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サイクル安打超え ~サイクル安打の認知と定着~

1965年8月8日、近鉄対南海のダブルヘッダーが日本生命球場で開催された。当時の南海は2位東映に23.5ゲーム差の大独走首位、それが10連敗中の最下位近鉄に負けてしまうという一幕があった前日に比べれば、この日の第1試合はさすがに相場どおりの展開となった。

1回表、南海は先頭の堀込基明がヒット、樋口正蔵は倒れたが、ここから広瀬叔功が右中間へ、野村克也がレフトへ、ハドリが左中間へ、3連続二塁打でいきなり3点を先制して近鉄の先発山本重政をわずか13球でノックアウト。
代わった田辺修に対して小池兼司四球、森下整鎮凡退の後、国貞泰汎がヒットでもう1点、投手の森中千香良が二塁打でとどめの2点、打者一巡の計6点ではいきなり試合が決まった感があった。

その後も南海は田辺を攻め、2回には三塁打の広瀬が野村の内野ゴロの間に還って1点、5回は広瀬、6回は国貞がそれぞれ本塁打で1点ずつ、とどめは9回、板東里視から広瀬の適時打と野村の犠飛で2点を加えてトータル11点、森中も4失点したが難なく完投して11-4の快勝劇となった。

経緯を見るとわかるとおり、この試合では広瀬が1回二塁打、2回三塁打、5回本塁打と放って、あとシングルヒット1本でサイクル安打達成という状況になっている。
そして迎えた7回の4打席目は凡退したが、9回は何ら気にしないかのように三塁打をかっ飛ばし、サイクル安打を上回る結果を残したのだった。
記録に執着しなかった広瀬の職人肌からして、当たりが良ければ一塁で止まる気などさらさらなかったであろうし、4安打全てが得点に結びついていたところに本人は満足していたのではないだろうか。

翌日の新聞では、第2試合で野村が通算300号本塁打を打った話題が大きく取り上げられた。広瀬の成績は、サイクル安打を達成したわけではないから当然大きく取り上げられることはなく、「広瀬12塁打」「広瀬、大あばれ」という小見出しぐらいであとは試合経過を報じた中に揮った打棒を拾えるのみであった。

この広瀬のように、三種類をそろえた場面でそれ以上の当たりを放つ「サイクル安打超え」とでも呼ぶべきケースは他にもいろいろあるが、そのほとんどが2本目の本塁打を放ったケースであり、インフィールドの当たりで次の塁まで取ってしまったのは広瀬以外で知られているのは今のところ4例だけである。


中島治康は1940年5月24日の巨人対セネタース3回戦で、最初の打席は凡退したが2打席目の4回に2ランを叩き込むと、5回は二塁打、7回は三塁打と打ってサイクル安打にリーチを掛けての9回、ヒットが右中間に飛んだのを見て二塁まで走りサイクル安打超えとなった。なお中島は1938年にも三塁打を残して本塁打を放つというサイクル安打超えをやっている。

杉浦清は1946年9月7日の中部日本対ゴールドスター13回戦に先発、2回にソロ本塁打、4回に単打を放った。8回までに、杉浦が打ったヒットはこの2本だけだったが2回の本塁打で火がついた打線は8得点、だがそれすらも長い導火線とばかり、9回にもう8点を追加する爆発を見せた。
その中で杉浦は爆発の口火を切る三塁打を打ってあとは二塁打を残すだけ、打者一巡でもう一度打席を迎えたチャンスになんと2本目の三塁打、サイクル安打を超えた上に1イニング2三塁打の日本タイ記録とした。

阪神にいたウインは1991年5月19日の対中日9回戦で、2回にレフトへ二塁打、3回に2ラン、5回にライトへ三塁打と大当たり、チームも5-3とリードしていよいよ記録のかかる4打席目、打球が一塁線を抜いたので思わず一塁を蹴って適時二塁打とした。
阪神は前日まで8連敗、ここで負けて9連敗となれば不名誉な球団タイ記録となっていただけに、勝利に貢献したこの日のウインは阪神の救世主となった。

直近で最後の達成者である松井秀喜は2001年5月23日の巨人対ヤクルト8回戦で、1回は凡退したものの3回に2ラン、5回に三塁打、7回に二塁打を放ってあとはシングルヒットだけとして迎えた8回、良い当たりを迷わず二塁打とした。続く清原和博の二塁打でホームを踏めたのは二塁まで走ったおかげ、これで2点差に追い上げたものの結局届かず敗戦となった。

試合後、松井は「もちろん知っていた。でも、あそこは二塁に行かないと」(毎日新聞)、またウインは「記録は知ってたけど、チームが勝たなきゃ、ナンにもならない。あの打球で止まったら、逆に怒られるよ。」(週刊ベースボール)とコメントしている。
いずれもサイクル安打を意識しつつも、記録よりも勝利を優先してサイクル安打を上回る結果を残したものであった。そのため新聞や雑誌でも取り上げられ、今に至るまで人に知られる記録となっている。

表4-1 サイクル安打超えを達成した選手

広瀬以前の2人は戦前戦後の資料の少ない時期でもありコメントは伝わっていないが、広瀬の時も同様にコメントが残っていない。おかげでこの記録も同様に歴史に埋もれてしまっていたわけだが、ここに一つ疑問が残った。


1965年7月16日に阪急のスペンサーがサイクル安打を達成した。試合後、阪急勝利の立役者として報道陣に囲まれて取材を受けていたが、誰もサイクル安打の達成について触れてこない。
スペンサーが「どうしてサイクルヒットのことを聞かないのか」と尋ねたのだが、何故なら実は当時の日本にはサイクル安打という概念自体がなく、記録のことを誰も知らないがためであった。
これをきっかけに稀少価値の高い記録だということが理解され、遡及して達成者を調べ、また表彰もされるようになった。

以上のエピソードが千葉功(『週刊ベースボール』1978年6月12日号など)や宇佐美徹也(『プロ野球記録大鑑』など)によって伝えられており、したがってこの1965年7月16日は日本にサイクル安打という概念が定着した日であり、これ以後サイクル安打の概念が広まっていった、というのが巷間の定説となっている。

ところで、上述広瀬の記録はその記念すべき試合からわずか3週間後のことである。それならもう少しサイクル安打とからめて取り上げられていてもよかったのではないか、というのがその疑問であった。


これについて千葉は、サイクルヒットという言葉はスペンサーの達成でも「すべての紙上ですぐにも活字になったわけでもなく、まだなじみの薄いものだった」としている(『週刊ベースボール』1981年6月15日号)。

千葉は続けて、読売新聞では1971年にサイクルヒットがようやく活字になって、「『大リーグでもサイクルヒットといわれるめずらしいもの』との記事が出ており、サイクルヒットはやっと”市民権”を得たのである」と述べている。

ところがその10年後、千葉は『週刊ベースボール』1991年6月17日号で、1968年に「報知新聞紙上に『(スペンサー以来)両リーグを通じて約3年ぶりのサイクルヒットをマーク』という記事が現れ、ようやく日本でも"市民権"を得たのだった」としている。

千葉は、新聞紙上にサイクルヒットが活字として現れたことを以って「市民権」を得た、と評価していることがわかる。またこれを、スペンサーの時にはサイクル安打はまだ「市民権」を得ておらなかった、と捉えれば、広瀬の記録に対する私の疑問への答えともなる。
だがその「市民権」を得た時期について、千葉をして10年かけてようやく3年遡る記事を見つけしめたことからして、千葉の調査は決して網羅的になされていないのではないか、とも考えられる。

そこで、改めて当時の新聞等を調べてみることにした。対象にしたのは一般紙5紙(毎日新聞・朝日新聞・サンケイ新聞・読売新聞・日本経済新聞)、スポーツ紙4紙(スポーツニッポン・日刊スポーツ・サンケイスポーツ・報知新聞)並びに雑誌1誌(週刊ベースボール)である。
また達成状況により、地方発行のスポーツ紙(デイリースポーツ・西日本スポーツ)も確認した。なお本稿ではしばしば紙名を「日経」「スポニチ」「日刊」「サンスポ」「デイリー」「西スポ」と略記するのでご了承願いたい。


スペンサーの記録達成の翌日、7月17日の一般紙には「スペンサー 老巧の三塁打」「スペンサー25号 近鉄にサヨナラ勝ち」といった見出しが躍っているが、この試合で達成された米田の通算2000奪三振は別記事にされているものの、サイクル安打は記事になるどころか、「サイクル」という単語すら、本文にも周囲にもまるで現れない。
すなわち一般紙でサイクル安打ということに触れたものはゼロであった。

スポーツ紙でも、サイクル安打を記事で明言したのはスポーツニッポンと地元のデイリースポーツだけである。

デイリーでは「初のサイクル安打」という見出しで記事を設け、「ホームランからシングルまで各一本ずつ。サイクル安打といわれるやつだ」という、既にちょっとお馴染みであるかのような書きぶり、スペンサーのコメントとして「長い野球生活だが、シングルからホームランまで一本ずつ打ったのは初めて」となっている。

デイリーの書きぶりも若干あいまいな部分があるが、スポーツニッポンになるともう少し怪しさを増す。「恩師の来日で発奮 サイクル安打で大暴れ」という記事の一部を引用すると、「ところでこの日のスペンサーにはサイクル安打というおまけまでついた。一回三塁内野安打、五回右中間本塁打、七回左中間二塁打、十二回左中間三塁打というのがその内容である」となっている。
余談だがこの見出しの「恩師」とは当時解説者だったレオ・ドローチャーのことである。

サイクル安打とは4種類の安打を1試合で記録すること、という要点がデイリーでもスポニチでも曖昧なままであり、スポニチに「オレは幸運だった」とコメントしたスペンサーの喜びを記者らがどれだけ把握できたものか、少し疑われる。

このように、紙面でサイクル安打に触れた2紙でもこの程度である。それでも、他のスポーツ紙の記述と比べてみると、これでまだ非常にマシな記事だったことが分かる。

報知新聞ではスペンサーのコメントは「シングル(安打)ダブル(二塁打)トリプル(三塁打)ホームラン。一試合に塁打全部の記録は長い野球生活で初めてだからね。最高にいい気持ち」とあり、日刊スポーツでは「10塁打。シングル、二塁打、三塁打、本塁打。」とだけ書いている。
いずれも4種類の安打を放ったことには触れているものの、単に猛打をふるったという程度の記述であり、それがサイクル安打と呼ばれるものと記者らが認識していた感じは当然伝わってこない。

まぁスポーツ2紙には活字になったので、千葉がこれを知ったならば「スペンサーの時点で"市民権"を得ていたのだ」と言うかもしれない。しかし記事の表現を総合的に検討すれば、スペンサーが説明したくらいでは当時の記者にはサイクル安打の内容や価値がピンとこなかったことが読み取れる。
パリーグ記録部にいた千葉はさすがにハッとしたかもしれないが、記者の理解具合がこれでは、この時読者一般に話が広まらなかったのも無理はなく、今日言われるような「概念が定着した」状況とまではとても言えなかったということである。


スペンサーの次に達成したのは3年後、1968年5月28日の和田博実だったが、翌日のスポーツ紙でサイクル安打としてこれを取り上げたのは千葉の挙げた報知新聞だけだった。それも試合経過の本文中にさっと触れただけで、見出しや別記事などは一切なかった。そういう意味ではスペンサーの時よりむしろ後退している。

地元の西日本スポーツは4種の安打が揃っていたことを小記事にして指摘している。特に、ライトへ飛んだ打球がブルペンに飛び込んだため三塁に達していた和田が二塁に戻されてエンタイトル二塁打になっており、このおかげで4種類揃ったという細かな事情を伝えているのは、さすが地元紙というところである。
ただ、これがサイクル安打であるということには触れておらず、これではスペンサーの時の報知新聞や日刊スポーツと変わりはない。

それ以外では、サンケイスポーツは「猛打記録」の小欄を設けて4打席の内容を克明に記しているが、やはりサイクル安打という言葉は一切出てこない。
日刊スポーツは「当たり屋和田」「5号含む10割」という表現程度、そしてスペンサーの時に記事にしたスポーツニッポンに至っては試合経過の本文で和田の各打席に触れた以外一切記述がない。これはデイリースポーツでも同様である。

スポーツ紙でこの状況だから一般紙など到底、と思いきや、唯一サンケイ新聞だけが和田の記録に触れていた。試合結果とは別に小さな記事内で「単打から本塁打まで各1本ずつというめずらしい記録」としており、「こんなことは初めて。一本ずつというのはあまり聞いたこともない。マージャンでいったら国士無双というところかな」という和田のコメントを載せている。

もっともサイクル安打という単語については全く出てこず、代わりに使われたフレーズが「安打の百貨店」であった。多彩なことを「○○のデパート」というのは平成までしばしば見られた表現だが、サイクル安打の和製フレーズとしては上出来の部類であろう。
ちなみに西日本スポーツは小記事のタイトルを「和田、ヒットの見本市」としている。当時九州で大きな見本市があったのかもしれないが、個人の感想としては「安打の百貨店」に軍配が上がる。

新聞でもほとんど注目されていなかったのだが、これを書籍雑誌の類に広げてみても、サイクル安打に一つも触れないケースが見つかるばかりである。

例えば記録達成時の話題を載せた当時の週刊ベースボール各号にも和田の記事はなかった(スペンサーの時もなかった)。年末に「記録の手帖・特別シリーズ 十二球団六八年の反省」というシリーズの一環で西鉄ライオンズも取り上げられたが、1年間のトピックスの欄には4月20日の高木喬の1試合4四球というパ・タイ記録や5月31日の和田の通算1000安打は記載があるものの、その間に記録されたサイクル安打は記載がない。

遡るが同じベースボールマガジン社が1965年11月に発行した「戦後二十年プロ野球の歩み」でも、発行年のことにも関わらずスペンサーのサイクル安打についての記述はなかった。
それどころか、同社の発行にしてプロフェッショナル・ベースボールコミッショナー編纂という「オフィシャルベースボール・ガイド」でも、スペンサーの時も和田の時も、一言もサイクル安打についての言及はなかった。

スポーツ紙の取り上げ具合のムラ、またその「安打の百貨店」などというフレーズが併用され「サイクル安打」という言葉があまり使われていなかった状況、専門誌どころかオフィシャルと銘打つ資料のトピックにもならなかった話題性、そして何より和田のコメントにあるような選手ら自身の認識からして、和田の達成時点でもまだまだサイクル安打が日本に定着していたとは言い難く、ようやく少しずつ話題として取り上げられることも出てきた、という状況であったといえる。


次いで山崎裕之が達成したのが1971年8月14日、スペンサーから6年後のことである。スポーツ紙ではサンケイスポーツだけ確認できないが、他の3紙は大小あれどもすべて別記事を立てている。一般紙でもサンケイ新聞のほか、読売新聞と日本経済新聞にも試合結果とは別に小さな記事で掲載された。
しかし日経では表記がなんと「サークルヒット」であった。サイクルとサークルは当然異なる単語だから、これを表記の揺れと見るよりは、そもそもの記者の理解度の浅さと見るほうが妥当であろう。

一方で読売新聞の記事は千葉の記すとおりで、ようやくこの辺りで"市民権"を得た、と言いたくなる気持ちも分からなくもないが、この記事には興味深い点が3つある。
一つは記事の見出しが「山崎、8人目の珍記録」であること、一つは山崎のコメントが「記録ということは知らなかったが、おもしろいことになると思って第四打席では、どうか長打にならないでくれ」と書かれていること、もう一つは見出しの他本文中にも「日本ではこの山崎でプロ史上8人目とのこと」とあるように、これが8人目とされていることである。

一点目は「珍記録」という表現で、珍奇か珍重か、ニュアンスでまた変わる部分もあるだろうが、今日サイクル安打について言及する際に珍記録とは書かないであろう。あくまで当時はそういう扱いでもあった、ということである。他紙にも「珍記録」という表現は多い中、最も詳細に報じた報知新聞では「大リーグでは「サイクル・ヒット」と呼んで珍重している」と書いている。

二点目については、和田の時と同様まだまだ選手にも浸透しきっていなかったという点である。山崎のコメントについて他紙と比べてみると、日刊が「4打席目は、ここでヒットが出れば面白いな、深くも考えないで打った」、スポニチは八人目の達成と聞いて「そりゃいい思い出になる。順々に出たので面白いなと思い、七回は初めから単打をねらった」となっている。
またサンケイ新聞では「球史に残ることなんですか」と記者に聞き返しており、これらを総合しても山崎自身にサイクル安打への認識がちゃんとあったとは思えない。山崎だけでなく周囲の選手も、おそらく知らなかったのではないか。

三点目については、現在、山崎は25人目の26回目、パリーグでも13回目の記録とされている。8人目という数字についてはサンケイとスポニチにも記述があり、後者には「二十八年原田(中)二十九年大下弘(映)三十二年葛城(毎)三十七年前田益(中)三十八年王(巨)四十年スペンサー(急)四十三年和田(西)」と書かれている。
この記事の時点、つまりスペンサーの達成から6年後でさえ、過去の達成者の調査は継続中であったことが窺われるのである。

また報知には「3年ぶりに9人目」「二リーグ制以後を見ても山崎で九人目」とあるし、日数を置いてから発売された週刊ベースボールの9月6日号には「一リーグ時代はたった二人で、セ・リーグで三人、パで五人目という、非常に珍しい記録なのである」とある。
報知にある9人の内訳は不明だが、週刊ベースボールではスポニチの達成者に加えて藤村富美男と金田正泰が紹介されている。ただし藤村は昭和23年のほうの記録だけである。

このように、この時点でようやくサイクル安打についての認知や報道が広まってきた状況が窺える。それでも日経のような間違いもあり、また一般紙が揃って記事にするという状態にはまだ至っていないわけで、途上という言葉がしっくりくるような状況であったと言えるだろう。


続いては弘田澄男が1973年7月11日に達成したが、この試合でロッテが8-9で負けた結果南海の前期優勝が決まったため、翌日の紙面はロッテの激闘や南海の喜びなどあふれる話題で記事が埋まってしまった。
それでもようやくスポーツ4紙全てにサイクル安打の記事が載り、弘田のコメントも紹介されるなど、少なくとも野球に興味のある向きには完全に定着したといっていいだろう。

一方一般紙では、読売新聞で弘田のサイクルヒット達成の記事が掲載され、また朝日新聞では「(本塁打、三塁打、二塁打、単打のサイクルヒットを記録)」と前置きした上で「サイクルヒットと言われても負けてはうれしくない」という弘田のコメントを載せている。
だがこれ以外の各紙にはまたも言及がなかった。

なおこの時の読売には弘田の記録が「パ・リーグ6人目。一リーグ時代から通算12人目。」と書かれており、スポーツ4紙もそろって6人目の12人目としている。弘田は27回目(26人目)、パリーグ14回目の記録なわけで、山崎の記録から2年の間に新たに1人が判明しているものの、依然1リーグ時代はおろかパリーグ発足後の記録も調査中であったということが分かる。

余談だが、この1人は日刊スポーツには「二十六年大沢(大洋)」とあり大沢伸夫のことであると考えられるが、実際には大沢はサイクル安打を達成したことがない。8月26日の試合で6打数6安打、単打3本二塁打1本に本塁打2本というのがあり、これが誤認されたのだろうか。
なおこの試合では安居玉一も6打数4安打、これが二塁打三塁打各1本に本塁打2本で、1試合で2人もサイクル安打超えが出た試合であった。


山崎、弘田に続いて1976年4月17日にサイクル安打を達成したのはまたもロッテの得津高宏だったが、この時は全ての一般紙で紹介された。それもスポーツ面中最も大きな見出しであったり、別途コラムを設けたりと、弘田までの達成時と比べてもはるかに大きな扱いであった。

朝日新聞には得津が第3打席で三塁打を放ちあと本塁打だけとなったときに「ベンチからは「ひょっとしたらサイクルができるかも」の声が出た」、また日本経済新聞には「サイクルのことはベンチで兆治(村田)と話し合っていたから知っていた」という得津のコメントが書かれているように、選手たちが試合中リアルタイムで意識していた、すなわち選手間に認識が定着していた様子が確認できる。

最もこの時のロッテベンチには先達の山崎も弘田もいたわけで、これだけだとロッテというチーム特有の状況と言うことも考えられるが、そうではない。

この年7月に衣笠祥雄と若松勉が相次いで達成した場面でも、「五回に二塁打したとき、あ、これであと三塁打すればサイクルになる」と思ったという衣笠のコメント(読売新聞)や、最後の二塁打を放って二塁塁上で珍しくバンザイをしたという若松(朝日)のように、サイクル安打の認識はチームによらず選手間に定着していたのは間違いない。

表4-2 サイクル安打達成者(本稿の範囲まで)

ここに至ってようやく、新聞記者にも世間一般にも、また選手たちの間にも広くサイクル安打というものが認識され定着したといってよいだろう。サイクル安打が定着するのに、スペンサー以降10年の年月を要した、とも言えるかもしれないが、実はこの間に、定着に大きな役割を果たしたもう一つの出来事があった。


1975年8月10日、全国高等学校野球選手権大会、すなわち「夏の甲子園」は大会第3日目、2回戦の土佐高校対桂高校戦で土佐高の玉川寿がサイクル安打を達成した。全国的に注目を集める高校野球だけに、このことは全ての一般紙で大見出しを付けて報道された。得津の前年のできごとである。

毎日新聞には「ファンもこの打席で単打が出ればサイクルヒットが実現することを知っていた」という記述がある。達成した玉川のコメントは「試合が終わるまでサイクルヒットのことは知りませんでした」、対戦した桂の投手今泉のコメントは「最後にシングルを打たれればサイクルヒットになるのは知ってました。これでやられるのは二度目ですよ」というものだった。

また朝日新聞は2年前に弘田の達成を紹介していたが、今回はより多方面の読者を意識したものか、改めてサイクル安打についての説明を設けている。これによると「一人の打者が同一試合で単打、二塁打、三塁打、本塁打のすべてを打つことで「循環打」ともいう」となっている。
循環打はさすがに固すぎて表現として「安打の百貨店」に遠く及ばず、果たして実際に使われたことがあったのだろうかと思わせられる。

それはさておき朝日では玉川のコメントが「甲子園でこんな大記録をつくれるとは思わなかった。うれしいです」となっている。
毎日、朝日、日経が今回書いた記事が、3紙が過去にサイクル安打に触れたどの記事よりも分量が多かった事実を見ても、インタビューを通じて周囲に騒がれた玉川が、サイクル安打を「珍記録」ではなく「大記録」なのだと認識したのではないだろうか。そしてこの認識の変化が、新聞を通じて国民にも普及していったことが、サイクル安打の定着に大きな役割を果たしたのではないか。

なおもう二つの点について指摘しておきたい。一つは、夏の甲子園では玉川が史上2人目で最初の記録は昭和24年の大会だったことについて各紙が触れている点である。この時点までに、高校野球においても記録の整理や再確認が行われていたようである。

もう一つは新聞とテレビのギャップである。(筆者注:資料紛失のため見せ消しとします)いずれも後年のインタビューであるが、玉川は「試合後のインタビューでもホームランに関しては聞かれましたが、サイクルヒットという言葉は最後まで出てきませんでした」と証言している。
また
NHKアナウンサーの小野塚康之は後年の記事で「テレビ中継はボーっと見ていたので記憶は定かでないが『サイクルヒット達成』のアナウンスはなかったような気がした。試合後のインタビューでもそのことに触れてなかった。」としている(「縦断高校野球列島(40)~高知県~」(zakzak by 夕刊フジ、2021)。
この時点にあっても、新聞記者は知っていたがテレビのインタビュアーは知らなかった、という状況がうかがえる。


以上のように各種媒体からサイクル安打の歴史を見てきたわけであるが、日本におけるサイクル安打の認知がスペンサーの達成に始まることは否定しないが、その定着に関しては玉川が達成し各紙に大きく取り上げられたことのほうが最も貢献したのだと筆者は考える。
もちろん、そこに至る9年という年月の醸成と、その間に行われた記録関係者の地道な調査が下地にあったことも間違いないだろう。

それにしても一般紙すべてで大々的にサイクル安打が取り上げられたのがプロ野球ではなく高校野球での達成であったことは、当時を知らずにプロの記録を追う者にとっては盲点になるのかもしれない。

スペンサーの記録達成すら当時としてはあまり話題にならなかったサイクル安打、いわんや広瀬の記録に於いておや、であった。


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