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『友達』ってなんだろう? (あなたといつ友達になったっけ...?)

10人の法則

小さい頃、父親から聞かされた話の一つに、こんな話がある。

世の中に10人の人間がいるとする。
1人はお前だ。
9人のうち、3人は何があっても無条件でお前の味方になってくれる人間。
3人はお前が何をしても敵になる人間。
残りの3人は、お前の行いによって敵にも味方にもなる人間だ。

...という話。

解釈の違い

かなり大人になってから、父親の通夜で妹と雑談をしている中でこの話題になった。
聞かされた話は同じであっても、私と妹ではその解釈の仕方が違ったようで...。

妹は、行いによって敵にも味方にもなる人間である3人を味方につけるために、良い行いを心掛けなさいよ。と解釈した。

私は、何があっても無条件で味方になってくれる人が3人いるなら、それで充分だな。と解釈した。

実際のところ、父親がどちらの意図をもってこの話をしたのかはわからない。また、もしかすると他の解釈があるのかもしれない。
いずれにしても、父親から聞かされた無数の話の中でも色濃く記憶に残っているこの話は、私の人格形成に少なからず影響しているのだと思う。

人間関係の断捨離

実際に検証したわけではないので数字が正しいかどうかはわからないが、私はこの10人の法則という話は、なかなか的を得ているなと思っている。

私はこれまでの人生において、人間関係の全削除→新構築を常々繰り返している。
例えば子供の頃は転校転入で、社会に出てからは転職再就職で、といった具合だ。

また、昔から半年を目処にその間連絡を取らなかった人は連絡先リストから削除することにしているのだが、基本的に自分から連絡することが殆どないので、相手から一定期間連絡がなければ削除する。
私は物の断捨離は出来ないが、人の断捨離は決断が早いのである。
ちなみにこれまで削除した人から連絡が来ることはほぼ無かったように思う。しいて言えば仕事関係で、既に退職した前職の取引先から電話が掛かって来た、とか。
つまりプライベートの人間関係では、半年連絡が来なければ、その後も来ない。逆に、半年連絡をしない人には、その後もしない。
人の縁などというのは所詮そんなものである。

友達ってなんだろう

私には友人が居ない。が、知り合いはそこそこ居る。
私が知り合いと思っている人たちの中には、私のことを他者に話すときに『友達』だと言っているのを聞いたことがあるので、その解釈が本音か建前かはさておいて、もしかすると一定数は私のことを友達だと思ってくれている人もいるのかもしれないが、申し訳ないことに私はそうは思っていないので、私には友達は居ないのである。

『友達って何だろう?』と思って、改めて調べてみたらこんなページを見つけた。

goo辞書[友達の意味]
https://dictionary.goo.ne.jp/word/友達

メインの解説では、

"互いに心を許し合って、対等に交わっている人。一緒に遊んだりしゃべったりする親しい人。友人。朋友 (ほうゆう) 。友。「友達になる」「遊び友達」「飲み友達」"

とある。
うーん、色々突っ込みたい。

goo辞書[友達]にツッコミを入れてみる

『互いに心を許し合って』
...どの辺りのレベルまで心を許し合うのか、その基準への解釈が難しいところだ。
私の解釈だと、100%に近いレベルでないと心を許し合うと言えないのだが、人によっては50%、中には10%でも「その関係に必要な部分だけで良くない?」なんて言う人も居ると思う。たとえば「趣味の友達に、過去や家庭の部分まで話す必要ないじゃん」とか。

言っていることはわかる。が、それなら友達ではなく趣味仲間じゃない?と思ってしまうわけだ。
...いまこの瞬間、我ながら自分の面倒くささに若干気付いたところもあるが、敢えてそこには蓋をして先に進める。

『対等に交わっている人』
学生時代はいざ知らず、社会に出てからの交友関係はマウンティングの取り合いである。上下関係ではないが、優位劣位の序列を付けたがる人間が多いと思っている。もちろん私も他人と接している時に、自身の思考にそれがあることにハッと気付くことがあるので、『対等』ってなんだろう?と考えてしまうのである。
私はマウンティングの気配を感じると瞬時にセンサーが反応してイラッとしてしまうのだが、イラっとさせられた分を別のマウンティングでお返しすると相手も不快な思いをすることになる。私としては殴られた分を殴り返しているだけで、それでこそ『対等』だと思うのだが、当然ながら傷つけ合うだけなので仲良くはなれない。というかむしろ仲は悪くなる。
ひと昔前の不良漫画ではないが、何かの勘違いで間違えて殴ってしまった相手に「すまん!俺を1発殴ってくれ。それでチャラにしよう」みたいな感じにはならないのである。
まぁ、そもそもは相手が私を殴ったことに気付いていないからなのだが。

...と、辞書の解説でも私が納得出来る答えは無かったのだが、上で挙げたページには続きがある。
ユーザーが思い思いに、自分が考える友達とは何かを投稿しているのだ。
その中から「面白いなあ」と思ったものをいくつかピックアップしてみる。

◆お金も肩も貸してくれる人。
...なるほど。自分は貸さなくてもいいなら私はその人を友達と呼んでもいい。

◆恋人は体を裸にするが、友達は心を裸にする存在。
...恋人には心を裸にしないと?それはセフレなのでは。

◆自分の過ちをそっと指摘してくれる人。つらい時には傍で支え、喜びは共に分かち合える人。
...なんか綺麗にまとめてあってドヤ顔もしくはしたり顔が見えるようだが、これはもはや夫婦とかのレベルなのでは。

◆「元カレ」にも「ちょっと親しい知り合い程度の人」にも使える曖昧で都合のいい言葉。
...これだ!

私なりの結論

奇しくもgoo辞書で答えが見つかった気がする。さすがは辞書である。

『友達』という言葉には定義があって無いようなもので、『「元カレ」にも「ちょっと親しい知り合い程度の人」にも使える曖昧で都合の良い言葉』なのである。

だから私には友達と呼べる人は居ないけれど、私のことを友達と呼ぶ人はいるのは間違いではないのだ。

これまでは、私が友達だと思っていない人から友達と呼ばれると「え、いつ友達になったっけ?」と違和感を感じていたのだが、その人なりの解釈で友達という言葉を使っているだけなんだなと理解した。

が、仮にそのとき、友達だと紹介された第三者から「へぇ友達なんだー?本当に?」と私に向かって確認されたとしたら?

私の答えはこうである。

「んー、知り合い」


思いつくまま、気分の赴くままに書いています。