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蔦の葉考

蔦の葉

けっきょくは蔦の葉なのかなあ、と思う。
詩の役割について考えてみるとき、詩に限らず言葉を使ってする表現形式・伝達方法とあれこれ思いを広げてみても、やはりわたしが最後にたどり着くのは、あの一枚の蔦の葉だ。

O・ヘンリーの『最後の一葉』は、いつ読んだのかも覚えていないくらい昔に読み、でも誰にきいても「ああ、絵に描いた蔦の葉が、少女の命を救った話でしょ」と続けてくれるぐらいよく知られ、いつまでも人々の心に残っている名作だ。窓から見える蔦の葉が全部落ちてしまったら、自分の命もなくなってしまうと思い込んだ病気の少女を助けた、最後の一枚の蔦の葉。それは生涯日の目を見ることのなかった老画家が描き遺した、最後の一枚の傑作でもあった――。

芸術が人を救った証拠写真を見るような美しい短編だ。そして、名作に感動しながらも、わたしはその先で突きあたってしまう。しかし、蔦の葉は「造り物だ」という動かしがたいかなしみに。ひとときの嘘が、信じられてほんとうの命をつかんでしまう怖さが、そこにはある。また、もし「蔦の葉は偽物」だと見破られていたら少女の命はどうなったであろうかとも。そのとき物語は、少女の心を傷つけてさらに命を奪うという、より残酷な結末を招きはしないか。そして、本物だと信じることで自分の命を救った一葉が、実は造り物だと後で知らされたときにも、果たして戻れた場所で補いがたく損なわれた痕が少女の心に残りはしなかったか。インター・ネットやゲームなどバーチャルな世界が日常に蔓延し、ときには人の命までおびやかす昨今。人の手が創り出すものすべてに、わたしは少しナーバスになっている。おそれているのは、逆も可なりの蔦の葉だ。

芸術の思いあがりは怖い。虚構の手が現実の患者に触れるのは僭越どころか、危険な事だとおもう。だから、ここには、暗黙の了解があるのではないかと想像してみる。蔦の葉が散れば死んでしまうというのは、少女の病んだ心が創り出したおとぎ噺である。その瀕死のファンタジーを見破った画家が、それに美しい挿し絵を添えてやることによってお噺を完結(成仏、かもしれない…)させて、彼女のはまった虚構の世界から少女を現実に連れ戻したという……。つまり、芸術の素晴らしさが人の「命を」救った物語ではない。これは、フィクションはフィクションで打ち消し得るという、手に手を取った虚構の力が、人工の夢から醒めることで、少女の「魂を」無事こちらに取り戻し得たという物語ではないのか、と――。
こういう形でなら、芸術はひとをすくえる気が、わたしはする。

「病は気から」とよく言うが、その「気」の部分とのみ虚構は人に接触し、よくもわるくも人を動かせる。少女が本物の蔦の葉だと、「信じなければ」お噺は成り立たないし、絵に描いた蔦の葉はしかし、いつまでも本物の振りをすることはできない。ここに「信じる」という信仰に似た「酔い」が、「束の間」という時間的制約に守られて、宗教ほど根こそぎに倒されずに、「ひとときひとをすくう」虚構の世界を健やかに成り立たせている。蔦の葉から言の葉に還っていける――このスリリングで健やかな場所で詩も書かれている、と信じたい。
詩はスリリングだ。言葉を連ねる仕事ではいちばんスリルのある書き物だと思う。

詩が「ぼくは」「わたしは」と語りはじめるとき、その主語は、小説で守られたようには書き手を守らない。かといって、ノン・フィクションでのように直に現実に着地するものでもない。詩の主語と書き手は分かち難くつながったまま、虚空へ羽ばたこうとする。詩の主語はいわばその羽ばたきにある。羽ばたきの音が、詩を語るのだ。詩がやっかいな読み物だと敬遠されるいちばんの理由は、つかめそうでつかめないこの語り手が曲者だからだ。

簡単に言ってしまうと、詩は「酔えるか」である。
言葉に酔えるか。詩を書くということは、酔いの世界に入っていくことだ。酒に酔うように言葉に酔わなければ詩は書けないし、言葉に酔えなければ詩は読めない。

しかし、詩はまた「帰れるか」でもある。どんなに見事でも描いた蔦の葉は、本物にはなれない。つらいけれど、帰れるか。つらいところに、帰れるか――詩がメランコリーの色合いをおびるのはどんなに酔っても忘れてはいない帰路のせいだ。酔うという往路と醒めるという帰路を一身に搭載して、はじめて詩は健全に立てる。そして、虚構へ逃げきらず現実への着地も拒み、詩はどこへ帰るのか。詩は言葉に帰る。詩はふるさとの言葉に帰る、蔦の葉だ。
 哀しからずや空の青海のあをにも染まず…羽ばたき。

  *
東京都内への通勤圏ではあるが、周囲を山々の緑に囲まれ、ちょっと歩くと清らかな川の流れに出会える田舎町にわたしは住んでいる。よく飼い犬と一緒に川沿いを散歩する。

 今日も
 ゆるやかな水が
 白いスカートを広げたように
 つるつる流れ落ちる堰堤の下を覗くと
 きれいに澄んだ水だまりの底をひと群れのハヤが
 仲良く並んで移動している右に行ったか
 と思えばさっとひるがえって左
 かと思えばまたいっせいに群れの身を軽やかに
 ひるがえし
 ちらっと白い腹を見せるやつがいたり
 水底の小石をつつくかと思えば
 ぴちゃっとやって
 みたり

じっと眺めているとハヤたちが、生きている一篇の詩のように見えてきて。
初夏の心地よい風に吹かれよく晴れた空の下で、わたしは、ああかえりたい。
わたしはここにかえりたい。わたしの詩はいつか、このハヤの群れにかえっていきたいと願った。それが、酔うことなのか。醒めることなのか。行くことなのか。帰ることなのか――、

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わたしは知らない。

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*某誌での往復書簡に向けて、詩について考えこんでいたらどこかの冊子に寄せたずいぶん古い文章が出てきた。変わる想いと変わらぬ想いがある。わたしには変わらぬ想いの蔦の葉、ここを手掛かりに次の仕事に向かいたい。備忘のためnoteに。

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