ソ連と言っても広うござんす

 ソ連を題材にした記事を書くにあたり、毎回、もどかしく思っていることがある。今更感MAXだが、それは、「そもそもソ連って何だ?」という疑問だ。御承知の通り、ソ連とは(最終的には)15の共和国で構成された国家であり、広大な面積に100を超す民族が暮らしていた。

 国内の往来は様々に制約されていたため(プロピスカと呼ばれる住民登録制度など)、各共和国における民族構成の均質化は起きていない。ソ連時代を通して、各共和国では共通言語としてのロシア語教育が推進されてきたが、民族語の教育も残るなど、言語的同化は限定的なものに留まった。民族主義やソビエト体制への反抗に繋がらない限り、各民族の文化は保護の対象でもあった。同じソ連でも、所違えば民族も言語も文化も全く違ったのである。

 さらに、巨大な国土と厳しい気候故の輸送効率の悪さを考慮しても、輸送網の貧弱さは明らかだった。加えて、鉄道や水運に携わる職員による貨物や部品の窃盗は常態化し、経済的損失の甚大さは中央でも認識されるほどであったが、ついに解決には至らなかった。こうした事情がソ連の国内流通に与えた影響は極めて深刻と言える。

 大都市圏でもモノ不足は目立っていたが、それでもなお、地方と大都市の格差は歴然としていた。地方からモスクワなどの大都市圏への出張は「買い物旅行」を兼ねるのが常であったあたり、地方の物資不足の深刻さがうかがえよう。

 商品が消費者の生活圏に移動するのではなく、消費者が商品を求めて右往左往していたのである。

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 1974年、ロープウェイからトビリシを一望する

 すなわち、「ソ連で流行」「ソ連で大ヒット」などと書く場合、それがどの範囲を指すのか。ソ連全土なのか、ロシア共和国内なのか、ソ連の大都市圏なのか、モスクワとレニングラードなどのソ連西部の大都市なのか、実は不明瞭なのである。

 各構成共和国のソ連時代の写真を見ると、都市計画や建築には類似性が見られ、ソ連製の同じ自動車が走り、ロシア語の看板やスローガンが見られる。その一方、特に中央アジアの都市では、道行く人々の装いには各民族の特徴が見られる。生活スタイルや生活物資、生活文化がソ連の各地域でどの程度共通し、どの程度の差異があったかを知るのは容易ではない。

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1982年、サマルカンド観光のスナップ。現地の人の装いは民族色が強い

 私が記事で、例えば「ソ連で流行した○○」ないし「○○がソ連市民に歓迎された」と書いている場合、それは、多くのケースではあくまで「主にソ連邦の構成共和国の1つであるロシア共和国内でのこと」なのかもしれない。私が参考にしているロシア語の文献も、同じ罠にはまって相当に狭い範囲のソ連を描写している可能性もある。

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1974年、エレバン

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2枚とも1974年、トビリシからエレバンへの道中

 こうしたもどかしさを感じながら、色々と記事を書いている。

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