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プロローグ メンタルぼろぼろ、借金まみれから4分の3ニートに立ち直るまで

2019年2月、私は京都でプログラマーをしていました。大学入学を機に京都へ来て、そのまま新卒で入った会社です。IT企業にしては(もしかすると世間一般の会社全体のなかでも)ホワイトで、人間関係も悪くはありませんでした。仕事も自分に合っていると感じていました。

それでもなぜでしょう、仕事に行くのが辛くなったのです。もちろん仕事ですから、楽しいことだけでなく嫌なこともあります。中には性格が合わない人も、私のことを嫌いな人もいます。それでも、自分なりに折り合いをつけ、ストレスを解消しているつもりでした。
それでも、私は仕事に行けなくなってしまったのです。朝目が覚めても、ベッドから出られない。一日ご飯を食べなくてもお腹が空かない。お風呂に入るのが面倒くさい。何もやる気が出ない…。当時の私は疲れているのだと思っていましたが、今思えばこれはうつの症状です。

ところで、その頃の私に決定的に足りなかったものがあります。お金です。
大学の奨学金返済に加え、一人暮らしの費用や大学時代に調子に乗って使ったクレジットカードのリボ払いの返済で手一杯で、貯金はゼロ。月々の支払いで、自由に使えるお金は手元にはほとんど残りませんでした。

そんな経済状態のなか、会社を欠勤すればどうなるでしょうか。もちろん収入は減り、生活はさらに厳しくなります。
そのことに悩み、さらに気持ちが落ち込んで、またベッドから起きあがれなくなる…まさに負のループにハマってしまったのです。
親身になって話を聞いてくれる上司はいました。仕事の配置換えや休職を提案してくれたこともありました。
仲のいい同期や後輩もいました。仕事を休みがちになった私を心配してくれました。
それでも、お金のことを相談することはできませんでした。同期や後輩は実家暮らしで、正直金銭感覚が合わないことも多々ありました。いい人たちなので、悪気はないのです。自分勝手な話ですが、その価値観の相違もストレスになっていました。

そんな状態が1ヶ月ほど続き、上司の勧めもあって、ついに私は心療内科を受診しました。そうしてついた診断はうつ病。そうだったのか、とその事実はすとんと私の心に落ちてきました。
病気だと分かったら気持ちが楽になったとかそういうことはなく、問題は解決されていないままです。薬を飲み始めたとはいえ効果はすぐに出るわけでもなく、これからどうしよう、というのが正直な思いでした。

私は京都が大好きなので、京都に残るためにいろいろな方法を考えました。第一に思いついたのは休職です。医師もそれを提案してくれました。しかし問題は、その間の生活費です。貯金はなく、健康保険の傷病手当金は申請してから振り込まれるまでが結構長いと聞きました。ギリギリの生活をしていた私には、リスクが大きすぎました。
次に考えたのは、生活保護を受けることです。これは社会福祉協議会に相談に行った時に勧められました。私はそれもありだと思いましたが、一方でそこまでして京都に残る理由はあるのか、という思いもありました。
ここまで来て実家に頼るという選択肢が出てこないのは、実家との折り合いが悪かったからではありません。頼るのが申しわけなかったからです。大学時代からお金にルーズだった私は、度々実家にお金を無心していました。基本的に仕送りはなしだという約束をしていたにも関わらず。社会人になってからもそういったことが数度あったので、流石にバツが悪くてお金のことを相談できませんでした。ちょうどその頃、家族の病気で実家も金銭的に困窮していたのです。
自分のうつ病のことは報告していました。その時に帰っておいで、と言われたのですが、私は実家は好きでも地元は大嫌いです。帰る帰らないの問答は何回も続きました。
そうして悩んでいる間にも時間は刻一刻とすぎていきます。仕事には行けない、お金もない、解決する手立てもない、八方塞がりです。

もう長野に帰ろうかな(長野と聞くと観光地でいいところ、のイメージが強いですが、私の地元は観光資源もないただただ山があるだけの田舎です)、と私の心は傾きかけていました。いよいよ生活が厳しくなってきたのです。
金銭的に楽になりたいという気持ちも強くなっていました。実家に帰れば、迷惑はかけてしまうけれど家賃や光熱費のことを気にしなくて済むのです。多少の不便(最寄り駅まで歩いて行けない、車がないとどこへも行けない、遊べる場所もない)には目を瞑って、もう全部捨てて帰っちゃおうかな、と私の心は決まりかけていました。それでも帰る、の一言のメッセージが送れないまま、踏ん切りがつかずにいました。
そんな私の心が決まったのは、久しぶりに大学時代の友達に会いに行くために乗った阪急電車の中でした。
きっかけは何だったのか分かりません。ただ、烏丸駅から梅田行きの小豆色の車両に乗り込んで、座って一息ついた時でした。気がつけば私は母に、長野に帰るというメッセージを送信していました。

そして2019年7月。私は、6年ぶりに実家の長野へと居を移したのです。

それから約1年半とほんのちょっと。
メンタルはぼろぼろ、借金まみれ、親に迷惑をかけまくりのドクズだった私が、純ニートから4分の3ニートくらいまで立ち直った過程を、少しずつ振り返っていきたいと思います。そして、これからのことと向き合います。

長いプロローグにお付き合いいただきありがとうございました。
もしよろしければ、私の拙い話にお時間を割いていただけますと幸いです。
更新はきっと亀のようですので、思い出した時にふらっと訪れて、お目を通してくだされば嬉しいです。

どうぞよろしくお願いいたします。


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