な自我に自分自身苦しめられているのに、たった一瞬で全部捨てられるのなら。普段少しくらい小出しにゴミ出しできないものだろうか。イヤイヤ期なの?それとも反抗期?到底同じ人物とは思えなくて手に負えない。

ステージでピアノを弾いている時も、スポットライトが当たっている自分のことなんてそっちのけで「助けを必要としている人を救いに行かなければ。両手をいっぱいに広げて、どんな人にも等しく、何も求めず受け入れたい」という強くて揺るがない気持ちでピアノに向かっている。映画のサウンドトラックを作っている時もそう。煩悩まみれの豆皿裕子が、ピアノ菩薩ないしハーモニー聖母に憑依する瞬間だ。

そういう時の自分だけだったらいいのに。それはクリスマスの街を眺める時の、全ての人類の幸せだけをシンプルに願える自分の姿に似ている。

自宅の電子ピアノをコソコソ弾いている私(着用しているのはSnoop Dogg氏のフーディー)


本当はお正月についても書こうと思ってたんだけど、地震のこと、避難されている人々のこと、日本海の冬の寒さのこと、次から次へと駆け巡る思考の、何からどう書いていいのかわからなくて、やめた。気持ちをまとめて言語化する段階に至ってないからだと思う。今はただ、なるべく早く、暖かい場所で安全が確保できますよう、心からお祈り申し上げます。

そんなわけで、今日はここまで。

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