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「つまらない」(3/31)

日本式の年度最終日ということで、本日をシンデレラ式日記更新(=0時までに日記を書いて出す)を最後としたい。明日4月からは、一日の終わりということで時間縛りはなしで毎日更新を続けようと思う。
(制作や練習など、色々仕事に支障きたすことが懸念されるため)

さて、唐突ですが、このわたくし、映画の批評をやっている方や哲学専攻をしてきたようなインテリ男性に好かれやすい。ついこの前も「I miss you!Where are you?」などという便りがきたばかりだ。質問の内容が「どこにいるの?」なのが、私ならではだろう。広島なのか東京なのか、はたまたパリなのか何処やねん、と。

「色々と難しい話が一緒にできる、自立している賢い女性って少ないんだよね」という最もらしい理由が添えられるが、この一見褒めているようなナチュラル女見下しマウンティンムッシュー達(しかもだいたいコンプレックス多めでマザコン)は非常に危険な存在だ。これまでは、「そうなんや〜(なんかようわからんけど)ありがとう!」なんて言いながら取り敢えず乗っかったりしてきたが、内心、何であなたが認める側やねんとツッコミ、私が本当に困った時に親身に助けてくれなさそうだからないな、と思ったりしていた。
しかし彼らに何となく乗っかることが幇助罪のように感じ始め、自戒の気持ちがとうとう噴出し始めた。

まず何より、そんな"頭が良いはずの"人たちの批判的な物言い、(彼ら解釈による)バカへの見下し、醸し出すダウナーでネガティブな空気が自分の人生に全く必要ではない、に尽きている。(この時点でもう句点打っていますが)
生まれながらの呑気さでわりと悲惨な青春時代も乗り越えてきたのに、今更そんなジメジメした空気などどう切り取っても私には不要なのだ。

そういう人たちは、こねくり回して不幸そうな事ばっかり言っているので「だったらもう哲学書読むの辞めて、マリオカートとかしたら?」と返してしまう。

今まで以上にその雰囲気との訣別を感じる理由として、以下の重大なものが挙げられる。

今まで音楽のことばっかりやってきた欠陥だらけの自己中心的な私は、渡仏というイベントに限らずとも、人として本気の岐路に立たされているのだ。いや、岐路に立たせてもらうチャンスをようやく掴もうと決めたのだ。決めなければ、与えられた岐路は永久に視界の片隅に見えている見知らぬ道である。ああ、神様(何様も信じてないけれど)ありがとうございます!!

今日も殆ど一日中そのことについて考えていた。なので、誰とも話す気分になれず(メルシーひとり暮らし)毎日指折り数えるほど楽しみにしていたPeople In The Boxのライブ後ですら楽屋挨拶に伺わずに帰宅した。「よほど」のレベルをアピールするには十分なほどの事態であることは、私が如何にピープル好きかから逆算して頂ければ明白だ。

今、私は、はっきり言って完全に自分に飽きている。

見方によっては"愚かな奴だ"と軽蔑されたり、"そんなあなたは精神疾患です!"なんてテキトーな精神科医には開口一番言われそうである。

仮に、その方が正解だったとして、だから何なのだろうか。モノなんて所詮は捉えようである。
私は自分に飽きてしまって、このままではいよいよ、作曲している時か演奏している時以外は生きるのが困難になりそうな事態だ。それは困る。

だから、自分に新しさを見出したい。次の面白いことを"自分の内側に"見つけたい。私にとっての人間的成長、それが「自分から人を愛してみたい」だの「新プロジェクトをああいう形でやってみたい」だのに繋がっていく。

正解か不正解かもそうだけれど、結果も結果で結果論だから先に考える事でもないし、今自分に感じているつまらなさ、飽きてるっていう事実を利用してやりたい。あなたなら、そういう風に考えてまた進むでしょう?って自分の声が聞こえる。

先日とある人から「言葉はイデオロギーが姿を借りて出てくるものだから、人や物をつまらないと言わない方がいい。」と注意された。彼曰く「自分がそう発言をしている時、どこかで自分も誰かにそう言われているかも知れないと思うと気が滅入るので、気が合わない(だか何だかの)言葉を使うようにしている」と言う。それについて、じっくり考えてみた。確かに彼の考え方は一見素敵そうだ(し、多分素敵なのだろう)。でもやっぱり、私にはあまりしっくりこなかった。

他者からどこかで「世武さんってつまらない人だよね」と言われている事を想像してみる。
当然どこかで誰かにそう言われているだろうなと思う。
生きている限り絶対嫌われたり悪口を言われたりする。そして、絶対に味方もいるし好いてくれる人もいる。
提唱者への礼儀として真剣に想像してみたけれど、やはり人間である以上そういうものだし、そんなところまで世話してられんというのが率直な感想だ。(面と向かってわざわざ言うのは話が変わってくるので、私もあまり賛同できないが)

人の良いところだけを見たり、常にポジティブな事を言うのは日本的美徳のひとつかもしれない。いわゆる好感度社会においては最高級品ですらあるのかも。
でも、その「無理ゲー」の成れの果てがSNSの荒れ狂い、他者の失敗を許さない姿勢、説明の難しい閉塞感、人のごく個人的な生き方に口を出しすぎるのに政治には口を出さない昨今の社会の様相だと思っている。

ちゃんと我慢できて、墓場まで持っていくならそれはひとつの美学かも知れないが、結局どこかで歪みと蓄積が限界を迎え、何らかの凶器となって発出する。ならば、そんなものはただの綺麗事だ。そして、限界は大抵迎えるものだ。

何人かからは「ちょっと世武さんって言葉きついし、苦手かも...」と思われ始めていることだろう。「確かに!つまらないって言葉を使わないようにしたいと思います!」と言った方が敵を作らないですむ確率はあがる。
でもそんな生き方が「つまらない」のである。

私は「いつもトイレを綺麗に使って頂きありがとうございます☺︎」の張り紙より「立ちション禁止」の張り紙の方が好きな性格なのだ。

「まあ、余裕っす!」みたいな書き方をしてしまったかもしれないが、実際のところ毎日いっぱいいっぱいに生きながら、これを書いている(苦笑)。

今の自分に不必要だと感じる人間関係もあるだろうし、久しぶりに話したら意気投合するような再会もあったり、その逆もあったり、新しい出会いがあったりするのだと思う。
なんだか、そういう感じでいいんじゃない?

馴れ合ってばかりでは、やはり「つまらない」。

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