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肌感覚としてトランスジェンダーの主張にはついていけないフツーの私が思うこと

<性同一性障害のことだとずっと思っていた>
私には難しいことはわかりませんが、肌感覚としてトランスジェンダーの主張にはついていけません。トランスジェンダーってどういう人たち? 体と心の性が一致しないってどういうこと?
私はずっと性同一性障害のことだと思っていました。死にたいほどの苦痛があるとのこと。ならば性を変えることでその苦痛が和らぐのなら、それは必要なことではないかと。ただ、その苦痛とは、男(女)になりたいということではなく、とにかくこの体をどうにかしてくれ、というものなのだということも最近知りました。
でもその苦痛の原因は、脳の認知機能の問題だけでなく、過去の暴力や虐待によるトラウマや女性(男性)として生きづらい世の中への抵抗や発達障害などもあり、単に性を変えることだけが解決では無いことを知りました。


<「女の心」がどういうものか、女の私にもわからないのに>
次に、体の違和感はないけど心の性とは一致しない人がいるということ。いわゆる「性自認」という言葉を初めて知りました。男の体に違和感はないけど心は女だ、と。そういう人もトランスジェンダーなのだそうです。ここから私の疑問は始まりました。なぜなら、「女の心」というものがどういうものか、女を自認している私にもわからないからです。どうして男の体に違和感のない人が「女の心」を自覚できるのか。
一般的に「男性性」や「女性性」というものはあると私は思います。それは生物としての性と合わせて社会的、文化的にも作られた性なので、個人差はあれ男も女も両方を内在化しているものだと思います。でも個人の「心」というものが、「男」や「女」のそれだと、いったい誰が判断できるのか、その基準はどういうものか、未だにそれがわかる指標が見つかりません。どなたか、「女の心」の定義がわかる方は教えてください。


<「女として扱われたい」とは、女性の受ける苦痛や差別やタダ働きを体験したいということ?>
次にわからないのが、男の体に違和感のない方が「女として扱われたい」ということ。どのように扱われたら「女」として満足なさるのか。家事労働や育児・介護を強制されること、低賃金・非正規・昇級なし、常に性的な眼差しや性暴力の危険にさらされていること、生理痛や排卵痛などで月の1/3は苦痛であること、私たちにとって「女として生きる」とはそういう日々を過ごすことなのですが、そうしたいのでしょうか。


<心で思うのは自由だけど、他の人に認めてもらうには確かな指標が必要では?>
「自分が何者であるか」を本人が心で思うことは無限大に自由であり、他者もそれは否定せず、尊重すべきだと思います。しかし、「あなたは確かに何者である」と他者に認めてもらうには客観的・科学的な、誰もが同意・納得できる指標が必要なはずです。「心」は指標になりえるのでしょうか。


<性別二元論が間違いってどういうこと?人間は有性生殖ではないという新発見があった?>
「性別二元論は間違い」というのがまたわかりません。私は高校生物は全く苦手でしたが、「有性生物はオスとメスの二種類の性からできている」ということは理解していたつもりです。単純にそれが性別二元論だと思っていました。それが間違いというのは、どういうことなのか。「性別二元論が人々を生きづらくさせている。だから反対」というのは、「オス・メスをなくしたら生きやすくなる」ということでしょうか。オス・メスをなくすってどうするのか、精子と卵子をなくすのか、生殖行動は変わるのか・・・? そもそも、自然の現象に賛成、反対って、生物学に何か新しい発見でもあったのか? オスはオスのままで、メスはメスのままで、それぞれ多様な生き方が認められる、というのが私にはわかりやすいし、納得できます。「二元論」を否定することは、人間も自然の一部であることを否定することだと思うのですが、どうなのでしょう。


<「人権」や「平等」とだけ言われたらひれ伏すしかない。ちゃんとした言葉で伝えて>
毎日の生活に精一杯の、「普通の女性」は小難しい理論や情報に接する機会はほとんどないし、理解力もありません。「人権」や「平等」という言葉の前には、「ようわからんけど、そうなんや」とひれ伏すしかありません。わかりやすい言葉と情報を行政やマスコミは届けてほしいと思います。①トランスジェンダーとはどういう人たちか。体と心の性が一致しないというのはどういうことか。心に男・女の性があるのか、あるならその基準はどういうものか。誰が判定して認められるのか。男でも女でもないと自認している人や、日々変わるという人はどうなのか。②トランスジェンダーの人たちが受けている差別の実態というのはどういうものか。なぜそれが差別なのか。具体的にどういう言動が差別と想定されているのか。なぜそれが差別なのか。③トランス女性の要求と身体女性の要求が対立したら、どちらが優先されるのか。それはなぜか。④これからは、男と女を区別する基準は身体ではなく「自認」になるのか。そのことで社会はどう変わるのか。


<社会の枠組みが他者に見えない本人の「心の性」を基本に運用され始めている?>
本来、他者の心の中にむやみに介入することは許されないし、感じていることや考えていることは尊重されなければならないのは言うまでもありません。しかし、社会の枠組みに関わってくるとなると話は別です。今の社会の枠組みで男女の違いは大きな基準です。それは生物学的・身体の男女の違いです。誰にもはっきりとわかる基準・科学的根拠があります。しかし、そこに「心の性」という、他者からみえないもの、判断してはいけないものを加えるということです。社会の枠組み(法制度)は、他者を従わせる強制力・権力です。だからこそ、内容や基準が明確に、誰にもわかるように示されなければならないはずです。どういう人々がどういうことをされたら差別になるのか、誰に向かっての、どういう言動が差別として糾弾されるのか、どれだけの人が明確に認識できているのでしょうか。少なくとも私にはわかりません。多くの人が曖昧な認識のまま行政が権力を執行している、という事態が進行している気がします。

<行政が「我々は性暴力被害者救済を重視しない」という態度を
鮮明にした>

ある「性暴力被害者支援グループ」が、行政の助成金を打ち切られたことを知りました。グループが発行したニュースレターの内容に問題がある=「『トランス女性を女性』として認めない内容だ」というのが、打ち切りの理由だそうです。ニュースレターの文章を読んでないので断定はできないのですが、おそらく被害者をはじめとする女性の不安を代弁するような内容だったろうと思います。
そういう場合、本来行政の取るべき態度は「被害者の不安に真摯に向き合い」「丁寧な説明をし」「不安を払拭するような施策を検討する」というようなことではないでしょうか。性暴力の根絶、被害者の救済も行政の大きな施策の柱であるはず。なのに、トランス女性の思いと性暴力被害者の不安を対立させ、一方的に後者を切り捨て、処罰として非常に重い助成金打ち切りというのは、性暴力被害者の救済は行政としては重きを置きません、ということを宣言しているに等しいと思います。
 「女性の安全を大義名分としたトランス排除を許さない」というスローガンを見たことがあります。「トランス女性の性自認の尊重を大義名分とした被害者の切り捨て」は構わないということですね。行政自らが疑問の提出や議論を封じ、いたずらに対立を煽っている、もしくはそういう風潮に加担している、と思わざるを得ません。


<問題の本質は、抗議すると『トランス差別者』とレッテルを貼られる恐怖にある>
 知人とこの問題について話をして、なんとか抗議できないものかと相談しました。すると「このことに抗議すること自体が『トランス差別者』とレッテルを貼られるだろう。それは恐怖だ」といわれたのです。恐怖であるということが、この問題の本質を表していると思います。怖いです。今、私たちにできることはどういうことなんでしょうか。その「支援グループ」へのカンパくらいしかないのでしょうか。
 一緒に考えて欲しい、と思い投稿した次第です。(ひこにゃん)
 
 

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