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「話せば分かる!」「問答無用!」バン!(銃声)

こんばんわ。Twitterで常に誰かと議論していたい、

#意識低い系社長  です。

タイトルはご存知の方もいらっしゃると思いますが、
1932年(昭和七年)5月15日に起きた、海軍青年将校たちが時の内閣総理大臣犬養毅氏を暗殺した、「五・一五事件」のやり取りの一幕です。

1.五・一五事件について

改めて、「五・一五事件」について振り返ってみましょう。

時代背景としてはwikipediaに記載がございましたので、そちらを引用させて頂きます。もちろん知ってる、という方はこの頁は飛ばしていただいて結構です。

大正時代に衆議院の第一党の党首が内閣総理大臣になるという「憲政の常道」が確立したことで当時の日本は議会制民主主義が根付き始めたが、一方では1929年(昭和4年)の世界恐慌に端を発した大不況により企業倒産が相次いで社会不安が増していた
犬養政権は金輸出再禁止などの不況対策を行うことを公約に1932年(昭和7年)2月の総選挙で大勝をおさめたが、一方で満州事変を黙認し、陸軍との関係も悪くなかった
しかし、1930年(昭和5年)ロンドン海軍軍縮条約を締結した前総理若槻禮次郎に対し不満を持っていた海軍将校は若槻襲撃の機会を狙っていた。1931年(昭和6年)には関東軍の一部が中華民国北部で満州事変を引き起こしたが、政府はこれを収拾できず、かえって引きずられる形だった。
そして立憲民政党(民政党)は選挙で大敗、若槻内閣は退陣を余儀なくされた。これで事なきを得たかに思われたがそうではなかった。計画の中心人物だった藤井斉が「後を頼む」と遺言を残して中華民国で戦死し、この遺言を知った仲間が事件を起こすことになる。

(Wikipedia「五・一五事件」より抜粋)

つまり、五・一五事件の背景には、ロンドン海軍軍縮条約(内容を要約すると、第一次世界大戦の勝利国による保有している海軍を減らしましょう、という条約)に対する、海軍青年将校たちの不満が大きかったと推察できます。

実際、条約の内容は、日本にとってあまり有利な条約ではなく、不平等条約だとして国内からも不満の声があがっていました。

実際に「五・一五事件」の首謀者は海軍中尉・古賀清志という人物で、巧妙かつ秘密裏に仲間を募り、同時多発的に東京の主要な拠点である、首相官邸、銀行、変電所、警察署などを襲撃する計画を綿密に練っていました。
現在で言う、東京で同時多発テロを起こし、”鉄血革命”による政治転覆を謀ったのです

2.「話せば分かる」「問答無用」の実際のやり取り

こちらもwikipediaから引用させて頂きます。

5月15日当日は日曜日で、銃殺された犬養首相は折から来日していたチャールズ・チャップリンとの宴会の予定変更を受け、終日官邸にいた。
第一組9人は、三上卓海軍中尉、黒岩勇海軍予備少尉、陸軍士官学校本科生の後藤映範、八木春雄、石関栄の5人を表門組、山岸宏海軍中尉、村山格之海軍少尉、陸軍士官学校本科生の篠原市之助、野村三郎の4人を裏門組として2台の車に分乗して首相官邸に向かい、午後5時27分ごろ官邸に侵入。表門組の三上は官邸の日本館の洋式客間で、警備の田中五郎巡査を銃撃し重傷を負わせた。
表門組と裏門組は日本館内で合流。三上は日本館の食堂で犬養首相を発見すると、直ちに拳銃を首相に向け引き金を引いたが、たまたま弾丸が装填されていなかったため発射されなかった。三上は首相の誘導で15畳敷の和室の客間に移動する途中に大声で全員に首相発見を知らせた。客間に入ると首相は床の間を背にしてテーブルに向って座り、そこで首相の考えやこれからの日本の在り方などを聞かされようとしていた。
しかし一同起立のまま客間で首相を取り囲み、三上が首相といくつかの問答をしている時、山岸宏が突然「問答無用、射て、射て」と大声で叫んだ。ちょうどその瞬間に遅れて客間に入って来た黒岩勇が山岸の声に応じて犬養首相の頭部左側を銃撃、次いで三上も頭部右側を銃撃し、犬養首相に重傷を負わせた。すぐに山岸の引き揚げの指示で9人は日本館の玄関から外庭に出たが、そこに平山八十松巡査が木刀で立ち向かおうとしたため、黒岩と村山が一発ずつ平山巡査を銃撃して負傷させ、官邸裏門から立ち去った。
それでも犬養首相はしばらく息があり、すぐに駆け付けた女中のテルに「今の若い者をもう一度呼んで来い、よく話して聞かせる」と強い口調で語ったと言うが、次第に衰弱し、深夜になって死亡した。

犬養毅「話せば分かる」→将校「問答無用!」という流れではないのがお分かり頂けたでしょうか。実際は問答していたのです。

わたしが「五・一五事件」を知ったのは、小生が小学生の頃、親から贈ってもらった「マンガ・日本の歴史」の全巻を読んだ中でのことです。そこには、やはり「話せば分かる」「問答無用」バンッ!(銃声)と描かれていたように記憶しています。

そして、二発も頭部に銃弾を受けながらも、若者に教え諭そうとした犬養毅氏の強い生命力と意思に感嘆せざるを得ません。(昭和の人間って強かったんだなぁ…)

3.なぜ今「五・一五事件」を採り上げたか

ここからわたしの主張です。問答無用ではなく、ぜひ問答致しましょう

わたしはTwitterでは基本的に目に止まった人を無差別にフォローしています。理由は3つあります。

1つ、わたしがTwitterを見ている時間は少なく、タイムラインに流れてきた方のツイートを気に入ったり、気になったりしても一期一会になってしまう可能性が高いこと。
2つ、わたしのツイートやリツイート、引用ツイートをイイネやリツイートしてくださった方は、基本的に何らの共感か何らかの反感を感じ、アクションしてくれていること。
3つ、情報量は多ければ多いほど、カオスになればなるほど、一期一会のツイートの大事さを感じれますし、ひらめきのチャンスに繋がると考えていること。

そして、その中で目に止まったツイートやリツイートをとりあげ、議題として議論を投げかける、反応をくれない場合もありますし、わたしが全く見当違いの解釈や誤解をしていることも多々あります。

ですが、わたしは議論がしたいのです。こんな一般人と議論しても価値がない、と言われそうですが、わたしなりの見解や解釈は常に持ち合わせています。建設的かつ、平和的な議論はもっと活発に自由に行われるべきだと考えています。

わたしの敬愛する、明治から昭和にかけての文豪たちも、会食をしながら活発な議論に花を咲かせていたと聞きます。現在では会食自体が制限されてしまっていますが、インターネット上の「耽美派」、「白樺派」、「トキワ荘」を作りたい、そう願ってやまないのです。

4.まとめ

言論や思想はもっと自由であるべきです。

ポリコレや差別撤廃を声高に叫べば叫ぶほど、文化は陳腐化していきます。
なぜなら、恣意的・政治的圧力を受けた文化は必ず滅んできている、歴史がそう言っています

わたしたちは常に問答をすべきなのです。差別主義者とか、ネトウヨだとか、パヨクだの、レッテル貼りをして自己完結してはなりません。もっと様々な人の考えや、イメージ、を言語化して議論をしましょう

(大炎上、大歓迎です!!!!!!!)←心の叫び


ここまで読んで頂き、ありがとうございました。

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