河本栄得

先日、テレビ朝日系「アンタウォッチマン!」にて伝説の漫才師(河本が早逝したため)ベイブルースの特集をしていました。

ベイブルースに興味のない方、ご存じない方は、これ以下の記事を読むのは時間の無駄と思われます。ご注意ください。

詳細に関してはウィキペディアを貼っておきます。こちらをご参照ください。

90年代前半、ダウンタウンが抜けた吉本若手の劇場「心斎橋筋2丁目劇場」はかつての熱狂が冷め閑古鳥が鳴いている状態でした。

ダウンタウン時代のメンバーの残党である岡けん太・ゆう太(現おかけんた・ゆうた)、まるむし商店、リットン調査団や彼らに続く若手たちが出演していました。
月亭かなめ・ぜんじろう
未来世紀01・02
てぃーあっぷ
ぴのっきを
しましまんず
中田はじめ・圭祐

しかしこれらの中からダウンタウン時代に匹敵するスターの出現やムーブメントが起こることはありませんでした。

潮目が変わったのはNSC7・8期生が2丁目劇場の舞台を踏み始めたころ。
7期の筆頭ベイブルース、トゥナイト(現なるみ)
8期の千原兄弟、スミス夫人(現なだぎ武)
このほか、雨上がり決死隊ら天然素材メンバーも東京の仕事と掛け持ちでたまに2丁目に出演していました。

1992年頃、関西ローカルとはいうものの土曜午後7時というゴールデンタイムに、当時の2丁目メンバーのほとんど(天然素材やなぜか矢野・兵頭はでていなかった)が総出演する「2丁目ワチャチャTV」放送開始。

同時期に放送を開始した関西テレビ「爆笑BOOING」やABC「すんげーBEST10」などもあいまって、関西だけのお笑いブーム、第二次2丁目ブームが来ました。

そのど真ん中にいたのがベイブルース・千原兄弟でした。

ベイブルースはその後、2丁目劇場を卒業し、ホームグラウンドをNGKへ。
テレビのレギュラーも着実に増やし、漫才も実力をつけ、全国区へあと一歩のところまで駆け上がります。

突然の河本の死。その後高山はピン芸人として、一時芸名を「ベイブルース(バカリズムのようなもの)」に変更し、志半ばで早逝した河本の名を世間から忘れられないように努力していました、司令塔を失い今まで自らなにも考えてこなかった高山のメッキははがれ、河本の死からわずか数年でテレビのレギュラーを失います。
和泉修との漫才コンビ「ケツカッチン」結成もさほどはねることもなく今に至ります。

河本が今も生きていたら・・・どうなっていたかはわかりません。

くりぃむしちゅーやさまぁ~ずのようにバラエティのど真ん中にいたかもしれません。その場合は雨上がり決死隊はここまで売れていなかった可能性が高いと思われます。

逆に河本のワンマン振りが亀裂を生み早々に解散していたかもしれません。

当時のネタ自体は今見返しても決して斬新なものでもポップなものでもなく、王道でべたなネタです。しかし河本の勤勉さ・適応力なら時代に合わせた新しい笑いをも吸収していたことでしょう。そこに高山のツッコミが必要なのは間違いありません。

2人が力を合わせて今のテレビ界でど真ん中を闊歩している姿は妄想するよりほかはありません。

期せずして早逝したことにより伝説となったベイブルース。
せめて一瞬でも全国区の芸人でいてほしかったと思っています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?