麦焼酎の源流を探索する

はじめに

今日の九州では、地域によって異なる原料の焼酎が飲まれており、その多様性が焼酎文化の大きな魅力の一つとなっています。
本稿の主役は、このうち、福岡県・佐賀県・長崎県・大分県といった九州北部で高いシェアを誇る「麦焼酎」の歴史です。

出典:国税局「酒類製造業及び酒類卸売業の概況(令和3年調査分)」
※甲乙混和焼酎は除いてカウント

1 麦焼酎は”後発”なのか?

1-1 麦焼酎の歴史に関する通説

当方は、これまで調査研究を行ってきたなかで、原料別の焼酎の歴史について次のよう見解を持っていました。

  1.  焼酎のなかで最古の歴史を持つのは米焼酎であり、その記録は室町時代後期まで遡ることができる。

    • 米焼酎はその後、熊本県球磨地方で盛んに製造されるようになった。

  2.  江戸時代前期から、粕取焼酎が全国各地で製造されるようになった。

  3.  江戸時代中期から、薩摩で芋焼酎が製造されるようになった。 

  4.  江戸時代後期から、壱岐で麦焼酎が製造されるようになった。

    • 戦後、麦焼酎の製造が大分県を中心とする九州全体に広がった。

このうち、「1. 米焼酎」「2. 粕取焼酎」「3. 芋焼酎」については、自ら資料などを読み、ある程度深く理解した上で持っている見解です。
一方、「4. 麦焼酎」については、調査の手が回っておらず、通説に基づくぼんやりとした見解でした。

その通説とは、概ね、Wikipediaの「麦焼酎#歴史」の記載内容にあたります。
少し長くなりますが、主要箇所及び参考文献を引用します。

近代まで
焼酎は16世紀までには九州地方で作られており、壱岐島で年貢の対象外だった大麦を原料として江戸時代後半には当地で麦焼酎は作られていたと考えられている。なお、文献上で確認される壱岐島の焼酎の記録としては、寛政7年(1791年)の『町方仕置帳』に「荒生の焼酎」についての記述があり、これは酒粕を蒸留した粕取焼酎とみられる。
明治に入ると、1883年9月30日付で芦辺浦の島民が長崎県知事宛に送った自家消費用の免許鑑札願に「焼酎0.56石」という記載があり、焼酎について米麹0.16石、麦:0.4石、水0.32石を使うとある事から麦焼酎の生産が明確に確認できる。(後略)

現代以降
1951年に麦の統制が撤廃されたのをきっかけに、麦味噌の生産が盛んだった大分県でも麦焼酎生産の取り組みが本格的に始まった。1954年度の熊本国税局管内の統計では、管内の南九州4県(大分・宮崎・熊本・鹿児島)の本格焼酎(単式蒸留焼酎)生産量23,580キロリットルのうち麦焼酎は1,260キロリットルと約5.3%を占め、大分県と宮崎県の32製造場での生産が記録されている。(後略)
1970年に福岡県の天盃が初めて麦麹による焼酎製造を行うと、1973年に大分県の二階堂酒造、1978年に同じく大分県の三和酒類がこれに続いている。二階堂酒造では大戦後の米不足の中で1951年から雑穀による麹作りに取り組んでおり、1973年に発売した100%麦麹の『吉四六』はすぐに好評を博した。

参考文献(筆者注:上記引用箇所に関係するものを抽出)
戸井田克己「壱岐の焼酎」『近畿大学総合社会学部紀要』第1巻第1号、近畿大学総合社会学部、2011年、3 - 21頁、NAID 120005730097。
岡崎直人、下田雅彦「麦焼酎の技術史」『日本醸造協会誌』第103巻第7号、日本醸造協会、2008年、532-541頁、doi:10.6013/jbrewsocjapan1988.103.532。
目良亀久「壱岐の麦焼酎物語」『日本釀造協會雜誌』第71巻第3号、日本醸造協会、1976年、169-172頁、doi:10.6013/jbrewsocjapan1915.71.169、ISSN 0369-416X、NAID 130004324197。

Wikipedia『麦焼酎#歴史』

要点を書き出すと次の通りです。

  • 麦焼酎のルーツは江戸時代後半の壱岐島である。

    • 但し、壱岐の麦焼酎について明確に記載された最古の文献は、明治時代に入ってからのものである。

  • 戦後の1950年代に、大分県で麦焼酎製造の取組が本格的に始まった。

  • 1970年代に入ると、麦麹を用いた焼酎製造が始まり、各地に広がった。

    • 福岡県の天盃、大分県の二階堂酒造・三和酒類(いいちこ)などが、これらの麦焼酎製造をリードした。

1-2 『大日本租税志』の記述の発見

ところが、先日、「(仮)アル添の歴史・原案】後編:柱焼酎からアル添に至る系譜を探る」の執筆のために文献を読んでいた際、上記の通説と矛盾する記載内容を発見しました。

その文献とは、明治15年に大蔵省が刊行した『大日本租税志』です。
これは、古代から明治13年に至るまでの我が国の租税の歴史を詳しく調査し、取りまとめたものです。
以下、焼酎及び麦焼酎の記述箇所を引用します。

中編第二 自養和(1181)至慶應(1868)
第二十九巻 雑税総録 営業 雑種
 
豊前 焼酎役 麥焼酎役(筆者注:「麥」は「麦」の旧字体)
豊後 
焼酎役
肥前 
焼酎役 麥焼酎役
日向 
燒酎役、麥焼酎役、焼酎屋運上、焼酎屋定納

『大日本租税志』(明治十五年、大蔵省租税局)

平安時代末期の1181年~江戸時代終わりの1168年の間に、豊前・豊後・肥前・日向の四ヶ国で「焼酎役」と「麥焼酎役」が課されたとの記録があります。
このうち「焼酎役」は粕取焼酎、「麥焼酎役」は麦焼酎への課税と考えられます。
記録の対象期間が500年近くにも及び、旧国単位のざっくりした記載ではあるものの、「麦焼酎のルーツは江戸時代後期の壱岐である」という通説を覆す可能性を秘めているのでは…という直感が働きました。

そこで、麦焼酎の調査不足を挽回する良い機会ですし、何より知的好奇心をそそる内容ということで、九州の麦焼酎の史料を探索してみことにしました。

2 前近代九州における麦焼酎関連史料

2-1 室町後期・薩摩国史料

まず、室町時代後期・薩摩国(鹿児島県)の史料を見てみましょう。
我が国最古の焼酎の記録は、1546年に薩摩国山川(薩摩半島の南端部)に上陸したポルトガル商人、ジョルジェ・アルバレスによる報告
だと言われています。
これは「米焼酎」の記録です。

「日本には、米からできたオラーカおよび身分の上下を問わず皆が飲む飲み物がある」
注:オーラカとは、東南アジアの蒸留酒のこと。

ジョルジュ・アルバレス『日本報告』

その13年後に当たる1559年の記録として、鹿児島県伊佐市の郡山八幡神社で「焼酎」という文字が書かれた棟札が見つかっています。

「永禄二歳八月十一日 作次郎 鶴田助太郎 其時座主は大キナこすてをちやりて一度も焼酎ヲ不被下候 何共めいわくな事哉」
(訳:1559年8月11日 作次郎 鶴田助太郎 この時の住職はまことにケチで一度も焼酎をふるまってくれなかった なんとも迷惑なことだ)

郡山八幡神社

鹿児島県といえば芋焼酎…と言いたいところですが、室町時代後期はまだサツマイモが渡来していなかったため、ここに書かれている焼酎の原料は米又は雑穀だと考えられます。
大麦はこの時点で九州で栽培されていたたことから、これが麦焼酎である可能性も否定できません

2-2 江戸前期・対馬国史料

次は、江戸時代前期・対馬国(長崎県対馬)の史料を見てみましょう。
対馬は、通説では「麦焼酎のふるさと」と言われる壱岐の北方にあり、かつて朝鮮半島との交易を担った島として知られています。
城田吉六『対馬の庶民誌』によれば、江戸時代前期の1693年、郡奉行から村々に対して焼酎の製造を規制する通達が出されています。

十四、密造焼酎・山猫の歴史

元禄六年(一六九三)五月二日
郡奉行より八郷(豊崎、佐護、伊奈、三根、仁位、興良、佐須、豆の八郷をさす)への 四十八条の御壁書が出され、厳しい通達が行われた。その四十八か条中の第二十一番目に、
「一、先年仰せつけられ候如く、田舎への酒買い下げまじく候。在々(村々)にて焼酎造り 商売り候由聞き及び候。惣て田舎にて酒商売之儀停止せしめ候間、自然相背く者これ 有るに於ては曲事(処罰)申付くべく候。
縦へ手間遺用(自家用)の焼酎たりといえども麦費に候間、自己以後少宛煎申すべく候。 此の旨、奉役村下知堅く相守り、給人百姓以下まで相背かざるように申し付くべき事」(以下略)

城田吉六『対馬の庶民誌』

最初の太字部分から、当時の対馬の村々で広く焼酎が製造・販売されていたことが分かります。
また、次の太字部分から、麦を浪費するのは良くないので自家用焼酎の製造量を減らすよう命令されたことも分かります。
この焼酎が「麦焼酎」であると言い切ることはできませんが、対馬は山がちの地形であり米が貴重であったこと、当時はまだサツマイモが日本に伝来していなかったこと等を踏まえれば、麦麹に麦を掛けた麦焼酎である可能性は十分にあると思います

なお、余談ですが、サツマイモが伝来した後、対馬では麦麹にサツマイモを掛けた「山猫」と呼ばれる密造焼酎が、盛んに作られるようになっていきます。

2-3 江戸中期・肥後国球磨地方史料

少しだけ時代を進めて、江戸時代中期・肥後国(熊本県)球磨地方の史料を見てみましょう。
高田素次氏の論文「球磨焼酎のふるさと」に、次のような記述があります。

宝永7年(1710)の『巡見使応対之覚』という記録によると, 「酒屋数何程これあり候や」とのお尋ねに対し, 「20軒ござ候。此の内に大畑村と申す所に2軒ござ候」と申しあげている。
(中略)「酒造米は何程にて候や」とのお尋ねに対し, 「345石にて候」と申しあげたところ, 「それは一人前にて候や」との重ねてのお尋ねだったので, 「惣酒屋中にて右の通りに候」と申しあげたところ, それでは少なすぎるではないか, 「合点参らず」と仰せになったので, これは寒までにて,春夏秋の雑穀にて焼酎を調え, 何も不足はござりませぬと申しあげたと見えている。
また,酒の値段はいかほどかとのお尋ねには, 「当分の酒は一升一匁六分仕り候時分は酒少なく御座候故, 麦焼酎など用い申し候」と申しあげたとある。

高田素次「球磨焼酎のふるさと」(論文)

「春夏秋の雑穀にて焼酎を調え」、「時分は酒少なく御座候故、麦焼酎など用い申し候」との記載から、江戸時代中期には、球磨地方で既に麦焼酎が製造されていたことが伺えます。
前出の『大日本租税志』にあった「肥後 麥焼酎役」は、この焼酎への課税だったのかもしれません。

2-4 江戸前期~後期・日向国史料

次は、江戸時代の日向国(宮崎県)の史料を見て行きましょう。
喜田貞吉『日向国史 下巻』の記述に、焼酎が三か所出てきます。

 まず、江戸時代前期の寛永十八年(1624年)の記述です。

寛永十八年、諸縣郡本庄村諸運上、田畑小作入立、質入直段左の如し。
(中略)
運上銀
三十五匁 焼酎屋運上
十六匁 焼酎役不定

喜田貞吉『日向国史 下巻』
第九節 德川時代史 第八章 幕領史  第三節 租稅及び物價

「焼酎」とあるものの、その種類は書かれていません。
諸縣郡本庄村(現:国富町本庄)は、川沿いにそこそこ大きな平坦地があり、稲作・清酒醸造・粕取焼酎製造が行われていた可能性も否定できません。

二箇所目は、江戸時代後期の天保年間(1831~1845)の記述です。

左に天保年中、臼杵郡内諸村の田租雜稅を示す。以て他を類推すべし。
〔臼杵郡七ヶ村明細帳〕
(中略)
鹽見村
一、銀四匁 焼酎役不定

喜田貞吉『日向国史 下巻』
第九節 德川時代史 第八章 幕領史  第三節 租稅及び物價

ここでも、焼酎の種類が書かれていません。
臼杵郡鹽見村(現:日向市塩見)は概ね山間部であり、稲作・清酒醸造・粕取焼酎製造は難しそうだと感じられます。

三箇所目は、江戸時代後期の安政5年(1860年)の記述です。

安政五年、兒湯郡幕領諸村不定小物成銀は左の如し。
岡富村
  七匁八分 麥燒酎
黑生野村
 十九匁四分 五人 麥燒酎
右松村
 十壹匁六分 三人 麥燒酎
三宅村
 十九匁四分 二人 麥燒酎
清水村
 五匁五分 麥燒酎
調殿村
 三匁八分 麥燒酎
穂北村
 七匁六分 總代 麥燒酎
南方村
 十壹匁四分 三人 麥燒酎

喜田貞吉『日向国史 下巻』
第九節 德川時代史 第八章 幕領史  第三節 租稅及び物價

ここは明確に「麥焼酎」と書かれています。
兒湯郡は、現在の宮崎県高鍋町・西都市・西米良村などを含むエリアで、全体的に山がちで、稲作の適地は限られています。

以上から、少なくとも江戸時代後期には、宮崎県北部の山村で麦焼酎が製造されていたことが分かります。
前出の『大日本租税志』にあった「日向 麥焼酎役」は、この焼酎への課税だったのかもしれません。

2-5 前近代九州の麦焼酎記録の分布

このように、室町時代後期~江戸時代の麦焼酎記録を探索・整理してみると、従来からの「麦焼酎の源流は江戸時代後期の壱岐である」という通説に疑問が生じます。
九州の麦焼酎の源流は「より古く、より多彩」であり、他の焼酎と比べて必ずしも“後発”ではなさそうです

また、同時に気になることがあります。
それは、室町時代後期~江戸時代の九州における麦焼酎記録の分布が、明らかに山村に偏っていることです

後にもっと詳しく書きますが、この時期、筑後平野などの平地で米と大麦の二毛作が広く行われており、麦味噌などの発酵技術も普及していました。
また、蒸留技術についても、山村よりも平地の方が先に伝来している可能性が高いと考えられます。
それにもかかわらず、記録が山村に偏っているのは何故でしょうか?

次項では、この謎に迫っていきたいと思います。

3 前近代九州における麦焼酎成立過程の考察

3-1 九州における大麦栽培・利用

麦焼酎の成立について考察するための基礎として、まず大麦の歴史を簡単に整理します。

九州最古の大麦栽培の痕跡は、縄文時代にまで遡ります。
佐賀県唐津市の菜畑遺跡における縄文時代晩期の層から、炭化米、ソバ種子などと共に、大麦の痕跡が出土しています。
鎌倉時代から室町時代には、九州を含む西日本各地の平地で、夏(表作)は水稲、冬(裏作)は大麦などを栽培する二毛作が広がりました。
また、大麦は乾燥や寒さに強いため、山村の畑作・焼畑の作物としても広く栽培されていたようです。
少し時代が下る文献となりますが、昭和初期の古老への聞き書きを取りまとめた『日本食生活全集』の記述でも、二毛作地帯では大麦が二番目に重要な穀物、米がとれない場所では大麦(裸麦を含む)が主要作物の一つとして、多くの場所で顔をのぞかせています。
このように、室町時代後期~江戸時代において、九州の平地のみならず山村も含めて、大麦が広く栽培されていたことは確実です

また、大麦は直接食べるだけではなく、古くから発酵食品としても利用されてきました。
麦麹(大麦麹)と大豆を原料とする「麦味噌」は、米があまり取れない九州、愛媛県、山口県で発展してきたもので、江戸時代には既に九州で製造されていた記録があります。
また、江戸時代の芋焼酎の製造、どぶろく製造などにおいても、麦麹を使用したいたことが伺える記録もあります。
このように、室町時代後期~江戸時代の九州においては、大麦麹が広く普及していたと考えられます

3-2 九州山村への蒸留技術の伝来

では、蒸留技術はどうでしょうか。
これまで再三書いてきた通り、日本への蒸留技術の伝来は室町時代の後期が有力だと考えられるものの、時期・伝来ルート・担い手などについて、決定的な証拠は見つかっていません。
ここでは、あくまで「傍証」として、蒸留技術の源流と考えられる諸地域(中国・朝鮮・琉球・東南アジア)と九州各地とのつながりを探っていきます。

まず注目したいのが、室町時代後期(戦国時代)~安土桃山時代における「中国人・朝鮮人の九州移住」です。
九州の各地には「唐人町」と呼ばれる、かつて中国人・朝鮮人の移民又は長期滞在者が暮らした街が分布します。
森勝彦『九州の港と唐人町』から、図とリストを転載します。

森勝彦『九州の港と唐人町』p10
森勝彦『九州の港と唐人町』p11

唐人町が形成された時代は様々ですが、後期倭寇が盛んだった室町時代~南蛮貿易が盛んだった安土桃山時代にルーツを持つ町が最も多いと考えられています。

個別の町としては、内陸深くにある熊本県人吉の唐人町(現:七日町)が注目されます。
そのルーツは、豊臣秀吉の朝鮮征伐(文禄・慶長の役)で加藤清正に従軍して渡海した相良頼房が、陶工などの技術者を捕虜として連れ帰り、人吉城の川を挟んで向かい側に住まわせたことにあります。
この朝鮮人移民の中に焼酎の蒸留技術を持った人物がおり、彼らが当地にそれを伝え、球磨焼酎の発展に大きく貢献したという伝承がありますが、真偽は定かではありません。

唐人町以外にも、中国人・朝鮮人の移住の事例があります。
それは、九州の「釜炒り茶」の伝来にまつわる移民です。
緑茶の製造工程では、茶葉を酸化・変色させる酵素を失活させるため、加熱処理が行われます。
その方法は、日本で主流の「蒸し」と、中国・朝鮮・九州の一部で見られる「釜炒り」の二種類があります。
後者の釜炒り製法は、蒸し製法とは別のルートで、中国・朝鮮から九州に伝わりました。

一つは、中国から佐賀県嬉野への伝来です。
その歴史は、1440年(室町時代中期)に中国大陸から移住した人物により、嬉野町上不動皿屋谷で自家用に栽培されたのが始まりで、1504年(室町時代後期)には明から渡来した陶工・紅令民(こうれいみん)が、南京釜を持ち込み、釜炒り茶の製法を伝授したと言われています。
つまり、室町時代の後期、中国人移民によって嬉野で本格的な釜炒り茶の製造が始まったとの伝承があるということです。

もう一つは、朝鮮から熊本県南部・宮崎県北部への伝来です。
こちらは、豊臣秀吉の朝鮮征伐(文禄・慶長の役)で加藤清正が連れ帰ってきた大工・石工・左官などの技術者が伝えたと言われています。
つまり、安土桃山時代、朝鮮人移民によって熊本県南部・宮崎県北部で本格的な釜炒り茶の製造が始まったとの伝承があるということです。

以上の「唐人町」と「釜炒り茶伝来」の事例から、蒸留技術の伝来が有力視される室町時代後期から安土桃山時代において、中国・朝鮮から九州への技術者の移住が見られ、その一部は山村にも及んでいると言えます。

3-3 “山の焼酎”としての麦焼酎

以上を踏まえ、前項の末尾で提起した「麦焼酎の記録が山村に偏っているのは何故か?」という問いの答えを考えてみます。

平地の米麦二毛作地帯(筑後平野など)では、江戸時代から粕取焼酎が広く製造されてきた記録があります。
これは、「稲作→清酒醸造→粕取焼酎蒸留→蒸留粕の農地還元」というサイクルの一端を成すものです。
そして、主力作物である米は、徴税(年貢)対象、酒造米、そしてハレの日などの特別な食べ物となりました。
一方、平地における大麦は、農民たちの日常の食用(麦飯など)に振り向けられました。
それ故、焼酎原料に振り向けられる余裕はなく、また、仮に麦焼酎が造られていたとしても、徴税の対象とはならなかったため記録が残っていないと考えられます。

ちなみに、麦焼酎の本場として知られる壱岐は平坦な島であり、古くから稲作が盛んでした、
江戸時代の壱岐に麦焼酎の記録が残っていないのは、このような背景があるからではないでしょうか。

これに対して、米があまり取れない山村では、事情が大きく異なります。
大麦が食用・酒造用として重きをなし、その一環として麦焼酎が製造されるようになったのです。
そして、米だけでは税収が不足し、麦焼酎製造など多様な生業への課税が行われたため、その記録が残っていると考えられます。
宮崎県北部の山村や、急峻な地形の対馬において、麦焼酎の記録が見つかるのは、このような背景があるからではないでしょうか。

ここに、前近代の“里の焼酎”としての粕取焼酎、“山の焼酎”としての麦焼酎という極めて興味深い構図が浮かび上がってきます。
もちろん、この構図は万能ではなく、肥後国球磨地方の米焼酎、薩摩国の芋焼酎など、例外があることは言うまでもありませんが。

4 今日の麦焼酎に至る系譜+α

最後に、今日に至る麦焼酎に至る系譜と関連情報について考察・整理します。

4-1 現代の麦焼酎とのつながり

今日、麦焼酎の原料である大麦は、福岡県・佐賀県の筑紫平野、大分県の中津平野など、平野で稲の裏作として栽培されています。
つまり、江戸時代まで”山の焼酎”であったはずの麦焼酎が、今日ではすっかり”里の焼酎”となっているのです。
これはなぜでしょうか?

江戸時代に”里の焼酎”であった粕取焼酎は、戦後になると、消費者の嗜好の変化や化学肥料の普及などによって衰退していきました。
一方、平地で水稲の裏作として栽培されてきた大麦は、近代以降の米の増産と米食の普及によって食用需要が減少し、焼酎の原料へと転用されていきました。
こうして、近代以降の食文化の変化によって、九州の“里の焼酎”が、粕取焼酎から麦焼酎に変化していったのです。

今日、九州北部の福岡県・佐賀県・長崎県・大分県では、麦焼酎が圧倒的なシェアを占めています。
これらの麦焼酎は、単純に前近代の山村の麦焼酎を継承するものではなく、どちらかと言えば新しく創造されたものです。
一方で、原料の種類を問わない焼酎全体の歴史、その前提となる麹など発酵文化の歴史、さらには九州の食文化や社会などの歴史を踏まえれば、過去の系譜から決して断絶したものではないと言えるでしょう。

4-2 ”山の焼酎”の意外な後継者

それでは、“山の焼酎”としての麦焼酎のその後はどうだったのでしょうか。

戦後、九州の山村文化は、現代文明の波及によって大きな影響を受け、麦焼酎の製造を含む伝統的な生活・生業は衰退していきました。
しかし、そんな中で、歴史ある“山の焼酎”の系譜に連なる「麦以外」の焼酎があります。

それは、宮崎県のそば焼酎です。
その歴史は、昭和48年(1973年)、宮崎県五ヶ瀬村の五ヶ瀬酒造が「そば焼酎・雲海」を発売したことに始まります。
五ヶ瀬村は宮崎県で最も山深い場所の一つであり、現在でも伝統的な山村の生活文化が辛うじて残されている場所の一つです、
そうした背景を踏まえ、最初にとうきび焼酎、続いてそば焼酎が開発されたのです。
五ヶ瀬酒造は後に雲海酒造と改称し、今日では九州有数の焼酎メーカーに成長しているのですが、そのルーツが”山の焼酎”にあることはとても興味を惹かれます。

おわりに

ふとした資料の発見から始まった調査・検討でしたが、想像以上に広く展開し、九州焼酎文化の懐の深さを感じさせる結末に至りました。
正調粕取焼酎から始まった本noteの探求ですが、思いがけず大手有名メーカーにまで話題が及び、大分の麦焼酎「いいちこ」と「二階堂」、宮崎県のそば焼酎「雲海」なども登場してきました。
もはや、全ての九州の焼酎は系譜を同じくする「兄弟」だ!!!
そんな感動に浸りつつ、ここで終わりにしたいと思います。

参考文献

戸井田克己「壱岐の焼酎」『近畿大学総合社会学部紀要』第1巻第1号、近畿大学総合社会学部、2011年
岡崎直人、下田雅彦「麦焼酎の技術史」『日本醸造協会誌』第103巻第7号、日本醸造協会、2008年
山内賢明「壱岐焼酎の歴史と本格焼酎業界の抱える課題」『日本醸造協会誌』第104巻第10号、日本醸造協会、2009年
目良亀久「壱岐の麦焼酎物語」『日本釀造協會雜誌』第71巻第3号、日本醸造協会、1976年
重久政範「壱岐の麦燒酎について」『日本釀造協會雜誌』第52巻第3号、日本醸造協会、1957年
『大日本租税志』大蔵省租税局、1883年
高田素次「球磨焼酎のふるさと」『日本釀造協會雜誌』第82巻第9号、日本釀造協會、1987年
城田吉六『対馬の庶民誌』 葦書房、1983年
喜田貞吉『日向国史 下巻』史誌出版社、1929年
『日本の食生活全集 聞き書福岡県・佐賀県・長崎県・大分県・熊本県・宮崎県・鹿児島県の食事』農山漁村文化協会、1986年
森勝彦『九州の港と唐人町』海鳥社、2021年
坂本孝義「日本の釜炒り茶」『茶業研究報告』125 1~6(2018)

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