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「群衆心理と“寄らば大樹の陰”からの脱却」~情報の代謝③(2022.1〜4.10)

「本棚は人を表す」というように、「私の精神は私の取り込んだ情報によってできている」ならば、「食物と同じように、情報も摂取、咀嚼、消化、吸収、排泄といった代謝サイクルを延々と繰り返している」。

結局のところ、常日頃から何を情報源としているか、そこから何を得ているか次第で、私たち一人一人の思想、思考、感情などは変化していきます。


今回も同様に、以下のように情報源をまとめて紹介していきます。

【情報源の名称/媒体(本・映画・アニメ・漫画、web等)】

①簡潔な内容
②おすすめ度(5段階評価)
③その情報を選んだ理由や動機

「少し先の未来の社会情勢を読み解くヒント」になるか否か、それを基準に情報収集をしていますが、たまたまこの記事を読んでくれた方の「コンパスになるもの」があれば良いなと思い、記録を残していきます。


【群衆心理/講談社学術文庫】

①ギュスターヴ・ル・ボン著/櫻井成夫訳
講談社学術文庫『群衆心理』裏表紙 本の要約を引用

民主主義が進展し、「群衆」が歴史をうごかす時代となった19世紀末、フランスの社会心理学者ギュスターヴ・ル・ボンは、心理学の視点に立って群衆の心理を解明しようと試みた。フランス革命やナポレオンの出現などの史実に基づいて「群衆心理」の特徴とその功罪を鋭く分析し、付和雷同など未熟な精神に伴う群集の非合理的な行動に警告を発した。今日の社会心理学の研究発展への道を開いた古典的名著である。

②★★★★☆
内容は学術書であるため、決して読みやすい本ではありません。19世紀末の書物であることから、現代からすると若干差別的な表現も混じっていますが、それを差し引いても★★★★☆です。時間はかかりますが、読むよりも音読をしたほうが内容が頭に入ってくる文章だと思いました。

序論:群衆の時代〜第一編:群衆の精神までの96頁は読んでみる等、自分なりに読めそうな範囲を設定すると良いかもしれません。私がつぶやきで取り上げた範囲も、第一編 第一章 群衆の一般的特徴までです。しかし、その範囲だけでも、十分に示唆のある内容でした。


③『群衆心理』を読むきっかけは、良くも悪くもメディアが「感情を操作して暗示をかける装置」だということを、痛切に実感したからです。

結論から言うと、“メディアの規模によらず” 特定の情報にばかり触れていると、同じような価値観の個人同士が集まって「群衆」を形成する。互いに情報を共有し、共感し合うことで集団精神を強化し合う、と言うことです。

なので、自分にかけられた暗示が弱まったとき、元々がどのような立場であったとしても、いったん集団から離れてみませんか?

これが今回の記事の主題です。


群衆特有の性質を生じさせる3つの原因

では、個人が群衆になり変わるには、どのような原因があるのでしょう。

ル・ボンは3つ提示しています。1つ目が不可抗力、2つ目が精神的感染、3つ目が被暗示性です。

2022年3月6日 19:41
『群衆心理』ギュスターヴ・ル・ボン のメモ⑤
群衆特有の性質を生じさせる3つの原因。1:不可抗力。大勢の中にいる、それだけで本能に負けやすい。2:精神的感染。どんな感情や行為も感染しやすい。3:被暗示性。これが個人の特性とは相反する特性を生じさせる。上述の2は3の結果に過ぎない。

これらをわかりやすく表す事象は、「日本社会におけるマスク着用」ではないでしょうか。

いわゆる同調圧力が不可抗力として働き、互いに暗示をかけあうことで個人の見解を封じ込め、マスクをつけ続けるという行為として精神感染しました。

ここからしばらく、「感情的に一方に偏った意見」を述べたいと思います。部分的には「極論+ステレオタイプ的」にマスクの是非について書いてみます。理由は後ほど述べます。


一億総マスク社会の誕生

いったい、日本社会はいつまでこの「茶番」を続ける気なのでしょうか?
老若男女が春夏秋冬の季節を問わずマスクをし続ける状況など、日本の歴史上初めてのはずです。

個人としてはマスクに対する様々な考え方を持っているはずです。しかし、テレビ、インターネット等々で日本のメディア報道だけを見れば、いまだに外すことのできない空気感が作られています。

その空気感というものも、結局は各自の頭の中にしかない単なる「思い込み」なのですが、人の目が怖い、頭のおかしい人だと思われたくない、あるいは感染したくないから念のため、マスクをしている方が何かと楽だから、そうした人が多いのではないでしょうか。

その結果、一億総マスク社会になってしまいました。

最初は大人たちだけでしたが、今では小さな子供たちもマスク姿が普通になりました。家を一歩でも出たらどこでもマスクをつけないといけない “そんな空気だけ” が蔓延する社会に塗り替えられてしまいました。

一方で、諸外国では “条件付きで” マスク撤廃の動きがすでにあり、政策の転換がなされている国もあります。日本の大手メディアでさえこうした情報を少しずつ報道するようになってきました。

必ずしも欧米諸国に追随する必要はありませんが、いいかげん「現実的な落とし所」を見つける段階に来ているのではないでしょうか。

マスクが相互監視ツールとなり、感染症対策に用いられる制度がアップデートされないから終わらないのです。自分たちで首を絞め続けているだけです。人を守りたいのか、自分たちの作った制度を守りたいのか、どちらなのでしょうか。

いつになったら外せるのか? そういう声も散見されますが、最初から強制ではないのですから、自分で判断すればいいのです。政府や専門家のせいではありません。メディアのせいでもありません。外せないのは自分のせいです。


マスクが生んだ対立と分断

そもそも、従来の日本ならば、マスクの着用の有無など誰も気にも留めていませんでした。一年中、マスクもつけずに風邪の原因となるウィルスに曝露され、ろくに感染症対策もせずにばら撒き続けました。花粉症の人や冬場のインフルエンザが流行る頃、自衛のためにつけていただけです。他人のためではありません。自分のためです。

熱があって体調不良でも、市販の風邪薬や解熱剤を飲んでごまかし、仕事も休まずに勤務していませんでしたか? 他人のことを思うならば休むほうが良いのに、日本社会はそれを是としませんでした。

それが一変して、非着用者が狂人のような扱いをされ、マナーを守らない自分勝手な人だと思われ、すれ違うときに嫌な顔をされるようになりました。

ランニングする人、自転車で移動する人には特に何も感じないのに、自分と同じ速度で街中を歩く人に対しては不快感を示す人を何人も見てきました。
すれ違うときだけ、鼻マスク、顎マスクをやめる人もいます。

おそらく、このような情報が元になっているのでしょう。

不安な気持ちはわかりますが、ただのシュミレーションです。いくらスーパーコンピューターでモデル計算したところで、個人個人の自然免疫はパラメーターに含まれているのでしょうか。


死神は誰か

現実は、より過酷な条件下でも感染しない人が大多数です。それでも感染拡大を抑えるためには仕方がないのでしょうか。感染症終息や治療薬充実までの時間稼ぎなのだとしても、本当にマスクが有効なのだとすれば、これから先も一生つけていなければ筋が通らないと思います。

なぜなら、私たちは生まれてから死ぬまで呼吸をし続けなければいけないからです。息を吸って吐く、ただそれだけでウィルスをばら撒いてきました。無邪気に笑う子供たちでさえ、その一呼吸で家族や見知らぬ誰かを感染させ、自分の知らないところで誰かを死に至らしめているわけです。

未知のウィルスだろうが既知のウィルスだろうが、関係ありません。

私たちは自らの行動によって誰かを助けることもできます。しかし同時に、呼吸をしている限り「誰もが誰かにとっての死神」です。自分にとっての大切な人に、誰かにとっての大切な人に、最後の一撃を与えたのは自分自身かもしれない。それが現実ではありませんか?

私たちは生きているだけで「サイレントキラー=静かな殺し屋」です。メディアや専門家の意見を参考にするのは決して間違ってはいません。賢明な判断だと思います。しかし、外して良いと言われて外すのであれば、外した後に自分の呼吸が致命的な弾丸となっていることも忘れないで下さい。

今まではそんな人命に関わることにすら思いを馳せず、無自覚に呼吸をしながら生きてきました。長生きすればするほど、より多くの人命を奪ってきたとでもいうのでしょうか……違いますよね。

そのような穿った考えに思い至らなくても、マスクをしてもしなくても良い「寛容に生きられる社会」でした。人は呼吸をし続ける限り罪人であり、それに罪の意識を感じるならば、生まれないほうが良いことになってしまいます。行きつくところは「反出生主義」からの「人類の絶滅」です。

なるほど、確かに罪人なのかもしれないと思った方は、それも踏まえてマスクをするかしないか、自分で選べばいいのです。それこそ、専門家が外した方が良いと言っても、自分自身はこういう信念があるから外さない、まだ外さないのかと人から笑われても外さない、そういう筋の通し方自体は、私は好きです。


自分を導く力

私は、この「総マスク社会」は一種の全体主義だと感じています。個人の自由よりも集団の利益を優先する社会。一見すると他者を思いやる社会に見えますが、実態は統制された管理社会に他なりません。飼い慣らされる訓練であり、壮大な社会実験です。

ある一面から見れば、極めて平等な世界とも言えるのかもしれませんが、ここまで来ると異常としか思えません。異常だと思えないのならば、これが日本人の望んだ社会なのでしょう。異常が当たり前になればそれが正常です。

マスクを外すことさえ “自分の意志で選べない” のだとしたら、これが第二次世界大戦後の日本人という民族の国民性=無意識的個性なのだと思いました。メディアから特定の刺激を与えられ、権力の都合のよい方向へ誘導され、与えられた偽りの自由の中で、何も知らずに幸せに生きる社会。

それほどまで、ジョージ・オーウェル『1984』における「戦争は平和なり、自由は隷従なり、無知は力なり」のディストピア世界を目指したいのでしょうか。日本人は意志を持たぬ機械、自動人形になりたいのでしょうか……

2022年3月6日 20:31
『群衆心理』ギュスターヴ・ル・ボン のメモ⑦
群衆中の個人の特性。「意識的個性の消滅、無意識的個性の優勢、暗示と感染とによる感情や観念の同一方向への転換、暗示された観念をただちに行為に移そうとする傾向」群衆中の個人は「自分の意志を持って自分を導く力のなくなった自動人形」となる。

私は基本的に、何かを禁止されたり、命令されたりすることが嫌いなようです。自分の意志を捨て去ってまで何かに屈したくはありません。流れに逆らわずに生きるほうが世渡りは楽だとしても、自分の人生の舵取りは自分で行いたい。だから、マスクを外せる状況では、私はマスクを外します。


狂人とは誰か

さて、マスクの是非については以上になります。マスクが無駄だというデータや根拠も載せず、主観的に感情の赴くままに書いてきました。

上記の流れからいくと、「だからみなさんマスクを外しましょう!」という話になるのですが、本記事の主題はマスクを外すことの是非ではなく「群衆心理」についてです。

私の文章はどうでしたか? “感情的に共感”できましたか?

この際、それはどちらでも良いのですが、いくつかのタイプに分かれたのではないでしょうか?①完全同意、②部分的に極端では?、③その根拠は何?、④それでも私はマスクは必要だと思う、⑤全体主義って陰謀論ですか?、⑤言いたいことがよくわからない、等々です。

私は「一方の群衆」だけを述べたいわけではないのです。マスクの是非で想定した群衆というのは「マスクを外せなくなった日本人」です。しかし「もう一方の群衆」もありますよね。

記事を書いている私、そして私の背後にいるであろう無数の「マスクを外しませんか?」という群衆です。

むしろ私のように「今の日本の状況、おかしいと思いませんか?」という側も、同様に別の群衆心理のコントロール下に巻き込まれていないか、常に内省が必要な段階だと思うのです。

ル・ボンも以下のように述べています。

2022年3月6日 13:27
『群衆心理』ギュスターヴ・ル・ボン のメモ③
「心理的群衆の示す最もきわだった事実は……それを構成する個人の如何を問わず、その生活様式、職業、性格あるいは知力の類似や相違を問わず、単にその個人が群衆になり変わったという事実だけで、その個人に一種の集団精神が与えられるようになる。」
2022年3月6日 13:51
『群衆心理』ギュスターヴ・ル・ボン のメモ④
「知能の点ではたがいにはなはだしく相違する人々でも、往々同様の本能や情欲や感情を持っている。宗教、政治、道徳、愛情、反感など、およそ感情に関する事柄にあっては、最も傑出した人々でも、常人の水準を越えることは極めてまれである。」

マスクに限らず、個人が群衆心理に囚われ、元に戻るきっかけが与えられないとき、その人の生来の性質は影を潜めてしまいます。群衆となれば、性別や年齢、職業、学歴、社会的地位、何も関係がありません。

知能の点では聡明な人であったとしても、感情については常人の水準を超えることは極めてまれだと思うのです。

データや数字、あるいはエビデンス(私はこの言葉は好きではないのですが)、こうした論拠を元に理性的に判断しようとする人でさえ、自分の生き方を支える信念や感情からは逃れられるのでしょうか。理性だけで人間は人間たり得るのでしょうか。

イギリスの知識人であるG・K・チェスタトンは『正統とは何か』という著作の中でこのように述べています。

狂人は正気の人間の感情や愛憎を失っているから、それだけ論理的でありうるのである。実際、この意味では、狂人のことを理性を失った人と言うのは誤解を招く。狂人とは理性を失った人ではない。狂人とは理性以外のあらゆる物を失った人である。

思うに、マスク推奨派もマスク反対派も、極端なタイプは各自が自説を論理的(集団・組織の論理あるいは自分の中だけで)に組み立てているのですが、逆の立場から見ると感情的に理解不能だから狂人に見える、ということのように思えるのです。

どちらも自分は理性的で、自分をコントロールできていると思っていますが、実際にコントロールできているかの有無にかかわらず、周囲の人間にどう見えるのか、どう判断されるかに尽きるのではないでしょうか。

なので、正しさ・善・正義といったものはある一方から見たものでしかなく、人間が判断する以上、最終的には、共通の信念、価値観を有しているかと言う感性や感情面に帰結するのだと思います。

専門家であろうが素人であろうが、世界的大富豪や権力者であろうが、「信念や価値観などを共有・共感したい」というその性質においては「マスクの是非」「ワクチンの是非」「戦争の是非」など立場の違いは関係ない。

一方からは狂っているように見えるだけで、実際は極めて理性的である。それが感情的には理解不能なだけであり、ただ信念が異なるだけなのかもしれません。


結論:大樹の陰から離れてみる

お互いが自分の正しさを主張し続ける限り、行き着くところは「信念」対「信念」の決着のつかない闘いになってしまいます。

というよりも、誰しも信念のせめぎあい、『Ingress』のような陣取りゲームを生まれてから死ぬまで繰り返しているだけなのかもしれません。

その信念の源はどこからきているのでしょうか。自分の中から自然と湧き上がってきたものなのか、それとも求心力のある人や組織を見つけ、そこに集うことで湧き上がってきたものなのか。あるいは、生まれた土地や場所の影響なのか。

私はこれらを「大樹」に例えたいです。

ことわざでは「寄らば大樹の陰」が有名ですね。その意味することは「頼りにするのなら、勢力のある者のほうが安心でき利益もある」ということです。

個人で旗を立てて「ここに集え!」と表明できる「将の器」のような人はまず稀で、大抵は仲間を求めて、大樹にたどり着くのではないでしょうか。

メディア自体が大樹の元に呼び集めるツールだと思うのですが、それが大手マスメディアであろうが、個人ブログであろうが、特定の情報にばかり触れていると、同じような価値観の個人同士が集まって「群衆」を形成します。そして、互いに情報を共有し、共感することで集団精神を強化し合うのではないでしょうか。

最終的には、共通の信念、価値観を有しているかと言う感性や感情面が大事になるので、それに反するものは狂人に見えてしまいます。

つまり、本記事の結論は「寄らば大樹の陰」の状態に気づけたならば、その陰に集まる個人個人は一種の群衆心理が形成されている可能性が高いので、一回その場から離れてみませんか? ということです。

自分が大樹の陰にいるのならば、雨が降っていても日が照っていても、一回離れてみたらもっといい場所が見つかるかもしれません。その樹は前よりも小さいかもしれませんが、元いた樹はシロアリが巣食っていて、見かけよりも弱く、落雷で消失するかもしれません。

自分が選んでいる大樹は本当に安全ですか? もちろん、その樹は今は巨大で安全かもしれませんが、一回、自分の足で別の風景も見てはいかがでしょうか。

さて、私自身も人に偉そうなことばかり言っていないで、大樹の陰から出て、新しい見聞を深めたいと思います。


記事は以上になります。

私は基本的に「今の日本の状況、おかしいと思いませんか?」と思っているからこそ、noteを書いています。動機はそれしかありません。なので、自分の信念の赴くままに記事を書いていくと、どうあがいても偏ります。

本来はそれの方が自分も精神的に楽ですし、読みたい人だけが集まるので誰も困りません。

ただし、そのまま自己主張したとき、共感してくれるのは「私もそう思っていました!」という人たちだけだった。それでは意味がないのです。私が言葉を届けたいのは「私はそんなこと全く考えてもいませんでした」という人たちです。

私は常識や通説に揺さぶりをかけて、対立や分断の外堀を埋めていきたい、ただそれだけです。何か伝わるものが一つでもあったならば幸いです。

長文をお読みいただき、ありがとうございました。


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