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報徳記念館・二宮尊徳生家を訪問、現地でエネルギーを感じてきた


「入るを量りて出ずるを制す」

これは、二宮金次郎(尊徳)の言葉として知られていますが、個人のマネーリテラシーから、企業の経営再建、また地方の地域再生等も含め、全ての土台となる考え方になるものだと思います。

恥ずかしい話ですが、木下さんのVoicyを聴くまでは、二宮金次郎と言えば、小学校にあった薪を背負って本を読んでいる銅像のイメージしかなく、そんな不遇な環境の中でも、努力家な人ぐらいの理解して持てていませんでした。



まさか、江戸時代後期に、農家でありながら、こんなアントレプレナーシップを持った実業家がいたなんて全く知らず…。

上記木下さんの二宮尊徳の連続放送を聴いてから、二宮金次郎という人物に興味が沸き、彼のお弟子さん達によって書かれた「報徳記」を読み、更に深く知りたいという気持ちが強まりました。

その結果、彼の考え方にばっちり染まってしまい、実際の現場に行ってみようと思い、二宮金次郎の故郷である小田原にとりあえず行ってきました。

私も含めてですが、恐らく木下さんのVoicyリスナーの方にとって、「二宮金次郎」という存在が、気になられてる方も多いのではないかなーと…。

ということで、訪問記がてら、思ってことや感じたことをnoteしたいと思います。



〇小田原到着 ⇨ 報徳博物館


実は、当初の計画では“尊徳記念館”ではなく、小田原駅に近い”尊徳博物館”の方に行こうと思ってました。

で、テクテクと駅から歩いて辿り着くと、GWの振り替え休館日でまさかのお休みww

微妙に雨も降っていたのでさらにガーン…。
(というか、行くなら事前に営業日ぐらい調べろって感じですよね 笑 そのあたりだいぶ適当なのがジブンです)

小田原は自宅からそこまで遠くないとは言え、折角ここまで来て撤退というのも何なので、もう一つ別にある”尊徳記念館”の方に行ってきました。

結果的には、こっちに来てめちゃくちゃ良かった!
(ただこちらの場所は、小田原駅から各停電車で6分かかり、でも20分に1本ぐらいしか電車が来ない、加えて降りた駅から徒歩10分ぐらいとちょいと距離があるのが難点)

そして、ちょっと話しは逸れますが、GWは全く遠出をしてなかったので分からなかったんですが、小田原駅は、外国人観光客だらけでかなりビビりました。

たぶん箱根登山鉄道に乗って、箱根に行くものと思われますが、それにしてもすごい数。完全にインバウンドは戻ってることを実感。

ちょっと眺めてたら、外国人の方々は、結構な割合で新幹線が通過する動画を駅のホーム上で撮ってました。あんなに速いスピードの電車が、数分おきに通過なんて他の国ではあまりないから、珍しいんだろうなーと。

報徳記念館


〇報徳記念館に到着


そんなこんなで、電車(小田急)⇨ 徒歩で、報徳記念館に到着。たぶんGWの中日で、午前中の早い時間帯にここに来るお客さんはそうはいないだろうなーと思ったら、案の上、訪問者は私のみ 笑。

これはラッキーで、貸し切り状態のまま、説明員の方が付いてくれ、マンツーマンで細かく丁寧に説明して下さったのが、大変ありがたかったです。

よくありがちな、御年配のおじいさまが説明員ではなく、比較的若い方(多分60代?!)が説明してくれたのも良かったです。あの内容を無償でやってしまってるのは勿体無いなーとも思うし、適正な説明料を支払っても良いと思えるきちっとした内容でした。

何よりそもそもの入館料が200円というのもどう考えても安すぎ。もっと値上げしていきましょう…。

というのも、この記念館の展示の作り方が非常に良かった。二宮金次郎の生い立ちをパネル説明に加えて、生い立ちアニメ(5分×5箇所=合計25分)も流してあるので、説明員の方の説明を聴かなくても、大体の内容が頭に入る感じでした。

説明員の方によると、ここ小田原の地元の小学校(報徳小学校等)では、小学4年生から”報徳記念館”を社会見学の場として訪問していることで、こういった分かりやすい作り(アニメ)をしているとの事。

小学生の内から、同郷の偉人による功績を知ってもらうのは、非常に良い取り組みだなーと感じました。

小学生だけでなく、この報徳記念館には、ベンチャー企業の社長や経営幹部、また企業研修の一環として数多くのビジネスパーソンが訪問し、二宮尊徳の生涯を振り返り、その教えや彼の生き様からエネルギーを感じに来ていると、説明員の方が熱く語ってくれました。


パネルとアニメで説明


〇 二宮金次郎とはどんな人?


さて、二宮金次郎の人生を振り返って、一言で表すと、ただただ”とことんストイック”という事に尽きると思います。

自分自身への厳しさはもちろんの事、村を貧困から変えたいと思うなら、村人全員が本気で態度を改め、その境地に達するまでは、断じて改革を実行しない等、とにかく徹底していました。

ストイック例①:
薪を集めて町で銭を稼ぎ、自ら菜種を育て油を買って、勉学を続ける生き様

二宮金次郎は、16歳にして両親を亡くし、一家離散となり、金次郎は親戚の叔父さんの家に預けられる事になります。金次郎は、ジブンが体験した事と学問を、どうにか結び付けようと考えていたため、農家を続けながらも、何としても勉学もやっていきたいと思っていました。一方の叔父さんは、「農家は、農業の事だけ一生懸命にやれば良く、本など要らん。夜な夜な本を読むために、油を無駄にする事は許さん!」との姿勢。

困った金次郎は、であれば、ジブンでできることは何かと考え、まずは村の入会地に入れさせてもらい(子どもという事で)、自ら薪を集めて、町まで行って銭を稼ぎました。当時の家庭では、薪を飯炊き等のエネルギーとして頼っていたため、価値があった。この辺り、ただモノを売るのではなく、きちんと経済合理性を分かっている金次郎少年は、さすがですね

そのお金で、近所で菜種を購入し、自ら育て、油と交換することで、日中は農作業をやりながらも、夜中に油で火を灯して勉学が続けられるようになりました。

更には、捨てられていた植え残りの苗を拾い、荒れ地を開墾して植え、育てることで、数十倍もの籾の収穫となって返ってきた事を経験し、小さい事でもコツコツと努力をやり続ける事が大切という「積小為大」という考え方の原点になったわけです。

10代の若者が、この状況下で、ここまでやる決断力と実行力は、凄まじいものがありますよね。

また話がそれますが、寝る前に子どもに本を読んであげる際、この本を読んでた時があって、スケールは違えど、ジブンが成しえたいことのために、まずはジブンがやれることを徹底してやっていくというスタンスは変わりないのかなーと思いました(良い本なので、結構好きです)




ストイック例②:
小田原藩家老の服部家の財政破綻を立て直しに成功した後、苦労して築き上げた資産を投げ売って、藩主・大久保忠真の命令を受け、桜町(栃木県)を復興しに旅立つ。

如何に上司の命令とはいえ、何も所縁もない、見ず知らずの土地に行って立て直して来いと言われても、中々できない決断ですよねー。

金次郎としては、農民であるジブンがそんな大事な仕事をやるわけにはいかないと、3年間ほど固辞し続けたものの、断り切れず、まずは土地の様子を見させて欲しいと藩主に頼んだそうです。

この辺りも、現実的に復興が可能かどうか、ジブンの目で確かめ、必ず見通しをもった計画でなければ成功しないというスタイルを貫き、常に状況を分析し、数値からモノゴトを判断して、実行するかしないかの決断をするところが、非常に堅実的な手法だなーと感心します。

加えて、桜町では当時4千俵の年貢を納める必要があったそうですが、向こう10年間、復興するまでは1千俵程度の年貢にしないと今の現状からは復興に辿り着かないと判断し、藩主に進言をして、これを呑んでもらったとの事。状況判断が極めて優れていますよね。

説明員の方曰く、訪問された経営者の方の多くが、全財産を投げ打って、また桜町で始めからやっていくこのストーリーに、非常に感銘を受けるようです。



ストイック例③ :
成田山新勝寺へ断食修行

藩主・大久保忠真の分家である宇津家の桜町に赴任した金次郎は、宇津家当主の弟である横山周平の協力のもと、復興事業に着実に進めていきました。
基本は、小田原藩で行っていたやり方(贅沢はせず、質素・倹約に努め、余ったお金で次の仕事に投資する)を踏襲して、桜町でも行っていました。

農民の勤労意欲を失わせないように、搾取しない。(=分度 ぶんど)
 → 農民の実情を調べあげた上で、無理のない範囲の年貢米を設定。
・助成金の拒絶
 → 農民の自助努力を促すため。
・適切なアドバイスと報償
 → 農業や家計の生産性改善に関わるアドバイスをほどなく実施。良く働いた農民には褒美をあげた。
・復興後、余った米を宇津家へ戻すのではなく、農民に還元し、石高を増やせるように農具等の投資に回した(=推譲 すいじょう)

ところが、横山周平に代わって赴任された豊田正作は、金次郎と考え方が合わず妨害をし、さらには農民との関係性も悪くなってきてしまいます。

失意に落ちた金次郎は、行方をくらませた後、成田山新勝寺で断食修行を実施。不動明王と対座し、「今までは、自分は頑張ったと自分の事しか見えていなかった(半円)。世の中には、自分と反対のものがある事をもっと考えるべきであった(一円)。自分には真心が足りなかったんだ」と、太陽と月との関係性のように、互いに働き合い一体となっている考え方を見出し(一円融合という考え)、段々と自信を取り戻していきました。

この断食の話し、やっぱりこれが金次郎のストイックさを際立たせる話しなんだと思います。ここまでジブンを追い込むことができる人間はそうはいないと思います。絶対に成し遂げたいという強い思いが無いと、継続できないことだと思います。

断食修行を経て、論語にある「徳をもって徳に報いる」との考えの通り、「万物にはすべて良い点(徳)があり、それを役立てる(報いる)」という考え方が生まれ、そこから報徳と名付けられたとのことです。

不動明王と対座するこのシーンで、小学生は怖くて泣いちゃうみたいですw たしかにちょっと怖いかも。

不動明王との対座シーン


ちなみに、二宮金次郎によって復興を成しえた桜町は、町の名前も二宮町(にのみやまち)に改名しましたが、平成の大合併で、真岡市(もうか)となってしまいました。


◯なぜ、そこまでストイックになれたのか?


少年時代に父・母を無くし、家を売って兄弟達とも離れ、一家は離散。そこには、「どうにか二宮家を取り戻したい」という強い思いがあったんだと思います。そして、たとえこのまま一生懸命に農家をやったとしても、どうやっても資金面からは、二宮家を取り戻せない。

だからこそ、鉄の意志を持って、まずはジブンの頭で考え、できることを実直に実践していったのです。

例えば、病床の父に代わって10代で土手の作業をやらされていた際、どんなに頑張っても大人一人分の工数にはなれない、だから、草鞋の鼻緒が切れてしまっている大人たちの草鞋を自らが編んで配ることを思いつき、別の形で自分が力になれることを考えて実行。

また、荒地を開墾して稲を植えれば、しばらくの間は年貢がかからなかったことに目を付ける等、ジブンを取り巻く環境において、使える制度は確実に使う等、とことん現実に即した方法で実践していった事も、金次郎の特徴的なやり方だったんだと思います。

つまりは、「ジブンにできる計画を着実に実行し、余った資金を将来に貯め、みんなのために役立てていく」、そのために、彼自身が説いた”勤労”、”分度”、”推譲”の考え方が土台にあり、そこには、「武士も農民も商人も、皆が安心して幸せに暮らしていけさえすれば良い」という、至誠という”まごころ”があったからこそ、金次郎はここまでストイックになれたんだと思います。

これって、本質的には、江戸時代でも今でも変わらないポイントであり、木下さんが、地方創生で訴え続けている”公民連携”という形を、まさに200年前に実践したのが、二宮金次郎なんだと思います。

二宮金次郎が亡くなった後も、彼の考え方を受け継いだ弟子達が、日本各地で活躍し多大な影響を与えたように、現代においては、ナウシカのユパ様のように日本各地を渡り歩いて再生させている木下さんから、ひとつでの多くのことを学び、ジブンにできることからまずは実践していけば、間違いなく良い方向に向かうものと思っています。
(きっと多くの木下ファミリーの皆さんは、そのように思われ実践されているんじゃないでしょうか)

ただ、仕事一本で家庭を顧みず(前妻に対して)、ストイックに走り過ぎてしまった金次郎のこの部分は真似せず、何事もバランスを持ってやりたいところです 笑


尊徳の教え



◯ちょっとした小話 by 説明員さん


説明員さんから教えてもらった話が色々と面白かったので、最後にちょっと載せたいと思います。

① 二宮金次郎の生家
昭和34年(1959年)までこの生家に住まわれていた方のおかげで、昭和35年に戻ってきた時点では、家としてはそこまで傷んでなかったとのこと。
また、金次郎が、18歳の時にこの家の測量図を作っており、その測量図をもとに、復元を行ったとのことです。梁等は同じであり、金次郎が住んでいたこの家から、息吹やエネルギーは感じられると思います。

昨年3月に屋根の茅をかえたそうで、全部取り換える場合、3000万円程費用が掛かるそうです。この家の茅は、富士の裾野から持ってきているとのことで、もう日本でもあまり取れる場所がなく、また当然ながら、職人さんも不足しているため、人材確保も難しく、かなり費用がかかるようです。

茅葺の屋根自体は、30年程持つそうなのですが、昨年取り換えた際は、17年目で部分的に取り換えて、費用を抑えたそうです。重要文化財であり、県も半分ぐらい費用をもってくれたとのことですが、こういう話を聞くと、尚更もっと入館料を値上げした方が良いのでは?と思ってしまいます。

当然ながら、火がつくとすぐに燃えてしまうので、消防法の関係で、スプリンクラーで火を消せるような仕組みになっているとのこと。


二宮金次郎の生家


② なぜ酒匂川は氾濫しまくっていたのか?

宝永の大噴火で、小田原あたりでも灰が40-50cm積もり、酒匂川の上流の御殿場あたりは2-3mまで積もったそうです。雨が降るたびに、上流から流れてくる土が下流の小田原まで流され、川が底上げされて、しばしば川の氾濫が起こりやすくなってしまったことが原因でした。

酒匂川の氾濫を説明


③ 昔の東海道線は御殿場経由だった

明治から大正まで、熱海に続く丹那トンネルができる前は、御殿場線が東海道線になっていたとのことです。1889年に新橋-神戸間に蒸気機関車が結ばれると、国府津を抜けた後は、箱根の北側を抜けて、富士山方向に向かう道が取られ、御殿場経由を通るルートになったことがきっかけ。なので、その当時は、松田あたりから川を渡って、足柄平野や小田原あたりに来ていた。

周辺地図


④ ミキモトパールの創始者、御木本幸吉さんが、金次郎の生家を買い戻した

二宮尊徳を尊敬していた御木本さんは、生家が他人の手に渡り移築され、生誕地が荒れ果ててしまっている事を知り、全部買い求めて、寄付してくれたそうです。明治4年(1909年)の出来事。本当に色んな人に影響を与えていますねー


⑤ 映画 二宮金次郎
地味すぎて、ロードショーではやっていないとのことですが、映画があったとは知りませんでした。キャストを見ても、中々の豪華な布陣。

映画『二宮金次郎』公式サイト - 二宮金次郎の激動の生涯を映画化!全国各地の市民会館・公民館等の各施設で上映予定 (ninomiyakinjirou.com)


⑦ お弟子さん達のお話

二宮 尊親(にのみや たかちか):
尊徳のお孫さん。十勝地方の開拓に貢献、十勝では神様と呼ばれているそうです。一昨日、わざわざ十勝から尊徳記念館に訪問された方がいらっしゃったとのこと。明治政府と反りが合わず、兵庫に移った後、報徳学園の校長を務めた。報徳ってそこからきていたこともいざ知らず。ちなみに、毎年9月に報徳学園の学生さん達が、この記念館を訪れる恒例行事になっているとのこと。

岡田 良一郎 (おかだ りょういちろう):
掛川の豪農であり、信用組合のもとになる遠江国報徳社を設立し、大日本報徳社へと発展。後に衆議院にもなられたそうです。なので、静岡からもかなり多くの方が来られるみたいです。

大友 亀太郎(おおとも かめたろう:
札幌市の開拓に貢献。市内を流れる創成川を測量し、堀を作った。札幌では有名で銅像もあるそうです。

二宮尊徳と弟子達


⑧ 報徳記念館ならでは、展示物
・尊徳の直筆が3本。(忙しくてほとんどの書物を弟子が書いていた)
・毛髪を展示
・肖像画
(本人は肖像画を嫌っていたそうですが、話しているところを隠れて画家の方に描いてもらってらしいですw)


ではでは、今日も一日頑張っていきましょうー!

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